たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

「3.11石巻復興祈念ゼミ合宿」報告書からの引用(8)

2014年06月12日 22時34分16秒 | 東日本大震災
「向き合う、ということ Iさん

6月3日からの続き

漁場に着くと、慣れた手さばきで網が引き上げられて行った。引き上げた網を、船に備えたロープで固定する。くるり、と片手が小さく動かされると結び目が出来、網をつないだ。
港で生きていることがよくわかる技だった。安藤さんが流されながらもケーブルをつかみ、助かることが出来たのも、この手の動きだった。海はどうしようもなく荒ぶることもあるが、普段から生き残る力を与えてくれているような、そんなことを思っていた。そんなことを思ううちに、考えていたよりゆっくりと、魚は網に追い込まれていった。おこぼれにあずかろうと、海鳥もよってくる。網が狭くなり、銀の魚体がみえるようになってきた。大きなエイもかかっている。エイは見ている方はおもしろいが、売り物にはならないので邪魔者である。本日は残念ながら大漁とは行かなかった。それでも、昨日や一昨日の夕食に並んでいた魚たちが引き上げられていくのは見応えがあった。早起きしてよかった。すっかり日が昇った帰りがけには、昨晩遊佐さんが言っていたような沖から見る港の景色が見えた。なるほど、林の途中が急に崖になっていたり、岩肌が崩れた跡があちこちの岸に見えた。地盤が沈んでしまい、かさ上げしたという港の様子もよく見えた。ガレキ処理の船で運びきれず、浜に一つ残されたコンテナがぽつんとたたずんでいた。おそらく、何か起きない限りはずっと置いておくしかないのだろうと遊佐さんは言っていた。誰も行かない浜の、たった一つのガレキである。ガレキの一部は既に拒絶も排除もされない、風景になりつつあるのだと感じた。港に戻り、魚を降ろす。放射性物質の基準値を超えた例があるというので、フグだけ海に投げ返された。食べればおいしいが、原発事故後に新たに出来た基準値が厳しいために食べてはいけないのだという。この基準値は、事故前や、海外のものよりずっと厳しいという。理不尽なものだ。そんな会話を、急に引き上げられて浮き袋の調子が悪いのか、なかなか海に沈めずにいるフグを皆でしていた。

 最終日は民宿の方々にお礼を言いつつ、荷物をまとめバスに乗り込んだ。合宿の最後の見学先、大川小学校に向かった。児童・教職員84名が亡くなった場所である。バスに乗り、北上川に突き当たる。何も無い、何も無くなってしまった河原の途中に、大川小学校はあった。バスから降り、建物を直視したときの気持ちは、これでは何も考えてないのと同じだが、言葉に出来ないものであった。2クラスは入る広い講堂や、カーブを描いた校舎。体育館の前には扇形のステージと客席がある。確か、戦後に流行した円形校舎の利点を詰め込んだ、1980年頃らしいモダンな建築だ。かつてはきっとユニークな、楽しげな校舎だったのだろう。しかし、鉄筋コンクリートの渡り廊下はねじれるように折れ、倒れている。壁が引きはがされ、教室は剥き出しになっている。ガレキはきれいに取り除かれてしまったが、がらんと骨組みが残されたその姿は、突然にして失われたすべてを思わせ、吸い込まれてしまいそうな悲しみをたたえていた。何か、気持ちを表さなくては。そう思い、校庭に設置された慰霊碑と、祭壇の前で黙祷をささげた。大川小学校は被災した直後、西にある山に登るか、近くの橋のたもと、小高い三角地帯を目指すかで迷い、結果として多くの命が失われたという。その判断が、迷いが糾弾されてしまった。なぜ、山に登るというただそれだけのことが出来なかったのか、この地で生き延びる知恵を忘れてしまったのかと。しかし、この校庭に立つと、何を責めることもできないと思わされた。まず、津波が登ってきた北上川は堤防に隠れていて、校庭から見ることはできない。さらに、読んだ本によると、県の災害予測ではここまで津波が来ることは無いとされていたのだという。これでは、水辺に建っているという意識が薄れてもおかしくはないだろう。だいたい、隣にあるのは海ではなく、川なのだ。誰が津波に襲われると思うか・・・。目指していた三角地帯は結局津波に吞まれてしまった。だから山にのぼるべきだったと言われているが、対案であった山側も、子供が登れそうには見えない・・・。では、どうすべきだったのかといえば・・・。建物の上に逃れればいいのだろうか。しかし、この学校には屋上が設計されていない・・・。きっと、時間のすべてを使って、山道を何としてでも登るか、出せる車すべてに児童を乗せて迅速に川上を目指すか、といった道しか残されていなかったのだと思う。そもそも、何十年もここで生きてきた人々を裏切るような大災害だったのだから・・・。何を言っても、失われたことを何も変えることができない。無力感に打ちのめされた。何かできることがあるとすれば、ここで、これほどの内地に水が来たことがあること、ここで亡くなった命があることを伝えていく他ない。日常は、非常識な、予測不可能なものによって崩れ去るということを覚えておくしか無いのだと考える他無かった。安藤さんが、東北の海を防波堤で囲ってしまつ計画が国ではあるらしい、という話をしていた。そんな堤防があったら、海は見えなくなるだろう。海との関わりも薄くなる。そんなものを作ってはいけないと、この大川小学校の堤防をみて思った。北上川の堤防はきっと必要だった。しかし、それとは別に重大なものを覆い隠してしまっているように思えた。自然は、思いのままにはならない。自然と向き合うことがなくなれば、きっとこのことを忘れてしまう。自然とは常に向き合って行かなくてはならない、この、大川小学校の悲劇と向き合わねばならないように。
 
