「向き合う、ということ Iさん
6月3日からの続き
漁場に着くと、慣れた手さばきで網が引き上げられて行った。引き上げた網を、船に備えたロープで固定する。くるり、と片手が小さく動かされると結び目が出来、網をつないだ。
港で生きていることがよくわかる技だった。安藤さんが流されながらもケーブルをつかみ、助かることが出来たのも、この手の動きだった。海はどうしようもなく荒ぶることもあるが、普段から生き残る力を与えてくれているような、そんなことを思っていた。そんなことを思ううちに、考えていたよりゆっくりと、魚は網に追い込まれていった。おこぼれにあずかろうと、海鳥もよってくる。網が狭くなり、銀の魚体がみえるようになってきた。大きなエイもかかっている。エイは見ている方はおもしろいが、売り物にはならないので邪魔者である。本日は残念ながら大漁とは行かなかった。それでも、昨日や一昨日の夕食に並んでいた魚たちが引き上げられていくのは見応えがあった。早起きしてよかった。すっかり日が昇った帰りがけには、昨晩遊佐さんが言っていたような沖から見る港の景色が見えた。なるほど、林の途中が急に崖になっていたり、岩肌が崩れた跡があちこちの岸に見えた。地盤が沈んでしまい、かさ上げしたという港の様子もよく見えた。ガレキ処理の船で運びきれず、浜に一つ残されたコンテナがぽつんとたたずんでいた。おそらく、何か起きない限りはずっと置いておくしかないのだろうと遊佐さんは言っていた。誰も行かない浜の、たった一つのガレキである。ガレキの一部は既に拒絶も排除もされない、風景になりつつあるのだと感じた。港に戻り、魚を降ろす。放射性物質の基準値を超えた例があるというので、フグだけ海に投げ返された。食べればおいしいが、原発事故後に新たに出来た基準値が厳しいために食べてはいけないのだという。この基準値は、事故前や、海外のものよりずっと厳しいという。理不尽なものだ。そんな会話を、急に引き上げられて浮き袋の調子が悪いのか、なかなか海に沈めずにいるフグを皆でしていた。
最終日は民宿の方々にお礼を言いつつ、荷物をまとめバスに乗り込んだ。合宿の最後の見学先、大川小学校に向かった。児童・教職員84名が亡くなった場所である。バスに乗り、北上川に突き当たる。何も無い、何も無くなってしまった河原の途中に、大川小学校はあった。バスから降り、建物を直視したときの気持ちは、これでは何も考えてないのと同じだが、言葉に出来ないものであった。2クラスは入る広い講堂や、カーブを描いた校舎。体育館の前には扇形のステージと客席がある。確か、戦後に流行した円形校舎の利点を詰め込んだ、1980年頃らしいモダンな建築だ。かつてはきっとユニークな、楽しげな校舎だったのだろう。しかし、鉄筋コンクリートの渡り廊下はねじれるように折れ、倒れている。壁が引きはがされ、教室は剥き出しになっている。ガレキはきれいに取り除かれてしまったが、がらんと骨組みが残されたその姿は、突然にして失われたすべてを思わせ、吸い込まれてしまいそうな悲しみをたたえていた。何か、気持ちを表さなくては。そう思い、校庭に設置された慰霊碑と、祭壇の前で黙祷をささげた。大川小学校は被災した直後、西にある山に登るか、近くの橋のたもと、小高い三角地帯を目指すかで迷い、結果として多くの命が失われたという。その判断が、迷いが糾弾されてしまった。なぜ、山に登るというただそれだけのことが出来なかったのか、この地で生き延びる知恵を忘れてしまったのかと。しかし、この校庭に立つと、何を責めることもできないと思わされた。まず、津波が登ってきた北上川は堤防に隠れていて、校庭から見ることはできない。さらに、読んだ本によると、県の災害予測ではここまで津波が来ることは無いとされていたのだという。これでは、水辺に建っているという意識が薄れてもおかしくはないだろう。だいたい、隣にあるのは海ではなく、川なのだ。誰が津波に襲われると思うか・・・。目指していた三角地帯は結局津波に吞まれてしまった。だから山にのぼるべきだったと言われているが、対案であった山側も、子供が登れそうには見えない・・・。では、どうすべきだったのかといえば・・・。建物の上に逃れればいいのだろうか。しかし、この学校には屋上が設計されていない・・・。きっと、時間のすべてを使って、山道を何としてでも登るか、出せる車すべてに児童を乗せて迅速に川上を目指すか、といった道しか残されていなかったのだと思う。そもそも、何十年もここで生きてきた人々を裏切るような大災害だったのだから・・・。何を言っても、失われたことを何も変えることができない。無力感に打ちのめされた。何かできることがあるとすれば、ここで、これほどの内地に水が来たことがあること、ここで亡くなった命があることを伝えていく他ない。日常は、非常識な、予測不可能なものによって崩れ去るということを覚えておくしか無いのだと考える他無かった。安藤さんが、東北の海を防波堤で囲ってしまつ計画が国ではあるらしい、という話をしていた。そんな堤防があったら、海は見えなくなるだろう。海との関わりも薄くなる。そんなものを作ってはいけないと、この大川小学校の堤防をみて思った。北上川の堤防はきっと必要だった。しかし、それとは別に重大なものを覆い隠してしまっているように思えた。自然は、思いのままにはならない。自然と向き合うことがなくなれば、きっとこのことを忘れてしまう。自然とは常に向き合って行かなくてはならない、この、大川小学校の悲劇と向き合わねばならないように。
再び黙祷し、大川小学校を離れる。バスは一日目と同じシュッピングモールに向かう。」
(2014年3月20日、慶応義塾大学文学部発行より引用しています。)
