たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

旅の思い出写真_シャルトル大聖堂

2017年10月07日 18時12分06秒 | パリから世界遺産を訪ねて
 先ほどエネルギーをふりしぼって写真を撮り直し、昨日より少しはマシなものが撮れたので書類に貼付、ようやく整えることができたのであとはポストに投函するばかり。スタミナがもちそうであればこちらの組織体の方が条件はいいんですよね、週四で固定給、どれぐらいディープでハードなのか気になります。まずは書類提出。少しほっとしたところでようやくまた旅の振り返り。

 2008年9月7日から13日まで、「パリから世界遺産を訪ねて」というツアーに一人参加して2007年に続いて訪れたフランス。パリに到着した翌日、モン・サン・ミッシェルを目指す途中でシャルトル大聖堂を見学しました。2008年9月8日のことでした。

 使い捨てにカメラで撮影したこんな写真しかありませんが、フラッシュ禁止だったのでこんなもんかな。写真では伝わりにくいですがステンドグラスがすごく綺麗でした。いろいろな仕事をしている様子が描かれているものもあって楽しめました。見学後にガイドさんの「きれいでしたねえ」としみじみと言われた言葉が今も耳に残っています。現地で説明してくれたのは日本人男性のガイドさんでした。なにもみることなく、全部頭に入っているのだから、かっこよかったなあ。右の旧鐘塔のロマネスク様式と左の新鐘塔のゴシック様式のあいだには100年あるという説明だったと思います。わたし、パンフレットに書き込みしていますね。火事で焼失したという説明をきいたんだったかな。あとマリア様が身につけたとされる衣の一部が祀られているんだったかな。すっごく暗くってよくわからなかったですが祭壇に跪いてみた記憶が・・・。


 会社で働いて働いて働きながら出発日を指折り数えて待った日々、フランス政府観光局のHPにアクセスしてプリントアウトしていました。振り返れば会社に行くのが苦して仕方なかった反動でしたが、楽しみで仕方なかったです。

「シャルトル

 シャルトルの青と呼ばれ、そのステンドグラスの美しさで世界的に知られるノートルダム大聖堂を擁する世界的な古都。ボース地方に広がる田園風景のなかにそびえたつ尖塔がひときわめだちます。11世紀にフュルベール司教が建立し、のちに焼失するものの再建で、ロメネスク様式とゴシック様式が共存します。
ステンドグラスは176枚、総面積2700平方メートルにもおよぶ。描かれた人物は5000人を超えるといわれます。


 シャルトル・ノートルダム大聖堂

 ヨーロッパを代表する宗教建築最高傑作のひとつ。現存する大部分は、1194年の火災のあとに建てられている。二つの塔は向かって左が「新鐘塔」、右がロマネスク様式の「旧鐘塔」。正面、南北のボルタイユ(門)の美しさ、「シャルトルの青」とたたえられるステンドグラス、パイプオルガンなども世界的に有名。」


















駐車場からみた大聖堂。






パンフレットの表紙。






パンフレットの24頁と25頁に日本語の説明がありました。






 カフェで緊張しながらようやくまたここまで書くことができました。まだまだいろいろとぐちゃぐちゃ。チェンネルの整理もやりたいですがそろそろ時間切れとなりました。今は社会から必要とされない人みたいな感じになっていますがまたうまく縁がつながれば誰にでもやれるわけではないスーパーウルトラハードな仕事をやろうとしています。わたしは大丈夫。先のことはわかりません。使い捨てのボロボロ状態からここまで立ち直ってくることができたのだから、できることを、与えられる役割を精一杯やるのみ。そう信じるしかありません。








旅の思い出写真_ルーヴル美術館(2)

2017年10月03日 12時59分55秒 | パリから世界遺産を訪ねて
 「工事のため一時的にチュイルリー宮に移り住んでいたルイ十四世は、しかし三度とルーヴルには戻らず、ヴェルサイユに新しい宮殿の設をはじめます。その莫大な工事費用のために、ルーヴル宮の拡張はまたもストップ!鳴り物入りでつくった列柱翼も、1678年にヴェルサイユヘ宮殿が移転したことで、屋根すらないまま放置される始末でまず王立絵画 彫刻アカデミーが入る。次に貧しい芸術家たちがいつのまにか寄りついて、そこらに勝手に小屋を建てて占拠する。はては売春婦がたむろし、お尋ね者がかくまわれる。かくして
17世紀末から18世紀中頃のルーブルは、パリでも有数のいかがわしい場所となったのです。


