たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

「東北の縄文文化から学ぶこと」

2014年03月05日 16時16分09秒 | 東日本大震災
2012年10月6日 慶応義塾大学 日吉キャンパス公開講座

「東北の縄文文化から学ぶこと」安藤広道


レジメと私自身のメモ書きから、わかりづらいですが書いてみたいと思います。


1.東北の縄文文化の特徴

a.慶応義塾大学の考古学研究と東北の縄文遺跡。

b.東北の縄文文化の変遷。

・前期〰中期:遺跡数の増加。大規模な集落遺跡の発達。長方形大型住居跡をもつ集落遺跡。

  縄文文化は東北の特徴。
  早期:定住生活の確立。人口の増加。気候が温暖化。食料資源が豊かになる。
  前期〰中期:大規模集落。
        長方形大型住居(東北の特徴)、
         仲間意識の反映、
         集会所の役割をしていたと考えられる。


  寒冷化、
  青森三内丸山遺跡、
  公共施設の充実、土偶、美しい装飾の土器
  共同意識の発達、厳しい中で生活を維持するため祭りが大きな意味をもつようになった。

  中期の終わり:村が小さくなる、寒冷化で大きな村は維持できなくなる。


・後期:遺跡数の減少。環状列石をもつ集落遺跡。土偶などの祭祀的遺物の発達。

  少しあたたかくなるが寒冷化が続いている。

  環状列石、石のモニュメント:お墓でもあり、祭祀の場所でもあった。
  
  環状土離、土を盛り上げてつくったモニュメント、
  
  共同作業によって仲間意識を高める。
  土偶がさらに発達、お祭りの道具。
  

・晩期:遺跡数のさらなる減少
  
  さらに寒冷化が加速、
  遺跡の減少&大きな遺跡がなくなる。
  小さな村が分散
  土偶、同じ様式が広い地域で定着していた。
  高度な技術の祭祀物、
  個々の村で同じような祭りを行うことでつながりを維持しようとした。
  
  漆の技術の発達、
    重ね塗りの技術(現代と同じレベル)
    塗料として使うために手間がかかる
    複雑な技術、高度、現代まで続いている。

  
2.東北の縄文文化から学ぶこと

a.気候の変動と生活の変化の関係。

b.縄文文化は本当に「豊かな狩猟採集民文化」なのか。

c.苦難から生み出される創造力?

 寒冷化が進んだ時に豊かな創造力が発達したと考えられる。
 厳しい条件の中で生き抜いていくために高い技術をもって、仲間意識を高めていった。

 支え合う社会の仕組みの確立、
 ↓
 現代の我々が学ぶべきこと
 災害時、社会の機能が停止した時に世界中で起こり得る。
 危機を乗り切っていくために、人間が本来もっている力。


 東北の縄文文化はそうした歴史の証人。

 生活条件の悪化の中で造りだされた造形物(モニュメント・土偶)は、現代の我々に感動を与 えてくれる。
 人類の宝として残そうとしている人々がいる。
 支え合う社会を維持するために造り出された技術(漆)は現代にも生きている。
 苦難は時には創造力を豊かにする。
 子孫にとって財産になっていく力を持ち得る。
 ↓
 我々が学ぶべきこと

3.被災地にとって縄文文化の遺跡とは?

a.なぜ「文化財レスキュー」が必要なのか。
b.住宅地の高所移転と遺跡の発掘調査。
c.被災地にとって文化財はどのような意味を持つのか。

 
 被災地の高所移転、まずは遺跡の発掘調査をこれから行う。

 遺跡は歴史の証人、将来に引きついでいく意味はある。
 新しくつくられていく街にとって、その場所を深く知ることは愛着をもつことにつながる。 人々が遺跡を語り合うことでコミュニティが形成されていく。
 深く知ることで語りたくなり、土地に対する帰属意識が高まる。

 遺跡をめぐって議論することそのものに意味がある。
 遺跡は未来の財産になる。決して足かせではない。
 苦難に立ち向かう時の人々の力、創造力を私たちにおしえてくれる。






 
 