 再び黙祷し、大川小学校を離れる。バスは一日目と同じシュッピングモールに向かう。」

(2014年3月20日、慶応義塾大学文学部発行より引用しています。)




「3.11石巻復興祈念ゼミ合宿」報告書からの引用(7)

2014年06月03日 08時04分26秒 | 東日本大震災
「向き合うということ Iさん

5月21日からの続き

 宿に戻ってさっそく風呂に入り、一休みした。新築らしい、木と畳の若々しい香りが心地よかった。それから安藤さんを囲って座談会となった。僕達が本を読んだり、ニュースを通して知った被災地というものと、安藤さんが実際に乗り越えてきた災害を比べる対話である。教えてもらったことは様々である。支援を求めたり、義援金を受け取るにも印鑑等身分証明の品々が必要であり、本当になにもかも流されてしまった人ほど支援されなかったこと。物資や土地の不足が震災バブルを生み出し、被災者ばかりが物価の高騰に苦しめられたこと。これからの暮らしを取り戻して行くには、どうしても先立つものが必要であり、経済的な自立を、早く、自力で成さねばならないこと。報道では津波が今まさに街を壊している映像、積み上げられたガレキの街の空撮ばかりであるが、本来はその間に、ガレキが道も何も覆い尽くした姿があったということ。何よりも先に道路を確保するため、散乱するガレキを積み上げたのである。安藤さんは、ガレキに覆われた道無き道を、山を、一日以上かけて歩き通し、家族の安否確認をしたという。ニュース報道のように大きくものを捉えると、一つ一つは軽くなっていく。そして、軽いものを集めた認識はとても薄っぺらである。安藤さんの話は、ニュースにはならない。しかし、真実の体験で、その厚みがあった。それを間近に感じることで、僕の震災の記憶は遥かに具体的なものとなった。もちろん実体験とは違うが、安藤さんの経験を僕が知ることで語り伝えることも出来ようと考えたのである。夕食はまたとても豪華で食べきれない程だった。写真を見返してもまた食べに行きたくなる。

 夕食後は、この民宿のオーナーである遊佐さんのお話を聞かせてもらった。遊佐さんは民宿の他に定置網や魚や牡蠣の養殖を営んでおり、海に出ていたそのときに地震が起きたという。船を守るために沖に出る。漁師の常識として港を離れると、まったく見たこともないような景色だったという。海の底で泥が湧き上り、島の山肌が崩れて海に落ちて行き、岸辺の山では揺らされた杉の木が花粉を撒き散らし、黄色にもやに見えたそうだ。まさに町が崩れ去るような光景だったのだろう。その後遊佐さんは船がガレキに巻き込まれないよう、他の漁師とともに沖へ沖へと避難して行った。その間も余震があり、船が大きく揺れた。死さえ覚悟し、海に沈み見つからなくなってしまうことの無いよう、救命胴衣を二重に着込んだと語ってくれた。海で被災した遊佐さんは、港の風景がまさに崩れて行くのを目撃したのである。安藤さんとはまた違う体験を僕は聞かされ、このことも伝えて行こうと決意した。」

 また夜遅くまで起きていたが、3日目の朝はまだ暗いうちに起きた。遊佐さんの好意で、漁船に乗せてもらえることになったのだ。定置網を見せてくれるという。僕と先生だけ起きだし、遊佐さんたちのトラックに乗り、港に向かって走り出した。いくつかの船がランタンで
照らされている。小船に乗り、ドッグへ向かう。少し大きな船に乗り換えて、沖へ出て行く。船のスピードと冷たい風が気持ちいい。ようよう日が昇りはじめた。」


(2014年3月20日 慶応義塾大学文学部発行より引用しています。)

***********

長いので後2回か3回に分けて書きます。
大川小学校に行ったことも書かれていますので次回、紹介できればと思います。


私自身の今の体験から、社会の仕組みが弱い立場の人を思いやる、本当に困っている人に今すぐ必要な手を差し伸べるようになっていないことを痛感しています。
行政の手続きはすべて申請主義、受給資格はあってもこちら希望して書類を出さなければ何も出てきません。情報が横で共有されるわけではないので、あっちの窓口、こっちの窓口に行って同じことを何回も言わなければなりません。

例えば、失業状態を余儀なくされれば、家賃を払い続けるのも大変なことです。。
友人の助言もあって少し調べてみましたが、これだけでは負担を軽減できるような手立ては
どこにもないらしいことがわかりました。年齢や、心身ともに健康状態であることなどで、
自治体に利用できる仕組みもないようです。
いろいろと学びの日々です。

もう少し先、今の状況が落ち着いて断捨離もさらに進んだら、東北を訪れたいなと心のすみっこで思い続けています。


「3.11石巻復興祈念ゼミ合宿」報告書からの引用(6)