1715年、太陽王の72年間におよぶ治世が終わると、弱冠5歳のルイ十五世が一時的にチュイルリー宮に戻りますが、8年後にはヴェルサイユ宮に逆戻りして、ルーヴル宮は 放置されたままとなります。啓蒙思想に感化されたルイ十五世は1750年、リュクサンブール宮で王室の油彩画110点を公開しました。この展覧会が好評を博したのを機に、 時の建築長官は王室コレクションをルーヴルに移して展示するための計画案を提出。このプランも財政難であえなく頓挫してしまいます。


ルーブルが再び歴史の舞台に背景として登場するのは、フランス革命が勃発Lた年のこと。1789年10月、民衆に捕らえられたルイ十六世とその一族が、ヴェルサイユからチュイルリー宮へ強制連行されます。 ルーヴルの荒廃はこちらにも及んで いたらしく、芸術家が占拠し好き放題をしていた館で、王は軟禁生活を余儀なくされました。1792年にはタンブル塔に投獄され、翌年に処刑。ルーヴルを愛したり見棄てたり、200年間におよんだブルボン王朝の歴史もこうして幕をおろします。


 革命政府がが誕生すると、1793年8月10日、ルーヴルは「中央美術博物館」として晴れて開館しました。とはいえ、一般市民が王室コレクションを鑑賞できるのは、10日間のワンサイクルのうちわずか3日間に限られていたけれど。ルーヴル美術館は、その中身も外見も、ひとりの英雄の登場とともに変貌を遂げます。英雄の名はもちろん、ナボレオン。


 中身というのは所蔵品ですね。1798年7月、ナボレオンがイタリア遠征の折りに略奪した古代彫刻の数々が、戦勝パレードとともにルーヴルに到着します。なかには《ラオ コーンの群像》や《ヴェルヴェデーレのアボロン》、ヴェネツィアのサン・マルコ寺院正面を飾る《馬の彫像》といった名品も含まれていました。その翌々年、ナポレオンは「アンヌ・ドートリツシユの夏の御座所」に彫刻作品をあつめて古代美術館をつくらせ、1803年にはルー ブル全体の名称を「ナボレオン美術館」とあらため、外交官ヴィヴァン・ドゥノンを館長に任命。美術史家であリコレクターでもあるドゥノンは、絵画や彫刻のみならず、工芸品の収集もすすめました。


  外見というのは要するに増改築。1804年に皇帝となったナボレオンは、かのアンリ四世の大構想を上回る壮大なプランを描きます。グランド・ギャラリーに平行して、北側 にも長い回廊(現在のリシュリュー翼)をつくり、ルーヴル宮とチュイルリー宮を「口」の字型に連結してしまおう。


  まず手始めに、屋根がないまま放置されていたシュリー翼を完成させます。チュ イルリー宮入口にはカルーゼル凱旋門をつくらせ、その頂部にはヴェネツィアから奪った《馬 の彫像》を燦然と輝かせました。さらに1806年、ルーブルに住みついた芸術家たち約200人を強制的に追い出します。1810年には方形の間でマリー・ルイーズと挙式。ナポレオンの栄光とドゥノンの手腕によって、ルーヴル美術館は質量ともに世界最高レベルヘと充実していきました。


  しかしナボレオンが失脚してルイ十八世が即位すると、1815年には略奪美術品の返還が決まりました。総数およそ5000点。《 カナの婚礼》など約100点は返還を免れましたが、略奪品の去った広大なスペースを別の作品で埋めなければなりません。そこでリュクサンブール宮からルーベンスの連作《マリー・ド・メディシスの生涯》が移され、在コンスタィノープルの大使から《ミロのヴィーナス》が贈られてきました。1824年、美術館の規則が改正され、日曜・祭日が一般公開、月曜の休館日をのぞく平日は芸術家と外国人のために公開されるようになります。