 

  

『東北学/文化と震災からの復興』=5-6回目

2014年01月18日 13時59分21秒 | 東日本大震災
2012年9月29日慶応義塾大学 日吉キャンパス公開講座 
赤坂憲雄「東北学、新たなステージへ」レジメより

民族芸能の背後には、宗教が見え隠れしている。

 あまりに当たり前なことではあるが、伝統的な民俗芸能はみな、地域の神社や寺と結びつき、その祭りや行事の一環として組み込まれ、受け継がれてきたのである。三陸の鹿踊り、剣舞、虎舞などむろん例外ではない。その掲げるテーマは死者への鎮魂・供養、魔除けや厄払い、収穫の祈願と感謝といったものであり、それはまさしく日本人であるわれわれにとっては宗教的な行為そのものではなかったか。宗教をタブーに囲ったうえで、民俗芸能について、その復興について語ることはできないにもかかわらず、いや、だからこそ、明治以降の日本人は習俗/信仰のはざまでアクロバットに演じてきたのではなかったか。その結果として、欧米人からは「無宗教」「無神論」といった蔑みや誹りを受けてきたのである。

それにしても、東日本大震災はわれわれ日本人にたいして、人間がいかにして自然の荒ぶる力に向かい合うべきなのか、という根源的な問いを突き付けている。生や死について深く考えることが求められている。あの南三陸町水戸辺の鹿子踊が、その供養碑に「この世の生きとし生けるものすべての命の供養のために踊りを奉納せよ」と刻まれていたことを思い返すのもいい。おそらく、みちのくに暮らす人々は、生きとし生けるものたち、人間ばかりか鳥獣虫魚さらには草木の類にいたるまで、いや、死者や、神仏・精霊など「眼には見えないものたち」までも含んだ、共生の世界を創ってきたのかもしれない。科学技術や経済力によって、すべての自然災害を防ぐことはできないことを思い知らされた。むしろ、人は自然への畏敬を忘れることなく、新しい人と自然との敬虔なつきあい方を学んでいく必要がある。防災から減災へ。それはたぶん、日本人が受け継いできた芸能や芸術、そして文化のなかに、すでに準備されている思想や哲学のかけらであったにちがいない。

五感や想像力を研ぎ澄ますために、これまでは宗教が突出した役割として果たしてきたが、これからは芸術文化がそのある部分を担うことになるはずだ。芸術が仲立ちとなって、五感や想像力を研ぎ澄ますことによって、「眼にはみえないものたち」の世界とのコミュニケーションをはかりつつ、自然への畏敬の思いを育て、人と自然との関係、あるいは人と世界との関係を新たに紡ぎ直してゆくのである。



それにしても、被災地にはそこかしこに宗教的なるものが転がっていた。
くりかえすが、神憑りの話を弄んでいるのではない。われわれはきっと、二万人近い震災の犠牲者たちとともに、これからの人生をいかに生きていけばいいのか、という問いとは無縁に生きていくことはできない。子どもたちにも伝えねばならない。死者を悼むことは、生き残った者たちにとって何よりも崇高な、かけがえのない仕事であることを。

 東北の民俗芸能の多くが、生きとし生けるものたちすべての命を寿き、供養するために演じられてきたことの、深々とした意味を問い続けたいと思う。「打つも果てるもひとつの命」(「原体剣舞連」)という、宮沢賢治からのメッセージをかたわらに置きながら。
 
 さて、芸術や文化なしに、われわれは豊かな復興や再生を語ることはできない。


*************

ようやく書き終わりました。
大震災から2年と10カ月、原発事故も起こった複合的な大災害、
私たちはこの大災害から本当に学ぶことができているのだろうか。
目先のことだけに捉われて物事は進んでいないだろうか。
なにか大事な忘れ物をしていることに気づかないまま、違う方向へとどんどん進んではいないだろうか。
生まれ変わっていく大きな転換期なのに、何かが違う。何が違うのかわからないが、何かすごくヘンだという感じがずっと続いている。
何が違うのだろう・・・。
大震災の後の「がんばろう」の大合唱にずっと違和感を感じ続けた。
その正体はなんだろう。