2014年05月21日 14時30分17秒 | 東日本大震災
「向き合う、ということ Iさん

2014年5月6日からの続き

 家の見学を終えると、安藤さんは船を出してくれた。小さめのボートに、大勢で乗り込む。リアス式の港は小さく見えるが、漕ぎ出すとすぐに視界には大きな海が広がった。小さな浜があるので、そこで泳がせてくれるという。歩いては行けない場所なので、ちょっとしたプライベート・ビーチだ。浜辺に近づくと、地元の海と同じ太平洋側とは思えない程に水が透明で、みんな興奮していた。僕はすぐに船を飛び降りて、海を満喫した。泳ぐには少々寒い気もしたが、気合いの問題だ。安藤さんは特別に、捕って生かしておいたウニを割って食べさせてくれた。頂くと、ウニのおいしさだけが口の中に広がった。表現が妙だが、普段口にするウニは、薬の味がどうしても鼻につく。そういう余計なものがない、本物のウニ、ウニだけの味だった。一度浜辺に上がると、サンダルを忘れたことを後悔した。ちくちくと刺さる。刺さる?浜をよくよく見ると、それは岩ではなく、貝殻が幾重に重なったものであった。貝塚なのか、それとも貝で地層が出来たのか、それにしては殻の形が残っているなと思い、安藤さんに聞くと、この貝の壁は加工した牡蠣の殻を積んで人が作ったものだと教えてくれた。ここ30〰40年程のものだと言う。地震で半分程くずれてしまったとも語ってくれた。半分になっても、高さ3m、横幅はどこまで続いているのかよくわからない、それほどのものである。この海がどれほどのものをもたらしてくれたのか、この海でどれほどの人が生きてきたのか。今は静かで美しい海を見ながら、その壮大さに思いを馳せずにはいられなかった。

 宿に戻る道すがら、安藤さんは自分の仮設住宅も見学させてくれた。仮設住宅はテレビで見た通りの箱上の住居で、風通しがよくないとか、物音が響いてしまうとか、よく聞くことを安藤さんも語っていた。しかし、安藤さんのことばと、実際に足を踏み入れたことからそれらを実感することができた。安藤さんは、君のアパートよりもずっとひどいだろう、と言っていた。一見すると、調度品は大差ないようにも思った。だが壁に触ると安藤さんの言う通りだとわかった。壁が薄い、薄い、危ない。つまり、仮設住宅は僕の思っていたよりずっと、圧倒的に頼りないのである。なんとなく、いや、何もかも弱々しいのだ。さすがに僕のアパートは中で暴れても壊れはしないだろうが、仮設住宅は本気で体当たりすれば壊れてしまいそうだ。いや、多分壊れる。震災の後、早いところで二カ月ぐらいで仮設住宅は整い始めたはずである。仮設住宅は被災した方のひとまずの安息になると、僕はニュースを見て思っていた。良かった良かったと。だがこのとき、余震はまだ大きなものが続いていた。弱々しい仮設住宅の中で余震を耐えるのはどんなにか不安だったろうか、と思わされた。」

(2014年3月20日 慶応義塾大学文学部発行より引用しています。)

******

まだまだ続きます。

「3.11石巻復興祈念ゼミ合宿」報告書からの引用(5)

2014年05月06日 14時59分03秒 | 東日本大震災
「向き合うということ 文学部Iさん

2014年4月20日からの続き

安藤さんの自宅にはすぐに着いた。所々ブルーシートで隠され、ベニヤが打ち付けられている。被災してすぐの写真を見せてくださり、波を思い切り受けてしまったこと、水は2階に達したこと、そして偶然摑まえたケーブルによって家にしがみつき、流されずに済んだことなど、当時のことを語ってくれた。家の中は傷んでしまった床板や壁紙が剥がされ、骨格のようになっていた。そして、ところどころに流されなかった、見つけ出した品々が置いてあった。それらはみな、ごく普通の家庭にあるもので、かつての平穏な暮らしを偲ばせるものであった。この地に残されたものと失われたものの縮図のようだった。残されたものも、傷ついてしまった。変わってしまったのだ。しかし、すべてが破壊されてしまったのではないことも感じた。2階の天袋に、安藤さんの家族写真のアルバムがひっそりと保管されていた。水に浸かってしまい、もう色が抜けてしまっていたが、未だにそれがここで暮らした家族の証であることに変わりはない。穏やかな海がそこにあるように、災害を乗り越えてそこに家族がまだあることを感じさせられた。

 被災した町並みが報道されるのを見て、かつて僕はおもうことがあった。ここで破壊されてしまったのなら、いっそのこと、ひと思いにすべてまっさらにしてしまったらどうかと。しかし、人の気持ちはそんなものではないこと、僕が心の中で他人事だと思っていたことが安藤さんのアルバムを見たときによくわかった。もし、自分の家がメチャクチャになり、大きく傷ついてもまだそこに残っていたとしたら。失われたものを思い、辛くなることもあるだろう。しかし、確かにそこにあった家族との思い出を、その証を、ひとかけらでも残しておきたいのではないだろうか。子世代である僕でさえそう思うのだ。ましてや親であり、ここで子供を産み育ててきた安藤さんである。片付ける、なんて簡単には言えないだろう。お金の問題もある。このことは、夜に安藤さんから語られることになる。」

(2014年3月20日 慶応義塾大学文学部発行)

**************

まだまだ続きます。


「3.11石巻復興祈念ゼミ合宿」報告書からの引用(4)

2014年04月20日 14時57分42秒 | 東日本大震災
「向き合う、ということ Iさん


2014年4月15日からの続き

 夜まで話し込んではいたが、熟睡したせいか、それとも貰った元気のおかげか、さわやかに2日目は始まった。旅館らしい朝ご飯に、見慣れない肉。不思議な味だったが、聞けばクジラのベーコンだったそうだ。珍しいものをいただいた。夕食もそうだが、いかにも港、というものを出していただけるのは本当に嬉しかった。これまで学生の貧乏旅行ばかりの身であったから、これが心からのもてなしというものか、と何もかもありがたかった。今日は、安藤さんが自宅を中心に当時のことを語ってくれるという。海にも入れるそうだ。