  1852年、大統領に選出されていたナボレオン三世が皇帝を名乗り、第二帝政がはじまりました。オスマン男爵を重用してパリの都市大改造に踏み切った皇帝は、伯父のナボレナポレオン一世がたてた計画の完成を目指します。ルーヴル宮とチュイルリー宮を「口」の字型に連結する工事は、民家に遮られて未完だったんですね。道路整備と一体となった工事は 着々と進み、1857年ついに完成。「ルーブル帝国美術館」として新装オープンしました。こんどは休館日の月曜以外はいつでも誰でも鑑賞できます。フランスのアマチュア考古学者が《サモトラケのニケ》を発見したのも、イタリアの銀行家カンパーナ侯が収集したギリシアやエトルリアの陶器を中心とする約1万点のコレクションをルーヴルが競り落としたのも、この頃のお話です。

  
  順風満帆だったルーヴルにも、やがて火の粉が次々と降りかかってきます。


  まずは普仏戦争とパリ・コミューン。1870年にパリがプロイセン軍に包囲されると、グランド・ギャラリーは銃身を彫る工場と化しましたし、翌71年5月には、パリ・ コミューンの争乱のさなか、チュイルリー宮に火が放たれます。宮は焼け崩れ、12年間も無惨な姿をさらしたすえに撒去。「口」の字型に完成したルーヴルは、わずか25年でその一辺がボロリと欠けて、現在のような「コ」の字型となったのです。


  続く受難は第一次世界大戦の勃発。1914年、まず主要な作品が南仏トゥールーズまで特別列車に乗って疎開します。ドイツ軍の空爆がはじまった翌年にはプロワヘも避難。


  1939年8月25日、ドイツ軍のポーランド侵攻を待たずに、ルーヴルは作品の大脱出作戦を開始します。綿密な計画どおり作品が丁寧に梱包され、1組5〜8台のトラックからなる運送隊によって夜中に次々と運びだされていきます。ジェリコーの《 メデューズ号の筏》もそのひとつ。ところがヴェルサイユの市庁舎前でカンヴァスが市電の架線に引っ かかってショート。暗闇のなか、バチバチと飛び散る火花が名画を照らしたといいます。
あやうく焼失は逃れたものの、その先は市電のあるルートを避け、電話線も危ないと見て とるや技師を随行させ、電話線の下を通るたびに架線を外させたり持ち上げたりしたとか。



 《モナ・リザ》を含む第1隊が出発してから12月までの5ヶ月間、こうして約4000点の名品が37隊にわかれてパリを脱出、まずロワール河畔のシャンポール城に運ばれました。《モナ・リザ》の逃避行はさらにつづきます。ドイツ軍の侵攻が明白となった翌1940年には、はるか南方、アヴェロン県のロックムアュー大修道院に移るも、ここは湿度が高く、すぐに隣県のモントーバンにあるアングル美術館へ。ところが1942年に入ると、ドイツ軍が非占領地帯のモントーバンにまで進駐をはじめます。《モナ・リザ》あや うし!名画はまたもや密かに運びだされ、南仏モンタル城でやっと戦火をのりこえたのです。


  ではパリのルーヴルはどうなったでしょう?1940年の6月、パリを占拠したナチス・ドイツは、ほとんど空っぼなルーブルに、さぞや落胆したことでしょう。表向き紳士 的なナチスは、まず過去にドイツから略奪された作品の返還を求めました。しかしルーヴル側も負けてはいません。「ただ一方的に返還するのはおかしい。ドイツにあるフランスの作品との交換が条件だ」と主張、ドイツ側が提供してくる作品に難癖をつけて時間をかせぎました。フランス人の屁理屈にうんきりしたのか、 交渉役のゲーリング元帥は《サモトラケのニケ》の複製を作らせてしぶしぶ満足、のちに自分の山荘に飾って、テラスから眺めていたというこです。


  そうこうしているうちに終戦。二度の戦火を何とか切り抜けたルーヴルでしたが、展示スペース不足という問題だけはいまだにつきまといます。1981年に大統領に就任した ミッテランは、今のリシュリュー翼に入っていた財務省を移転してルーヴルの全館を展示室にあて、鑑賞経路をわかりやすく改造する「グラン・ルーヴル計画」を提案します。 1986年にオルセー美術館がオープンすると、印象派など1848年以降の作品を移転。1989年にはガラスのビラミッドが完成し、開館200周年を迎えた1993年、リ シュリュー翼の改造がついに終わりました。


  そして21世紀。この巨大な美の迷宮は休むことを知りません。たえず作品の修復がなされ、展示替えも行われ、新しい展示スペースをつくるべく必ずどこかで工事は続けられ ているのです。」