『東北学/文化と震災からの復興』=4回目

2013年12月31日 14時56分44秒 | 東日本大震災
2012年秋、慶応義塾大学 日吉キャンパス公開講座「日本ってなんだろう」より

9月29日赤坂憲雄「東北学、新たなステージ」レジメより引用しています。

「コミュニティを支えているのは、神社と寺である。
 
 当たり前に過ぎることだが、地域の精神的な拠りどころでありつつ、実質的にも集会所や公民館のような役割を担ってきたのが、神社と寺であった、という現実を再確認することになった。高台にあって生き残った神社や寺はみな、ことに初期には避難所となり、救援物資の受け入れ先となって、コミュニティの中核的施設であることをさりげなく示した。

 その神社や寺のなかには、厳しい被害をこうむったケースも少なくはない。被害は当然とはいえ、津波だけではなく、地震による損壊や放射能による汚染といったものまで広がり、その詳しい被害状況はまるで明らかにされていない。その再建に関しては、宗教的施設という条件ゆえに公的な資金が導入されることはむずかしいとされ、東日本大震災復興構想会議においても議論のテーマにすることさえ拒まれたのだった。数百キロにわたる海岸沿いに点在する神社や寺のなかには、おそらく再建されずに放置されるケースが多数出現することになるだろう。

 むろん、南相馬市などでは、神道関係者たちが全国に呼びかけて、流された神社の再建のためのプロジェクトを持続的に行っており、神社が瓦礫の山の下に埋もれることだけは避けることができたようだ。それぞれの地域で、そうした地道な試みが始まっている。気仙沼ではすべてが失われた廃墟の町のなかで、鳥居を見かけて近づいてみると、流された神社の跡に粗末な鳥居やご神体などが集められ、聖地として小さな復活を遂げていた。
ここに、もう一度町を再建する、という人々の意志の結晶のように感じられた。
 
 高台移転や「仮の町」といった構想が語られているが、宅地造成をおこないインフラを整え、復興住宅を建て並べただけでは、コミュニティの再建はありえないのだということを肝に銘じておきたいと思う。」

 

『東北学/文化と震災からの復興』=3回目

2013年10月26日 13時16分56秒 | 東日本大震災
2012年9月29日の3時限目、赤坂憲雄「東北学、新たなステージへ」のレジメより引用。
3回目です。

<3>

瓦礫のなかで、くりかえし生き残った神社に遭遇した。

 三・一一から四週間ほどが過ぎていた。はじめていわき市に入り、津波に洗われた海岸をひたすら南下した。塩谷岬をめざしたが、辿り着くことはできず、その手前の薄磯という地区で茫然と立ち尽くすことになった。住宅街は津波に舐め尽され、火災も起こり、ほとんど壊滅状態だった。まだ瓦礫の処理はほとんど行われておらず、かろうじて緊急車両の移動を可能にするために道路から瓦礫が撤去されているだけだった。一面の瓦礫の海が眼の前に拡がっていた。言葉はなかった。ただ黙々と、破壊の跡を眺め、手を合わせ、カメラのシャッターを押し続けた。

 ふと、瓦礫のなかに、鳥居がぽつりと立っているのに気付いた。焼け焦げたビルを迂回し、瓦礫を掻き分けながら、近づいてゆく。石の鳥居が瓦礫に埋もれたままに、かろうじて立ち尽くしていた。狛犬は片方だけ、鳥居の向こうに身をよじるように立っている。かたわらに参道の坂道があり、高台に薄井神社が建っていた。そこから眺めると、海がすぐそこにあって、津波が低い堤防を越えて一気に住宅街を押し流した情景が思われた。神社は避難所として使われていたらしい。この地区で津波の難を無傷で免れたのは、この神社だけだったかもしれない。