 海パンを下に履いて、荷物をまとめる。2日目は別の民宿に移るのだ。次の宿は、被災地に新築したそうで、一か月前にオープンしたのだと言う。本当にピカピカの宿だった。最初はこちらの宿に2日という予定だったようで、その方が良かったかな、とも思いかけたが。それぞれの背景がある2つの宿に泊まれてラッキーだったと思い直した。どんなときでも得したと考えるのが僕のやり方だ。どちらの宿も本当に居心地が良かった。

 港から少し歩く。宿のある小さな丘を越えるようにして歩くと、隣の浜がすぐ見えた。リアス式海岸を足でも感じた。すると、安藤さんが足を止めた。「あれが、仮設住宅」少し奥まったところに、豆腐が並んだようにプレハブが見える。「あの家の壁、あの緑の線まで水がきたんだよね。」今下りてきた丘の中腹、しかもその2階を越える部分にその線はあった。全く色が違っていた。想像してまた、水の底に沈んでいるような気持ちになった。昨日からあれほど感じ入っていたはずなのに、それでも風景として眺めてしまっていた。遠くからでも傷は見えるだろうが、間近で、注意深く見なければその傷がどれほどか、何によるものかはわからないだろう。いわんや癒し方をや。そう考え、目を見開いて歩いた。」

*********

まだまだ続きます。

「3.11石巻復興祈念ゼミ合宿」報告書からの引用(3)

2014年04月15日 13時57分15秒 | 東日本大震災
「向き合う、ということ Iさん(4月7日からの続き)


 そして乗り継いだバスが、海沿いを目指し走りはじめる。ここから、見知ったような風景の中に、ぽつん、と違和感のあるものが目につくようになった。盛り土され、最近整地されたであろう開けた区画。何かを解体したらしい資材の山。そして、廃屋。海に近づくにつれて、それらは数を増していった。海に面した工業地帯の横を通る時には、日常と非日常が一本の線で区切られたような、唖然とする世界であった。「ここまで波が来た。」「ここまではガレキをどかした。」そういった線をそこかしこに引けてしまうのだ。住宅、草の茂る広い空き地、ガレキ、工場、ガレキ、海。こう色分けされた帯のように風景が見える。バスが海岸に沿って淡々と走る。何十分と走る。帯も続く。ずっと続く。計り知れない恐怖を感じ、手のひらがあせばみ、冷たくなっていた。

 石巻港の工場地帯、であった場所、何も無い場所で一度バスは止まった。津波を正面から受けた門脇小学校の前であった。降りてすぐ、その何も無さに立ちすくんだ。世界が消えてなくなってしまったような気がした。そのはず、ここにはかつて街があったのである。コーディネーターの安藤さんが、かつての姿を、被災直後の姿を写真とともに語ってくれた。人が、車が、建物が、海が。押し寄せる混沌の中で何があったのかを教えてくださった。パニックの中、人を殺めることになった人もいると。何が起きるのか考えることが出来なくなり、左側通行だとか、普通のルールを守っているうちに呑み込まれて亡くなった人もいると。そして波が押し寄せ、混乱ごと押し流した・・・。波を受けた小学校は、グレーの目隠しがされていた。遺構として保存するか、癒えようとする心を乱さぬよう取り壊すか、議論の最中だと言う。海岸沿いの建物は取り壊しの最中であった。このような建物を見ていると、まるで深海に沈んだ遺跡のようにも見えた。「津波は、水の壁ではない。ずっと分厚い。ずっと続いてやってくる。」「10メートル高くなるということだ。」震災の後に聞いた話を思い出して、頭ではなく心と体で理解した。この場所は一度、海の底になったのだ。流され、潰され、沈む。壊れる。耐えられようも無い。ガンダムも、ウルトラマンも、決して勝てないだろう、自分が10メートルの海の底にいる想像をしながら思っていた。未だ傷痕は深く、乾いていない。ただそう思った。

 そしてバスは再び、旅の宿、復興したというその民宿に向かい走り出した。山道に入った。と思いきや湾が開け、海が見える。山道。漁港。山。海。これがリアス式というものなんだなあと、NHKの朝の連続ドラマ、あまちゃんのブームのことと重ねてぼんやり思った。先ほど恐怖に震えていたはずなのに、海の美しさに心は癒されつつもあった。漁港で生きる人たちが働いているのが見える。海が与える、奪う、与える。自然と人間のくり返すリズム。そういうものをリアス式海岸に重ねて思っていた。港の壁に、卒業制作らしい、子供たちの似顔絵が描かれていた。後で母にその写真を見せると、年度を見て、僕と同じ位だと言った。すこやかであれ。遅ればせながら、そう祈る他なかった。