一日で鑑賞するルーヴル美術館 (とんぼの本)
小池 寿子,芸術新潮編集部
新潮社

旅の思い出写真_ルーヴル美術館

2017年10月02日 18時39分56秒 | パリから世界遺産を訪ねて
 旅の思い出振り返り。ルーヴル美術館は迷宮。鑑賞ツアーのあと、一人で迷子にならずにホテルに帰れるかしらと不安でした。お寿司らしきものを売っているお店でお昼をたべたあとまたツアーで訪れた部屋を見学したかな。広すぎて出口がわかんなくなりそうでおそろしかったです。ガイドブックを読み返してみるとルーヴル美術館の入口は三つ。それぞれ地下鉄の駅と直結していたと思います。どこから出るかによって帰るルートが違ってくるので大変。入った時と同様ピラミッド口から出て、シャンゼリゼ通りを歩きながら帰ったんだったかな。この写真はどの入口付近だったか忘れましたが、城砦として使われたルーヴルの歴史を物語っています。恋人の名前が刻まれているというガイドさんの説明だったかな。こんな解像度の低い写真ではわからないですね。


 長文になりますが、一気に引用してみたいと思います。よろしかったらお読みください。

(小池寿子・芸術新潮編集部『一日で鑑賞するルーヴル美術館』新潮社、2006年発行より)

 12世紀の終わりごろ、パリはセ―ヌ河をはさんで南北に広がり、ヨーロッパでも有数の都市に発展していました。時の王、フィリップニ世は十字軍遠征で首都を離れるにあたり、この街を全長5キ回の堅牢な市壁で囲うよう命じます。しかし東西に流れるセーヌ河が中心部を貫通しているかぎり、街全体をぐるりと壁で囲い込むことはできない。そこで1190年頃、外敵の侵入にそなえ、セーヌ河の出入りを監視するための城砦が築かれました。これがルーヴルのはじまり。語源には諸説あるようです。サクソン語の「ロヴェル」とか、ラテン語の「 ルーパラ」とか。前者は城砦、後者は狼狩り小屋の意。当時、ルーヴル周辺には狼が出没したんですね。

  城砦は実用に徹したシンプルなものでした。10本の円塔を配した城壁は78×72 2メートルのほぼ正方形。中心には直径15メートル、高さ30メートルの天守塔が聳え立ち、お王室の文書や宝物も納められていた。このルーヴル城が今のシュリー翼(の一部) の原型。同翼半地下でかつての円塔や城壁の土台部分が見られます。


 13世紀、お城は安泰でした。逆に言うと、城砦としての意味が薄れていく。フィリップニ世の孫、ルイ九世はシテ島の暑さと悪臭を逃れるためループル城を夏の離宮として改装 し、さらにその孫の美貌王フィリップ四世の時代には、しばしば重要な会議も開かれるようになりました。 庭園も美しく整えられたとか。


 14世紀、ルーブルは城砦から宮殿へと華やかな転身を遂げます。1364年、賢明王シャルル五世が無骨なルーヴルをおとぎ話のお城のように改築しだしたのです。円塔のひとつには貴重な写本を973冊も集めた王の図書館がつくられ、これはのちにフランス国立図書館の基礎となりました。

 
 16世紀半ば、ルーヴル宮は復活します。1546年、フランソワ一世が建築家のビエール・ レスコーに命じて中世風の古い建物を取りこわし、新たにルネサンス風の宮殿をつくらせました。王は完成を見ずに亡くなりましたが、息子のアンリニ世が工事を続け、1550年に完成。舞踏会や公式会議に使用された1階の大広間は、多少の改造はあるものの、現在もシュリー翼1階にその姿をとどめています。


 フランソワ一世は美術作品の大コレクターでした。ロワール河畔のお城に晩年のレオナルド・ ダ・ ヴインチを住まわせ、画家の没後に《モナ・リザ》を購入し、パリ郊外のフォンテーヌブロー宮に飾りました。他にもラファエロやティツィアーノらの名画を蒐め、ルーヴル・コレクションの基礎を築いたのです。


1559年、アンリニ世が馬上槍試合で急死すると、妃のカトリーヌ・ド・メディシスが摂政とLて実権を握ります。彼女は1564年から、かつて瓦工場(チュイルリーがあった場所)に宮殿をつくりはじめます。が、おりしも宗教戦争のまっただなか。新教徒がパリで大虐殺される事件を契機に、チュイルリー宮の工事は中断され、ルーヴル宮でも4人のカトリック同盟員が絞首刑になりました。