 思えば、瓦礫の海のなかに、かろうじて鳥居や神社が生き残っている姿を見かけた。それがはじまりとなった。津波に舐められて跡形もない風景のなかに、気がつくと、鳥居と森と神社が孤高に立ち尽くしているのだった。高台にある神社に逃れて助かった人々の話にも、くりかえし出会った。五メートルぐらいの高さまで、参道の階段が流されたが、神殿に上がった人たちは助かったとか、集落のもっとも奥まったところに鎮座する神社の鳥居のを下まで津波が届いたが、狭い境内に逃れた人々はそこに焚き火をたき、一夜を明かした・・・といった話に耳を傾けた。

 津波の難を逃れた神社の姿は、多くの人によって語られてきた。神憑りの霊験譚を語りたいのではない。ある工学部の大学院生の研究によれば、同じくらいの数の神社が流されており、そこに特別な意味合いは存在しないともいう。きちんとした調査と研究が必要だが、私自身はそこには何らかの社会文化的な背景が隠されていると想像しているが、今は措く。


私自身の受講メモより

「東北学 
 
 ぼかしの地帯、あいまいさ。北と西の文化がつながりあう。
 その姿を浮き彫りにするのが東北学。
 ・北につながる東北ー縄文文化_東北の出土品の中に生きている。
  30万人の80%は北に住んでいた。
  ブナ林があったことによる。豊かな資源・狩猟。
   アイヌ・エゾ
  平泉、北につながる濃い文化。
  弥生、古墳文化は存在しない。
  東北に立つと北につながる文化がみえる。

 ・西につながる東北ー弥生文化、大和、稲作農耕


 遠野物語。120年前に書かれた。
 そのさらに150年前に、会津でキツネにばかされた物語などがあり、
 下地となっている。
 似ている物語が多い。」


1986年9月に岩手県遠野市内で撮った一枚です。
旅日記の記録によると「北川家、オシラサマ」



遠野市内、佐々木喜善の生家・水車小屋



旅日記の中で、「遠野市は全国で4番目に広い市だけれど人口密度の低さは3番目ぐらいだそうです」と私は書いています。

一連の講義の中で他の日時に他の講師の先生から遠野物語の話も聴きました。
若い頃は意味がほとんど意味がわかっていなかった。
もう一度読み返してみたいと思っています。


昨夜は2時10分に福島県沖で地震、揺れは長く続きました。
原発は大丈夫なんだろうか、不安になります。
原発はコントロールできているって世界に向かって言ってしまってよかったのだろうか。
何か違う方向に引っ張られてしまっているように思えてなりません。


26号の台風で行方不明の方々がいらっしゃいます。
神奈川県の海で行方がわからない男の子の捜索も続いています。
なんともせつなくてたまりません。
早く見つかりますように、今通過中の27号で大きな被害が出ませんように・・・。

日本列島に生きる私たちは大きな自然災害と背中合わせ。
3.11で思い知らされました。

東北学はまだ続きます。

 



震災ボランティア

2013年10月20日 13時30分29秒 | 東日本大震災
2011年8月20日から21日にかけて石巻市に行きました。
作業は側溝の泥だしのお手伝い。
体力に自信がなくて行こうかどうしようかずいぶん迷いましたが、思い切って行きました。
ボランティアバスを利用して、車中一泊の日程。
ほとんど眠れず、他の人に迷惑をかけることにならないようにと必死でした。
軽登山靴・排気弁付き防塵マスク・保冷バッグに食料・凍らせたペットボトルなど色々と準備しました。

21日の午後帰る頃に陽が出て暑くなってきましたが、作業中は幸いなことに雲が隠してくれていて心配したほどの暑さではありませんでした。
私は土のう袋の口を開けてもっていて、他の方がスコップで泥(ヘドロ)を袋に入れるのを手伝い、満杯になったら引きずって運ぶという作業をしました。ほんとにささやかですが、こういう作業の積み重ねなんだと思いました。

簡単には終わらないと思います。
私自身の大切な記録として、そこに行かなければわからなかった空気感・匂い・感覚を忘れたくない、忘れてはいけないという思いをこめて、ようやく携帯の写真を取り込みました。