 そして民宿に着く。目の前に小さな漁港が広がる場所であった。民宿の方々が明るく出迎えてくれた。入ると、様々な写真や寄せ書きが飾られていた。聞くとこの民宿は奇跡的に破壊を免れ、この港の復興の拠点としてボランティアを支えてきたのだという。そう思うと、くれびれても歴戦の勇姿。すこし年季の入った家構えも頼もしく見えた。これまでの移動と、被災地体験で疲れた気もしたが、この話を聞いて背中を押された感じがした。散歩に行こう。自分の足で、この港のことを感じに行こう。そんな力を貰えた。歩いていくと、ここもやはりあの「帯」があった。この空地は不自然だ、と思いながら見ると小さな廃墟。覗くと公衆便所であった。そうか、この草むらは公園だったのか・・・。いろいろ探しながら歩いていく。するとやはりガレキはまだある。探すまでもなく、整地され区切られた場所に積み上げられている。ガレキ置き場は港へと続く。漁船と重機が斜陽に染まっていた。港の端に立って、海の方だけを見ていると本当に美しかった。潮風が吹く。海が香る。そして・・・かすかな腐敗臭。そう、傷痕からする異臭のように、ガレキから、地面からまだ存在感を放つ。悲しみの匂いがする。明日からこの場所のために何か出来たら。力になりたい、と思わされた。夕食までは民宿の方の息子さんと遊んだ。また元気を貰った。夕食は地のものをたっぷりと使った素晴らしいもので、何だか貰ってばかりいるなあ、と思いながら1日が過ぎた。」

(2014年3月20日 慶応義塾大学文学部発行より引用しています)

***************

まだまだ続きます。




「3.11石巻復興祈念ゼミ合宿」報告書からの引用(2)

2014年04月07日 15時25分55秒 | 東日本大震災
「向き合う、ということ  Iさん


 石巻に行くことになった。急な話である。学校側が復興支援のためのツアーを組んだということで、ゼミ合宿がそれに便乗したのだ。復興支援、ということだった。やはり、地震と切り離して被災地に行くことは出来ないのだなと素直に感じた。復興支援ということは、復興された街を支援する、ということだろうか? そうすると、地震のことにいちいち触れてお邪魔するというのは相手に失礼だろうか。そもそも、被災地と呼ぶことはぶしつけか?僕は大義の偽善者に見えるだろうか? または無力の傍観者だろうか? このツアーが決まってから、そんな疑問が頭にもやもやと漂っていた。この疑問は、地震以降ずっと僕の足にしがみついていた思いでもある。

 ちょうど2年半前から、そういう気遣いについてはものすごく難しくなった。哀悼の意を示したつもりが、被災地の産業を凍らせてしまったり、一方で被災地の名産をはじめとする物品を各地に運べば何かと細かいことで怒られる。善意から来る行動でも、必ず至らないところは出てくるものである。普段は小さなことであるから見えなかったのが、これほどの大事となれば見ない振りは出来ぬ、ということなのだろう。この気遣いの問題は本当に人々を動きづらく、または動けなくさせた。日本中を電車の双六で周るTVゲームは、あの地震以降新作が出ていない。大波を操る仮面ライダーは出番がなくなった。僕も、動けなくなった一人である。

 地震の時、僕はいわゆる帰宅困難者となった。足であった常磐線が一部崩落してしまい、一週間程千葉を点々としていたのである。茨城の実家に帰れた後、瓦のはがれた屋根を見たり、落ちてくるのが怖いから、と薄型に買い替えられたテレビを見るなどして、「離れた茨城ですら・・・・東北は。」と思わずにはいられなかった。東北の方が救われることを切に願った。しかし一方で、「自分も被災者ではある。」という思いと事実があった。しばらくは、身の周りを整えることで精一杯というところがあったのだ。じきに一人暮らしもはじまる。そういえば、下宿は大丈夫だろうか? 今月の頭に決めたばかりなのに。

 そんなことを考えては、目下の現状にただ向き合うだけで、人のために何かをすることは出来なかった。今は自分の生活を立てなければ。次は家族・・・。と動いてきたのだ。まだ動揺している妹の近くにいてやりたい、僕は大学生にようやくなった。祖母は安心できる終の住まいを新築したいと言う、手伝わねばなるまい・・・。そんなことをして、僕は僕なりに日々の問題を解決していたのである。やましいことはない。何も。しかし、それを理由にして、誰か人のためにということを避けていたことは、事実である。

 今は避ける理由はない。そして、行く機会がある。きっと、地震の後から続くもやもやとした考え、自分の善意、どこか申し訳ないようなこの気持ちにけじめがつくはずだ。
 そうだ石巻、行こう。


 仙台駅から2本のバスを乗り継いで行く。向かうは石巻である。1時間余りバスに揺られると、地方都市らしくそつなくまとまった仙台周辺から、いかにも郊外と言った感のあるショッピングモールに到着する。ここが本で読んだ、避難所ともなったイオンモールか、と思った。読み聞いたものを実際に見たときにいつも感じる小さな感銘を受けつつも、モール周りの風景は地元とよく似ていることのほうが印象的だった。買い物と休憩を済ませると、2本目のバスが出る。このときは評判のいい民宿の夕食のことや、予定されていた海水浴の事ばかり考えていた。このときまでは全く、「被災地と言ってもちょうど2年半、ここまで回復したのだ、のどかな風景ではないか。」と思ってしまっていた。だが、そうではなかった。この瞬間、これからの体験のない僕は単純な生視感を感じたのみであった。しかし、今は違う。日本中にあるこの風景が、次の瞬間、想像もつかぬような災厄に襲われてもおかしくはないのだと、そのことにより深く釘を刺していくような風景であったと今は思うのだ。このあとに見せつけられた災害の足跡が、僕をそう思わせるように変えたのである。」


(2014年3月20日慶応義塾大学文学部発行より許可をいただいて引用しています。)

→長いので何回かに分けて書きます。

「3.11石巻復興祈念ゼミ合宿」報告書からの引用(1)

2014年03月23日 14時45分04秒 | 東日本大震災
2014年3月22日に出席した「震災から3年_経済と世相」のシンポジウムで、慶応義塾大学の文学部としての取り組みが紹介されました。