 宗教戦争の騒乱にピリオドを打ったのはブルボン朝の始祖、アンリ四世でした。カトリックに改宗することで市民を懐柔した陽気で女好きの王は、1594年、ルーヴルの大改造に着手します。一番の懸案だったのはルーブル宮と、瓦工場跡にできたチュイルリー宮の各階を、長大な廊下でつないでしまうこと。今日、セーヌ河に沿ってえんえんとつづくドゥノン翼2階のあのグランド・ギャラリーは、こうして出来上がったのです。アンリ四世在位当時は、1階にギリシア・ローマ彫刻がならべられ、1階と中2階が画家、彫刻家、彫金細工師、家具職人たちの制作活動の場になったとか。王はまた、方形のルーヴル宮の各辺を2倍に拡張する大構想を練りました。


 ルイ十三世が大構想を受けつぎ、リシュリュー枢機卿とともに、工事を進めます。その名をリシュリュー翼に残すこの宰相は、みずから詩作や劇作もする文化人で、絵画彫刻の大コレクター。アカデミー・ フランセーズをつくったのも彼です。1643年にルイ十三世が没すると、フロンドの乱がおこり、幼いルイ十四世はパリを脱出。当然ながらルーブル宮の拡張工事は中断されてしまいました。


  若き太陽王がルーヴルに戻ったのは1654年のこと。さっそく建築家のルイ・ル・ ヴォーに命じて、まずは母后の居室を改造します。ロマネッリによる絢爛豪華な天丼画が描かれた部屋は、現在も「アンヌ・ド ートリッシュの夏の御座所」と呼ばれ、ローマ彫刻の展示室(ドゥノン翼1階22〜26番展示室)になっ ています。 また1658年、カリアティードの間ではモリエールの「ニコメード」と「恋する博士」が上演されました。チュ イルリー宮では、1000人を収容できるヨーロッパ最大の劇場もつくられていますが、音響効果がひどく、すぐお払い箱に。


 1660年、満を持したルイ十四世がルーブル宮の拡張に本格的に挑みます。いまだのこる中世の城砦部分を取り壊し、周辺の家屋を立退かせ、方形の王宮を増築。今のシュリー翼が姿をあらわしはじめました。また、その東側部分をあらたな正面玄関にするため、王は建築家たちにデザインを競わせます。が、いちどはイタリアバロック建築の巨匠、ベルニーニの案に決定し、1665年に工事もはじまったのに、なぜか王は意をひるがえしてしまう。結局、玄関の意匠はフランス人建築家たちによる列柱翼(コロナード)のデザインに変更されました。フランス人建築家たちのイタリア人建築家に対する嫉妬や嫌がらせがあったとも言われています。」

 
 一気に引用するのは長すぎるので続きは明日にします。明日はかかりつけ医で朝早くに胃のレントゲン検査と血液検査。部屋を早くでるの一か月ぶりだし、部屋をでるとき不安がおそってくるし、部屋を出るの、廊下が狭いので斜めお向かいに丸わかりだし、終わっても部屋に戻れないので居場所がないし、意の検査するの4年ぶりなので、キノコがたくさんはえているだけですめばいいけど心配だし、いくつかの意味できつくって大変な一日が待っています。今日は久しぶりに美容院ですっきりしまた帰りに寄り道中。帰りたいけど帰りたくない部屋にさっさと帰らねばです。


旅の思い出写真_ルーヴル美術館_アモルの接吻でよみがえるプシュケ

2017年09月24日 18時58分39秒 | パリから世界遺産を訪ねて
 わたし自身のための旅の振り返り、だんだんと記憶が薄れつつある2008年9月のフランスへの旅。ルーヴル美術館でどんな作品に出会ったのだろうかとまたようやく振り返ってみると、ありがたいことに公式サイトで臨場感たっぷりに作品をみることができます。当たり前のように日本語のサイトも用意されています。すごいですね。


http://musee.louvre.fr/oal/psycheJP/indexJP.html


 アクセスすると「ミケランジェロのギャラリー」の光あふれる中に展示されている所から作品をみることができます。思い出しました。ギャラリーに一歩足を踏み入れると、窓からの陽射しがたっぷりとあふれるなかで、大理石の作品が輝くように美しく、まるで命の鼓動が伝わってくるような生命感にあふれていたことを。不思議でした。惹き込まれました。幸せでした。表情豊かなのであちらからもこちらからもみたくて、周囲を二回か三回は回ったと思います。ずうっとそばにいたいような感覚にとらわれました。ガイドさんの声も弾んでいました。時間に限りがあるのが本当に残念でした。