6月3日からの続き
漁場に着くと、慣れた手さばきで網が引き上げられて行った。引き上げた網を、船に備えたロープで固定する。くるり、と片手が小さく動かされると結び目が出来、網をつないだ。
港で生きていることがよくわかる技だった。安藤さんが流されながらもケーブルをつかみ、助かることが出来たのも、この手の動きだった。海はどうしようもなく荒ぶることもあるが、普段から生き残る力を与えてくれているような、そんなことを思っていた。そんなことを思ううちに、考えていたよりゆっくりと、魚は網に追い込まれていった。おこぼれにあずかろうと、海鳥もよってくる。網が狭くなり、銀の魚体がみえるようになってきた。大きなエイもかかっている。エイは見ている方はおもしろいが、売り物にはならないので邪魔者である。本日は残念ながら大漁とは行かなかった。それでも、昨日や一昨日の夕食に並んでいた魚たちが引き上げられていくのは見応えがあった。早起きしてよかった。すっかり日が昇った帰りがけには、昨晩遊佐さんが言っていたような沖から見る港の景色が見えた。なるほど、林の途中が急に崖になっていたり、岩肌が崩れた跡があちこちの岸に見えた。地盤が沈んでしまい、かさ上げしたという港の様子もよく見えた。ガレキ処理の船で運びきれず、浜に一つ残されたコンテナがぽつんとたたずんでいた。おそらく、何か起きない限りはずっと置いておくしかないのだろうと遊佐さんは言っていた。誰も行かない浜の、たった一つのガレキである。ガレキの一部は既に拒絶も排除もされない、風景になりつつあるのだと感じた。港に戻り、魚を降ろす。放射性物質の基準値を超えた例があるというので、フグだけ海に投げ返された。食べればおいしいが、原発事故後に新たに出来た基準値が厳しいために食べてはいけないのだという。この基準値は、事故前や、海外のものよりずっと厳しいという。理不尽なものだ。そんな会話を、急に引き上げられて浮き袋の調子が悪いのか、なかなか海に沈めずにいるフグを皆でしていた。
最終日は民宿の方々にお礼を言いつつ、荷物をまとめバスに乗り込んだ。合宿の最後の見学先、大川小学校に向かった。児童・教職員84名が亡くなった場所である。バスに乗り、北上川に突き当たる。何も無い、何も無くなってしまった河原の途中に、大川小学校はあった。バスから降り、建物を直視したときの気持ちは、これでは何も考えてないのと同じだが、言葉に出来ないものであった。2クラスは入る広い講堂や、カーブを描いた校舎。体育館の前には扇形のステージと客席がある。確か、戦後に流行した円形校舎の利点を詰め込んだ、1980年頃らしいモダンな建築だ。かつてはきっとユニークな、楽しげな校舎だったのだろう。しかし、鉄筋コンクリートの渡り廊下はねじれるように折れ、倒れている。壁が引きはがされ、教室は剥き出しになっている。ガレキはきれいに取り除かれてしまったが、がらんと骨組みが残されたその姿は、突然にして失われたすべてを思わせ、吸い込まれてしまいそうな悲しみをたたえていた。何か、気持ちを表さなくては。そう思い、校庭に設置された慰霊碑と、祭壇の前で黙祷をささげた。大川小学校は被災した直後、西にある山に登るか、近くの橋のたもと、小高い三角地帯を目指すかで迷い、結果として多くの命が失われたという。その判断が、迷いが糾弾されてしまった。なぜ、山に登るというただそれだけのことが出来なかったのか、この地で生き延びる知恵を忘れてしまったのかと。しかし、この校庭に立つと、何を責めることもできないと思わされた。まず、津波が登ってきた北上川は堤防に隠れていて、校庭から見ることはできない。さらに、読んだ本によると、県の災害予測ではここまで津波が来ることは無いとされていたのだという。これでは、水辺に建っているという意識が薄れてもおかしくはないだろう。だいたい、隣にあるのは海ではなく、川なのだ。誰が津波に襲われると思うか・・・。目指していた三角地帯は結局津波に吞まれてしまった。だから山にのぼるべきだったと言われているが、対案であった山側も、子供が登れそうには見えない・・・。では、どうすべきだったのかといえば・・・。建物の上に逃れればいいのだろうか。しかし、この学校には屋上が設計されていない・・・。きっと、時間のすべてを使って、山道を何としてでも登るか、出せる車すべてに児童を乗せて迅速に川上を目指すか、といった道しか残されていなかったのだと思う。そもそも、何十年もここで生きてきた人々を裏切るような大災害だったのだから・・・。何を言っても、失われたことを何も変えることができない。無力感に打ちのめされた。何かできることがあるとすれば、ここで、これほどの内地に水が来たことがあること、ここで亡くなった命があることを伝えていく他ない。日常は、非常識な、予測不可能なものによって崩れ去るということを覚えておくしか無いのだと考える他無かった。安藤さんが、東北の海を防波堤で囲ってしまつ計画が国ではあるらしい、という話をしていた。そんな堤防があったら、海は見えなくなるだろう。海との関わりも薄くなる。そんなものを作ってはいけないと、この大川小学校の堤防をみて思った。北上川の堤防はきっと必要だった。しかし、それとは別に重大なものを覆い隠してしまっているように思えた。自然は、思いのままにはならない。自然と向き合うことがなくなれば、きっとこのことを忘れてしまう。自然とは常に向き合って行かなくてはならない、この、大川小学校の悲劇と向き合わねばならないように。
再び黙祷し、大川小学校を離れる。バスは一日目と同じシュッピングモールに向かう。」
(2014年3月20日、慶応義塾大学文学部発行より引用しています。)