荻野安奈先生が書かれた本が縁となって、石巻の安藤さんと言う漁師さんをたずねて、
2013年9月-10月に「3.11石巻復興祈念ゼミ合宿」が行われ、70名の学生さんが参加されました。

その報告書を荻野安奈先生と関根謙先生よりいただき、ブログに掲載することを了承いただきました。(お二人の先生には終わってから声を掛けさせていただきました。)

震災の後、「がんばろう日本」「絆」の掛け声に感じ続けた違和感の正体、その答えが学生さんたちの感性の中にありそうです。
合理性追求の企業社会の中にはその答えは見つかりません。

心静かに引用させていただきたいと思います。

***********************

石巻の記憶に「よき祈よ こもれ」 Tさん

 
 石巻から戻った私の、この記録を書く筆は進まなかった。

 3.11から2年が経過し、私は「がんばろう日本」のフレーズを聞き飽き始めていた。メディアを介して見る「被災地」の姿は、なだらかに整地された土地と綺麗に整えられた緑の芽吹く区画であった。

 しかし、被災地の現状は多くの欺瞞に満ちていた。被災瓦礫はテレビカメラの目の届かない、給分浜(きゅうぶがはま)の入り江に堆く(うずたかく)積み上げられていた。マスコミのカメラの射程内、整地された石巻の中心部には、部外者が建てた「がんばろう石巻」と書かれた大きな看板があった。私はこのハリボテの看板だけを見て、復興は進んでいると思っていた。みせかけのものを信じ、聞こえの良い言葉ばかりに耳を傾けていた自分こそ、この欺瞞に加担している側だったのだということを同時に自覚した。そんな私が何を書くことができるだろうか、原稿用紙に向かって自問自答を繰り返した。

 私は広島県の出身であり、原子爆弾の惨禍を身近に感じてきた。広島でも、今なお原爆ドームの付近にいくとガイガーカウンターの針は振り切れ、市内近郊の低山の中腹にはアメリカの組織ABCC(原爆傷害調査委員会)が基地を構え、原爆「実験」の経過観察を継続している。物理的「復興」を成し遂げ、傷は癒えたように見えても、根深いところで疼いている。

 マルグリット・デュラスの映画「ヒロシマ・モナムール」は、アラン・レネ監督の、外部の人間(ここではフランス人)がどのようにして原爆を知ることができるのだろうか、という関心が撮影の発端となったという。今回の石巻のゼミ合宿で、外部の人間である私が、被災地を知ることができたのだろうか。ただ私が石巻に滞在したのはほんの3日であり、私のような外部の人間が被災地を語ること自体、おこがましいことであると感じる気持ちは、これを書いている今も強く感じている。

「がんばろう石巻」の大きな看板の前では、外部の人間が経営する焼きそばや花の屋台が賑わいをみせていた。「ヒロシマ・モナムール」の冒頭に描かれている広島平和記念式典の様子が思い出された。花電車が走り、盆踊りが繰り広げられ、出店が賑わう。原爆投下から数年後の平和記念式典はアメリカ側が主催したものであり、慰霊そっちのけでお祭りムードに満ちたものであった。「復興五輪」に浮かれ、「がんばろう日本」を連呼する現状によく似ている。被害を受けた人間の悲しみや痛みが外部の人間によって無駄な上塗りがなされ、実情が見えにくくなる構造。この構造は現代の被災地ではマスメディアの発達により、さらに複雑な様相を呈しているのではないだろうか。

「石巻で、ピースで写真を撮っている若い観光客が多い。彼らのことを、私は許すことができない」という安藤さん(石巻の漁師さん)の言葉で、平和祈念公園の様子が頭をよぎった。石巻同様にたくさんの人が亡くなった場所である。原爆ドームや原爆死没者慰霊碑の前には多くの観光客が訪れ、中にはピースで笑顔の祈念写真を撮る人たちも少なくない。私自身も原爆で祖父を亡くしているが、彼らを見ても怒りは湧いてこない。

 安藤さんと私の間にあるのは「時間」の隔たりであろう。原爆投下から67年、3.11から2年。現在の広島は見事に戦後の「復興」を遂げた姿だとされている。しかし本当にそうなのだろうか。被災地で一つ私が感じたことは、人間の根底にある情念は変わることがない、ということである。

 漁に出るたびに、行方不明の親族が「居てくれないかなあ」という気持ちで海に潜る、と呟いた安藤さんの目に、少し見覚えがあるような気がした。

 宮島に「管絃祭」という伝統的な行事がある。夏の始めにあるこの行事は、厳島神社の御神体が瀬戸内を周遊するものである。河岸からゆっくりと此岸に近づいてくる御神体を載せた船に、竹西寛子は原爆で亡くなった人間の魂の往還を見て取った。夜の海に管絃の音が漂い、闇の向こうから篝火に照らされた船が現われる。今日でもこの祭りには多くの人が集まる。人々は無言で夜の静かな海を見つめる。小舟のかすかな灯りを見つめる広島の人々の目と、安藤さんの目は、同じものをとらえている気がしてならなかった。
 
 多くを奪い去った悲しい過去の記憶を癒すことは非常に難しい。広島の例のようにどれほどの時間が経とうとも、それは人々の胸の内からは消え去らない。しかしその記憶を「継承」していくことこそ重要なことではないだろうか。

「ヒロシマ・モナムール」のフランス人の女性は、原爆の惨禍を彼女のヨーロッパでの第二次世界大戦の悲痛な記憶と重ね合わせ、自身の記憶の情念的な部分を介して広島の男性と心を通わせ、理解し合うことができた。
 