 こんな解像度の低い、へぼい写真しか撮れませんでしたがこうしてネットで鮮やかな映像をみることができるなんてほんとにありがたい時代になりました。こうしてネットでいることができますが、作品の息づかいは飛行機に乗ってはるばるルーヴル美術館まで行かないと味わうことができないことにかわりはありません。かなり無理しましたが行ってよかったです。この世にいる間にまた行きたいな。もう一度会いたいな。


「アントニオ・カノーヴァ(1757年-1822年)
《アモルの接吻で蘇るプシュケ》
大理石 高さ1.55m、幅1.68m、奥行き1.01m

翼をつけた青年が、気を失った乙女が横たわっている岩の上に今降り立ったところです。これはラテン語でクピドとも呼ばれる愛の神アモルです。翼や、矢筒をもっているのことから識別できます。乙女の名はプシュケ、アモルの母である美の女神、ヴィーナスは、プシュケに冥界から瓶を持ち帰り、そしてその瓶を決して開けないようにと厳しく戒めます。

しかし、好奇心旺盛なプシュケは、瓶を開けてしまい、瓶から立ち昇る耐え難い臭気を吸って仮死状態に陥ってしまいます。気絶したまま横たわるプシュケを見たアモルは、プシュケの元に駆けつけ、矢の先でそっと触れて、まだ生きているのを確かめ ます。カノーヴァが捉えたのはまさに、この瞬間で、アモルは愛するプシュケを優しく抱き上げ、彼女の顔に自分の顔を近づけます。プシュケは身をゆっくりと後にそらし、けだるい動作で、恋人の首に手を回します。

カノーヴァは、古代ローマの作家、アプレイウスの『変容』に書かれた伝説をもとにこの像を作りました。そこには、神々が話し合いの結果、アモルとプシュケの結婚に合意し、プシュケに「魂の女神」という地位と永遠の命を与えたと書かれています。 」





旅の思い出写真_ルーヴル美術館_「ナポレオンの戴冠式」

2017年09月07日 18時00分57秒 | パリから世界遺産を訪ねて
 2008年9月11日(木)に訪れたルーヴル美術館より、『ナポレオンの戴冠式』。巨大な絵でした。ナポレオンが自らの権力を誇示するために描かせた絵が、王宮としても使われた歴史のあるルーヴル美術館にあるというのが不思議な感じでした。作者自身による複製画がヴェルサイユ宮殿にありました。こちらも巨大でしたが調度品が置かれた王宮内と美術館でみるのとでは違う印象だったような気がします。どう違うかは上手く言えませんが・・・。


「作家:ジャック=ルイ・ダヴィッド
 年:1805–07 (1808年公開)
 種類:油彩
 寸法:6.21 m × 9.79 m (20 ft 4 in × 32 ft 1 in)
 収蔵場所:フランス, パリ, ルーヴル美術館

 『ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠』 (ナポレオンいっせいのたいかんしきとこうひジョゼフィーヌのたいかん)は、ナポレオン1世の首『ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠』 (ナポレオンいっせいのたいかんしきとこうひジョゼフィーヌのたいかん)は、ナポレオン1世の首席画家ジャック=ルイ・ダヴィッドにより描かれた油彩画で、1807年に完成された。正式にはルーブル美術館から、『1804年12月02日、パリのノートルダム大聖堂での大帝ナポレオン一世の成聖式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠式』(フランス語: Sacre de l'empereur Napoléon Ier et couronnement de l'impératrice Joséphine dans la cathédrale Notre-Dame de Paris, le 2 décembre 1804)と呼ばれているが、略して『ナポレオンの戴冠式』として知られている。
幅10メートル (33 ft)、高さ6メートル (20 ft)ほどの大作で、歴史的局面を印象的に表現している。

  ナポレオン1世の成聖式(フランス語: Sacre)は、パリのノートルダム大聖堂で行われた。 その目的は、ナポレオンが「フランス人民の皇帝」として革命を引き継ぐ者であると示威することにあった。」(ウィキペディアより)