なかなか直視するのはきついですが、よろしかったらご覧ください。

東北は20歳前後の頃よくユースホステルに泊まりながら一人旅をしていました。
東北新幹線に乗って仙台・盛岡には何度も行っており、岩手県の沿岸部に泊まったこともあります。
リアス式海岸の三陸鉄道にも乗りました。

もう少し先自分自身の心の中が落ち着いてきたらまた旅してみようと思っています。





ボランティア活動の拠点となっていた小学校の校庭で、その頃は被災された方々が生活して
いらっしゃいました。
この小学校の校舎の時計は、3時50分ぐらいで針が止ったままでした。


震災チャリティー_プリンス・エドワード島の写真

2013年10月06日 22時18分54秒 | 東日本大震災
久しぶりに吉村和敏さんのブログをのぞいたら、震災チャリティーの写真販売のお知らせが載っていました。

被災した子供たちのためのチャリティーで、プリンス・エドワード島の8点の写真のいずれかを1点、
1万円で購入します。
昨年同じ企画で、ケープ・トライオンの灯台の写真を購入しました。
オリジナルプリントなのでとても美しいです。幸せな気持ちになります。
額に入っていて吉村さんのサインも書かれているので、よろしかったらご協力お願いします。

http://kaz-yoshimura.cocolog-nifty.com/blog/

注文の締め切りは10月31日とのことです。
私も乗り遅れないようにしないと・・・。



『東北学/文化と震災からの復興』=2回目

2013年08月11日 12時14分25秒 | 東日本大震災
2012年9月29日―11月17日
慶応義塾大学日吉キャンパス公開講座「日本ってなんだろう」を受講しました。

9月29日の3時限目、赤坂憲雄「東北学、新たなステージへ」のレジメより引用。
2回目です。

<2>震災の夏には、鎮魂と供養のテーマがあふれていた。

 お盆の季節に被災地を歩いた。四月から五月にかけての頃には、津波に流された家々のコンクリートの土台ばかりが眼についたが、それが急速に雑草に覆われてゆこうとしていた。荒れ野に回帰してゆく被災地からは、あらゆる記憶が根こそぎに奪われてゆくようで、恐怖を覚えた。コンクリートの土台が見えると、妙に安心を覚えた。そこに、花が供えられている姿をくりかえし見かけた。そのかたわらに、お菓子や缶入りのジュースかお茶、壊れた携帯電話、そして写真が置いてあった。別れを告げる言葉を書いた紙が、ビニールに包んで立てかけてある。何人もの名前が見える。

 土台しか残っていない民家の庭先に、真新しい高灯籠が立っていた。花が供えられた一角が近くにあった。高灯籠は新しいホトケが、道をまちがえずに自分の家に戻ってくることができるようにと立てられる、目印なのである。この家でも、迎えなければならない死んだ家族のために、建物としての家はすっかり流されてしまったが、その庭に高灯籠を立てたのである。生き残った家族のもとに帰ってきてほしい、という願いが託されているはずだ。

 そこからは、延々と草むらにテトラポッドが点在している。まるで恐山の賽の河原のような情景が広がっていた。海辺に出て、荒涼とした海に見入っていると、数台の車に分乗した人たちがやって来る。数十人の人たちはみな花を携えていた。浜辺に集まると、一人一人順番に壊れた堤防に近づいて、海に向かって花束を投げてゆく。親族のなかに遺体の上がらぬ者がいて、その供養のために浜辺へやって来たのか。肉親の死を受け入れることはできないが、それでも何とか区切りをつけようとしている、そんな姿に見えた。みなが花を投げ終えると、海を背にして寄り集まって記念写真を撮った。

 その頃から、わたしは自分が被災地巡礼の旅をしているのだと思うようになった。いたるところに、東日本大震災の犠牲者たちを鎮魂するための小さな霊場が生まれていた。そこで、ただ黙って手を合わせることが、いつしかわたしの旅の作法と化していった。