 今回の合宿で石巻を訪問した際、内側にある広島の記憶と被災地の現状を重ねて反芻している自分がいた。当事者でない人間が被災地を理解することは難しく、またそれを試みること自体傲慢な考えであろう。しかし、自分自身の目で見て「知る」ことで、本当の記憶の継承がなされるのだと強く感じた。マスメディアを介さない、肉眼で見た石巻、被災地の姿を私は胸に焼き付けた。

 石巻の記憶に「よき祈りよ こもれ。」


                     (2014年3月20日発行 慶応義塾大学文学部)




わたしの2011年3月11日(2)

2014年03月12日 11時19分46秒 | 東日本大震災
昨日ブログに書きながら、3年前のことがあらためてまざまざと蘇ってきました。

最初に大きな揺れがきて、その後どれぐらいの間隔だったのか思い出せませんが、さらに大きく揺れ始めました。その揺れはしばらく続いたと思います。これはもうダメなのではないか、
一瞬そんな思いが頭の中をよぎった恐怖心を今も体がおぼえています。
(今一方的に切られようとしている)職場の建物の8階で震えあがっていました。
わたしの机は整理が悪くて書類であふれかえっていたのですが、全部落ちました。
キングファイルが並んでいる棚から、ばたばたと音をたててあっという間にファイルが全部落ちました。

いったん大きな揺れがおさまった時、職場の人たちと建物の外に出ました。
風の冷たい中、すぐ前にあるバス停の屋根の下で、続く揺れに震えあがっていました。
他のビルからも人がたくさん外に出ていました。
大通りを挟んだ向かい側に免震構造でしょうか、今にもバタンと倒れそうなほど揺れているビルがあって、恐ろしくてたまりませんでした。悲鳴を上げている人もいました。

1時間ほど外にいたでしょうか。
テレビがないので、16時過ぎぐらいだったと思いますが、インターネットで、最初の津波が
岩手県の海岸に襲いかかってくる映像をみました。
ワンセグテレビを持っている人がいて、宮城県仙台市の若林区で刻々とご遺体がみつかっている状況を教えてくれました。
でも東北がなにが起きたのか、その時はまだよくわかっていませんでした。

電車が止まって帰宅をあきらめた人たちと一緒に近くの中華料理屋さんに行きました。
外に出るとすでに大通りは歩き始めた人たちであふれかえっていました。
銀行のATMも使えるのではないかと言う人がいたので焦ってお金を引き出しに行きました。
日本沈没が現実のものになるのではないか、そんな会話を食事の席でしました。
本当に何が起こったのかわからず、不安と恐怖心でいっぱいでした。

建物に戻ってから、段ボールを引いたりして横になる方もいましたがわたしはできませんでした。
停電にならなかったので一晩中も暖房はついていたし、お手洗いも使えました。
わたしは受け取りませんでしたが、備蓄の水が入口で配布されていました。

眠れないまま一晩中、8階から大通りを見おろしていました。
大通りは歩く人々と身動きできなくなったバスや宅配便の車などであふれかえっていました。
午前2時ごろまで渋滞と人の波は続いていました。

わたしはインターネットをずっとみていて頭がクラクラしてきた3時頃、
しばらく目をつぶって眠れなくても机にもたれかかってじっと坐って休んでいました。
電車が動き始めていましたが、明るくなるのを待ち、同じ方面のおじさま二人に一緒に帰ってくれるよう頼み、3人で5時ぐらいだったと思いますが職場を出ました。
一人では心細くてどうしようもありませんでした。
電車の中でも緊急地震速報が出て携帯が一斉に鳴り、震えあがっていました。
無事に最寄り駅についた時の安ど感、
住宅街は何事もなかったかのようにしんとしていました。
7時頃、自分の部屋に辿り着いたとき、停電した形跡がありましたが、思ったほど物は散らばっていませんでした。
あとで整骨院の人などに話をきくと、一晩中停電していて単身者の住んでいるマンションやアパートが多いので大変なことになっていたそうです。

このあと計画停電もあり、近くに知る人がいない心細さ、会社に行っている日中で普段買い物をしているお店は閉まってしまうので本当に食べる物が買えなくなるのではないかという恐怖心と不安、仕事は年度の切り替えで忙しかったし、どうにかなってしまいそうでした。押しつぶされそうでした。

直接被害を受けなかった地域の者ですらこうなのだから、東北の方々はどれほど大変だったか、想像の域を超えています。そして原発事故です。避難命令が出るとしたら自分は何をもって、何をあきらめて逃げるのだろう、考えてしまいました。
これ以来、物を減らしていく努力を続けています。
懐中電灯、携帯用トイレ、防寒シート、携帯ラジオ、ペットボトルを持たないと都心に行く電車に乗ることができなくなりました。

いつ来るかわからない次なる災害に備えてわたしたちは準備できているのだろうか。
原発をどうしていくんだろう。日本はこれからどこに向かっていくんだろう。
目先の行きあたりばったりなことはやめて、みんなであらためて考えていくことはできないものかと思います。

わたしの2011年3月11日

2014年03月11日 15時06分56秒 | 東日本大震災
手帳の記録からそのまま書いていきます。

3月11日(金) 
14時46分 
かなり揺れは続いた。繰り返し余震も起こる。電車が止まったので、帰宅をあきらめ、(職場の建物の中で)一晩中ネットで情報をみながら、眠れない夜を過ごす。