 「ナポレオン一世は、パリのノートル=ダム大聖堂で1804年12月2日に挙行された自身の戴冠式を不滅のものとするため、ダヴィッドにその絵を描くよう依頼しましたが、ダヴィッドはこの巨大な作品を仕上げるのに3年を要しました。戴冠式を機に、大聖堂の内陣も、トロンプ=ルイユ(だまし絵)で描かれた木のつくりによって新古典主義様式に改装され、威風堂々たる場面において各々の人物がその役回りを演じる舞台となったのです。

 あらゆる政治的プロパガンダの作品と同様に、この作品でも実際の様子をいくつか脚色しているのは明らかです。例えば、中央の王座には皇帝の母が描かれていますが、息子に怒っていた母は実際にその日には出席していませんでした。皇帝の首席画家として駆け引きに長けていた画家の筆によって、実際より大きく細身に描かれたナポレオンや、若返ったジョゼフィーヌの理想的な美もそうした脚色です。結局、皇帝が自分で戴冠するという身振りほど挑発的ではない、皇妃ジョゼフィーヌを戴冠する場面が好まれたわけですが、ナポレオンの背後に座している教皇ピウス七世は、さして納得した様子もなくジョゼフィーヌを祝福しています。 

  巧みな照明効果によって、こうした主要人物たちが、総勢150人の肖像の中から浮き彫りにされ、宝石の輝き、布の滑らかさ、ビロードのクッションの柔らかさといったものが映えています。ダヴィッドは、高位高官の豪奢の誇示を不滅のものにする現代の写真の先駆者であり、こうしたニュースにおいては、豪奢は大衆に夢を見させる役割を果たしています。しかしながら、こうした主要人物の中で最も生き生きしているのはおそらく、画面右側で赤い衣裳を身にまとったタレイランで、これ見よがしの誇示に対して、皮肉な視線を投げかけているように見えます。」(ルーヴル美術館HPより)


旅の思い出写真_ルーヴル美術館_「民衆を導く自由の女神」

2017年09月06日 18時18分53秒 | パリから世界遺産を訪ねて
 雨の一日、2カ月半でエネルギーをそがれた疲れがきていますが、部屋にはいられないので今日も午後は放浪の旅に出ています。データを持ち出しているUSBが読み込めなくてちょっと焦り。なんだかまだまだ色々とぐちゃぐちゃ、たまりにたまったものを整理していくのに時間がかかっています。少しずつ少しずつ整理中。やっとここまでたどり着いた感です。

 2008年9月11日(木)に訪れたルーヴル美術館から、ドラクロワの描いた『民衆を導く自由の女神』。相変わらず解像度低すぎ。こんなへっぽこ写真ではなくても素晴らしいものがネットにはたくさんありますが、わたしの思い出はこの写真と共にあります。こうして振り返っていると、広い広いルーヴル美術館のにおい、空気感が体の中によみがえってきます。女神の右前に描かれている少年は、『レ・ミゼラブル』のガブローシュのモデルになったと言われています。絵の下の方をご覧ください、というガイドさんの声が今も耳に残っています。亡骸の山、衝撃的でした。


「民衆を導く自由の女神(みんしゅうをみちびくじゆうのめがみ、

 仏: La Liberté guidant le peuple)は、ウジェーヌ・ドラクロワによって描かれた絵画。1830年に起きたフランス7月革命を主題としている。

 中心に描かれている、銃剣つきマスケット銃を左手に持ちフランス国旗を目印に右手で掲げ民衆を導く果敢な女性は、フランスのシンボルである、マリアンヌの姿の代表例の一つである。絵画としてのスタイル、フランス7月革命というテーマから、絵画におけるロマン主義の代表作と言える。

 原題のLa Liberté guidant le peupleから分かるように、女性は自由を、乳房は母性すなわち祖国を、という具合に、ドラクロワはこの絵を様々な理念を比喩(アレゴリー)で表現している。一方で、彼女が被るフリギア帽は、フランス革命の間に自由を象徴するようになった。やはり、マスケット銃を携えて女性に続くシルクハットの男性は、ドラクロワ自身であると説明される事が多い。女性の左隣の二丁拳銃の少年については、誰をイメージしたのかは不明。

 1831年5月のサロン展に出品され、フランス政府は革命を記念するためとしてこの作品を3,000フランで買い上げたが、翌1832年の六月暴動以降、あまりにも政治的で扇動的であるという理由から、1848年革命までの16年間は恒常的な展示は行われなかったという。1874年から今日に至るまで、ルーヴル美術館に収蔵されている。なお、フランス国外に貸し出されたのは、イギリス・アメリカ・日本の3か国のみである。