わたしの受講メモから。

「剣舞(ケンバイ)、少年たちが侍姿で踊る。宮沢賢治が詩に書いている。打つも果てるもひとつの命。

 垂直に宇宙に向かって行く文化、西とは明らかに違う。
 深い悲しみが奥底にある。

 小さな祭壇や霊場が被災地にはみられる。

 死者たちへの鎮魂なしに復興はありえない。
 どうやって魂を沈めたらいいのか誰にもわからない。
  
 夕方になると海に向かっている女性たち。家族が帰ってくるかもしれない。
 被災地のあちこちで幽霊がでる、という話がある。
 遠野物語、99話。

 供養・鎮魂を行うことは死者との和解。

 「死者との和解」なくして生きていけない。幽霊と出会っている。
 「死者との和解」は宗教の役割。
 神社はたくさん生き残っている。 
 生と死をめぐるテーマ。

 共生-亡くなった人たち、今生きている人たち、これから生まれる人たちを含んだ共生。 ヨーロッパにはない独自の文化。
 被災地は祈りに包まれている。
 宗教をあらためて問い直す。21世紀の震災をきっかけとした私たちのテーマ。」
 



昨日、「石巻元気商店」から配信されたメールからそのまま引用します。
(自分にできることをささやかでもやろうと思い、インターネットでおでんなど購入してからメールが定期的に配信されてきます。)

「8月11日で東日本大震災から2年5ヶ月となります。
 明日は東北の太平洋沿岸で一斉に
 本来花火が持っていた「追悼」と「復興」の意味を込めて、
 東北を、日本を、明るく、元気にするため花火が打ち上げられます。
 石巻市は雄勝町大須港の夏祭りで花火が上がる予定です。

 たくさんの想いが込められた花火を見上げ、
 多くの人に元気が届くよう願っています。」


2011年8月19日(金)-20(土)にかけて、県の災害ボランティアステーションが運営するバスに乗って、石巻市でボランティアに参加しました。
(一度は自分の目で確かめたいと思いました。結局、これ一回きりで、気持ちがありながらもなかなかその後は行くことができていません。)


車中一泊、夜21時出発、宮城28便でした。
作業内容は、側溝の泥だしのお手伝い。
私はスコップを持って泥を出すだけの体力はないので、土嚢袋に泥を入れるお手伝いと土嚢袋を運ぶお手伝いをさせていただきました。

バスの中でがほとんど眠ることができないまま朝を迎え、「がんばろう石巻」の前で手を合わせ、湊小学校近くでの作業でした。
心配していたよりも涼しく、午後は陽が出て暑くなってきましたが、幸い作業中は雲がかくしてくれていました。

沿岸部の家々や工場の、中は片づけられて土台と屋根と骨組みだけが残っている光景は、テレビで見ているだけと実際に自分の目で見るのとではかなり印象が違いました。その違いを言葉でうまく説明することはできないのですが、自分の足でそこに行くとテレビではわからない匂いや空気感を体で感じました。

事前の説明会に参加して、防塵マスクを用意していましたが、それまで経験したことのない強烈な泥というよりはヘドロの匂いに頭がクラクラし、一度スコップの泥をかいだ手袋は帰宅してから強い洗剤で繰り返し洗っても匂いは消えることなく、山歩き用の革手袋でしたが結局廃棄となりました。

小学期の時計は、3時45分頃を指したまま止まっており、その時はまだ被災された方々が暮らしていらっしゃいました。ボラバスの私たちが岐路につこうとしている時手を振ってくださいました。校庭のお風呂は中越地震のあった新潟から贈られたもののようでした。

直前までそこでは本当に普通の生活が営まれていたんですね。
普通の生活、そのいかにかけがえのないものであるかを3.11は私たちに教えてくれたはずです。
2年5カ月が過ぎ、自分の日常にまみれているとともすれば忘れそうになっていますが、今日は月命日。3.11を忘れない。一人一人の小さな力の積み重ねの先にしか復興はないんだと、その強く感じた思いをこうしてブログで振り返りながら、私自身思い出すことができました。

細々と募金箱を見かけるとお金を入れたり、あしなが基金・赤十字に募金したり、三陸産わかめを買ったり、ほんと小さなことしかできていませんが、これからも続けようと思います。自分にできることを探し続ける気持ちを失わないようにしたいと思います。