3月12日(土)
朝、帰宅。
地震情報が流れて一時電車がとまるが問題なく帰宅。ずっとテレビを見続ける。
気づいたらお風呂の中で寝てた。


3月13日(日)
整骨院で全身マッサージ。
平常心ではない。
やっと7時間眠った。まだ停電の影響はさほどなく、呑気にドトールで本を読んだり、英語を勉強したりした。


3月14日(月)
計画停電の発表により、電車の本数が少なくなる。
大混雑ですごいことになったので出社をあきらめる。
部屋でずっとテレビをみながら、ネットでメールをチェックして、仕事もできる範囲で行った。睡眠不足の影響もあり、疲れ果ててしまった。
原発への不安高まる。


3月15日(火)
おくれてPM出社。節電の電車への影響は軽減。ネットで情報を見続けながら仕事。ずっと揺れている感じがしてビルの中にいるのがおそろしくて仕方ない。原発への不安。帰宅困難者になる不安。自分の持っている物を全てあきらめなければならないかもしれないという不安。計画停電の心配。落ち着かない。


3月16日(水)
不安が続く。ずっと揺れていて、揺れていないのに揺れているみたいだ。あまりのすごさに言葉もない。帰宅後はずっとスキュンを続けながらニュースをみる。


3月17日(木)
夕方、大停電の怖れありのニュースに夕方5時前に仕事を切り上げて帰宅。大混雑の一歩手前でパニックに巻き込まれずにすんだ。最寄りの駅に戻ると計画停電中。信号も止まっているし、日没前に部屋にもどることができたが、心細くて不安高まる。食べる物の買い置きをしておいてよかった。Y先生とYさんに電話した。なんだか落ち着かない。いくつもの不安が重なるが、一番は原発だろうか。

3月18日(金)
落ち着いた一日だった。ネットで情報を見続けながら仕事する。帰宅困難者になるかもしれない。停電も心配。でも被災した人達のことを思えば辛抱しなければならない。ボランティアの受け入れが始まったら何かしたい。気づいたら風呂の中で眠っていた。危ない。


3月19日(土)
かかりつけの内科へ行く。& ジョブスタ。


3月20日(日)
美容院でカット。


3月21日(月)
連休中は計画停電は実施されず、少し落ち着いて買い物もできた。久しぶりに多めに眠れた。


3月22日(火)
15時20分-19時00分:計画停電
夕方大きな余震がくる。夜半も揺れる。11日の恐怖感が体に刻まれてしまった。
PTSDにあたるのだろうか。不安障害だろうか。軽度だがうつを伴って私の中に起こっている。
冷静に、冷静に。
人に話すことでいくらか緩和される。ガンバレ、わたし。
職場の部署替えのハシゴからおりたい。今そんなわけにはいかないが・・・。あまり眠れていないのできつい・・・。


3月23日(水)
12時20分-16時00分:計画停電
東京都の救援物資受付に買い集めた物を送った。個人でやるとたいしたことない。
でも今なにかしないではいられない。早く届くといいな。喜んでもらえるだろうか。
東北はよく一人旅で行っていた場所だ。秋田、岩手、青森、仙台。色々と処分してしまったけど、記憶に残る東北はどうなってしまったのだろう。
原発もおさまって、一日も早く平和がきてほしい。
なんでみんな何事もなかったかのようにしているのだろう。
そんなことないか・・・。


3月24日(木)
9時20分-13時00分、16時50分-20時30分;計画停電
自分の持っているもので何かできないだろうか。


3時25日(金)
6時20分-10時00分;計画停電
東京都の救援物資受付が27日で一旦終了というHPの情報に急いで荷造り。半分仕事になっていない。


3月26日(土)
18時20分-22時00分
こんな時に部署替えにつきあわなければならないのが歯がゆい。私にできることはないのだろうか。


3月27日(日)
免許証更新。寒いし遠かった。カウンセラーのY先生のお宅に行きたかったが残念。でも話をきいてもらって少し落ち着いた。
私が給料もらって消費する。それも大事なことなんだ。これからどうなっていくのかますますわからなくなってきた。私はどう生きていくべきなのだろう。新しいことを始める前に今持っているものを整理したい。ちょっとずつ、辛抱して・・・。
義捐金に4,000円だした。物資を合わせると、弟のY君が送ってくれた分ぐらいは還元できたかな。ありふれた日常に感謝。当たり前のことは当たり前じゃなかったんだ。祈り続けるのみ。
(3/28記)


3月30日(水)
昨夜会社にいる間に余震があってからまだずっと揺れている感じで、夜布団に入ってからは体が震えてしまってしばらく寝つけなかった。ずっとインターネットやニュースを見続けているた為、その映像が頭から離れなくなっている。PTSDっぽくなってるなあ。
見なきゃいいのに、でも知らん顔できない。不安、不安だけがつのる。不安神経症が強くなってつらい・・・。


************

がんばろう日本、がんばろう、がんばろうの掛け声への違和感を感じ続けた。
なにかおかしい、違っている。でも何がおかしいのか、その正体は今もわからない。
もうすでにがんばっている人たちに、がんばるしかない人たちに、これ以上なにをがんばれというのか・・・。

私にできることがあるのではないか。
突然近しいと人とお別れとなったその苦しみは乗り越えるものではない。
時間が解決するものでもない。ずっと一緒に生きていかなければならない。
自分が生きている限り終わりなんてない。その苦しみは経験した人にしかわからないと思う。
心の片隅でそう思い続けながら3年が過ぎた。
私は今自分の雇用すら守ることができないでいる。