写真が携帯電話に入っていますが、アップロードのやり方がわからないのでまた後日いずれアップできればと思います。

→まだまだ続きます。







『東北学/文化と震災からの復興』(1)

2013年07月07日 15時34分26秒 | 東日本大震災
「2013年1月某日

人が生きていく営みーそれは、先に逝った命、今生きている命、これから生まれてくる命をひっくるめて命なんだと思う。

河合隼雄さんと小川洋子さんの対談集を読んであらためてそう思った。
日本の祭りには、そうした命への鎮魂がこめられている」



2012年9月29日―11月17日
慶応義塾大学日吉キャンパス公開講座「日本ってなんだろう」を受講しました。

9月29日の3時限目、赤坂憲雄「東北学、新たなステージへ」のレジメより引用したいと思います。

「<1>はじめに民族芸能が復活を遂げた。(2011年5月の時点で)

 被災地では、いまだ生き延びることがテーマであった震災から2か月も経たぬ時期に、民族芸能の復活への動きが始まっていた。わたし自身は5月の末に、南三陸町の水戸辺というムラではじめてそのことを知った。あのときの驚きは忘れられない。

水戸辺は志津川湾に面した、小さな港をもつ漁村である。十数メートルの高さの津波に呑み込まれて、ムラはほとんど壊滅に近い被害を受けた。多くの人々は高台に逃げて、命だけは助かったが、何もかも失った。ところが、ムラの男たちは海辺から数キロも流された瓦礫の山のなかに分け入り、それぞれの思い出の詰まったものを探し続けたのである。そして、かれらがついに見つけたのは、水戸辺に伝承されてきた鹿(シシ)踊りの衣装と太鼓だった。それを洗い清め、仲間たちを集めて、避難所で踊った。仲間内から二名の犠牲者があったらしい。まさに鎮魂の踊りとなったにちがいない。避難所に暮らしていた人たちは、ほっとしたように涙をこぼした、という。

 それから、水戸辺の鹿踊りはあちこちに呼ばれるようになった。神社に奉納したり、ムラの行事や何かで、踊ってきたのである。すべての道具や衣装が見つかったわけではない。ニュースに触れた人々からは支援として道具類が届けられたようだ。

 気がついてみると、水戸辺の鹿踊りのように震災から数カ月で復活を遂げていった民族芸能は、けっして少なくはなかった。三陸の沿岸部にかぎっても、鹿踊りのほかに、剣舞や虎舞などが早い時期に復興している。メディアの片鱗に、明るいニュースのひとつとして取り上げられているのを見かけることが多かった。たしかに、廃墟のなかで演じられている民族芸能はインパクトが強い。しかし、どこでも後継者不足で、存続すら危ぶまれていたはずの民族芸能がそうして、むしろ華々しく復興する姿には、どこか意外の感を拭うことができなかった。
なぜ、民族芸能は復活を遂げていったのか。それが大切なテーマのひとつになった。」


受講中のわたしのメモ書きから


「鹿踊り→なぜシカではなく、シシと読むのか?

 激しく体をぶつけ合って太鼓を打ち鳴らす。
 山と海にはさまれた小さな漁村(南三陸)
 だから、漁村なのに鹿。
 昔は炭焼きで生計をたてていた。
 エネルギー革命で、漁業へ転換。

テーマは鎮魂。
被災地ですぐに復興した。
全ての失われた命のためにすぐになすべきテーマだったから。
人間が狩猟によって食べる物をシシという。
生きとし生けるもの全ての命のためにこの踊りを奉納する。
生きとし生けるもの全てに感謝をこめて建てたのが鹿踊り供養塔。
中尊寺建立の思想につながる。
鯨の供養塔もあちこちにある。
日本独自の文化。
全てを使いつくし、命をつないだ。その動物たちへの感謝。」

→まだまだ続きます。
 わたしの中で、『生きるとは、自分の物語をつくること』、そして『御巣鷹山と生きる』へ とつながっていきますが、 結びつくまでにまだかかります。