 2013年2月に、来館者に黒のフェルトペンで落書きされてしまう被害に遭うが、翌日には修復されている[1]。表面にはワニスが塗ってあり、落書きが下の絵の具には浸透していなかったため、修復が可能だった。なお、落書きは「AE911」と書かれており、アメリカ同時多発テロ事件や、その陰謀説などが関わっている可能性が指摘されている。

 1999年に「日本におけるフランス年」の文化財海外交流展の一環として、この絵画がルーブルから東京国立博物館に1ヶ月間貸し出された。この際に、日本からフランスに貸し出されたのが、法隆寺の百済観音像である。

 日本でも「日本におけるフランス年」を記念してこの絵画の記念切手が発行されたが[3] 、フランス本国では、ドラクロワの肖像と共に、旧100フラン紙幣にその一部が描かれた。
なお、日本への運送には大型貨物機のエアバス ベルーガが使われた。

 日本では慣習的に『民衆を導く自由の女神』と題されることが多いが、原題の La Liberté guidant le peuple は、正確には「民衆を導く自由」(自由 Liberté はアレゴリー)という意味である。このためこの絵画を『民衆を導く自由』として紹介する文献も存在する。」(ウィキペディアより)


 ルーヴル美術館のサイトにはさらに詳細な解説が掲載されています。

read:http://www.louvre.fr/jp/oeuvre-notices/%E3%80%8A7%E6%9C%8828%E6%97%A5%EF%BC%8D%E6%B0%91%E8%A1%86%E3%82%92%E5%B0%8E%E3%81%8F%E8%87%AA%E7%94%B1%E3%81%AE%E5%A5%B3%E7%A5%9E%E3%80%8B


旅の思い出写真_ルーヴル美術館_「ラファエロの聖母子像」

2017年09月03日 18時24分18秒 | パリから世界遺産を訪ねて
 解像度が低すぎですが、2008年9月11日(木)に訪れたルーヴル美術館から、ラファエロの聖母子像。ラファエロの絵は幸福感に満ちあふれています。レオナルド・ダ・ヴィンチの絵は緊張してしまってダメだけれど、ラファエロの絵は部屋に一枚飾っておきたくなるような優しさがあるというガイドさんのお話でした。間近をみると安らかなぬくもりを感じました。こうして振り返ってみるとお金と時間をかけてフランスまで飛び、ルーヴルで絵を鑑賞するという、わたし、贅沢な時間を過ごしたんだというあらたな感動が自分の中で静かに沸き起こってきます。またいつかこの世にいる間に行けるといいなあ・・・。


「美しき女教師、1507~08年 油絵 板 122×80cm パリ、ルーヴル美術館


 ラファエロがフィレンツェ滞在期(1504~08年)に集中的に描いた、母子の情感あふれる人間的な「聖母子像」のひとつ。牧歌的な背景なので、古くから<美しき女教師>の愛称で親しまれてきた。制作時期が近い<牧場の聖母>や<鶸(ひわ)の聖母>と同様、聖母の足もとにイエスと洗礼者ヨハネを配し、三角形の構図にまとめる。この作品では、画面右がヨハネ。そのヨハネはイエスを見つめ、さらにイエスは聖母マリアと見つめ合う。こうした視線のつながりは、青いマントを半分脱いだ聖母という類例のない世俗的な格好と相まって、安定した画面のなかにも静かな動きを与えている。」

(週刊世界の巨匠 19ラファエロ 2009年6月16日小学館発行より)


 とてつもなく広く、天井の高いルーヴル美術館の椅子に腰かけて絵と対話するひととき、幸せでした。ルーヴル美術館で絵と対話するという経験をしてから美術館を訪れるようになりました。2013年には国立西洋美術館のラファエロ展も訪れました。いずれ書けたらと思います。


旅の思い出写真_ルーヴル美術館_ミロのヴィーナス

2017年09月01日 18時45分02秒 | パリから世界遺産を訪ねて
 2008年9月11日(木)、ツアーのフリータイムに前年同様、一人でルーヴル美術館の日本人向けツアーに参加しました。わたしの中で前年のリベンジをしたいような気持ちがありました。

 なにをどこまで書いてしまったのかすっかり忘れており、ようやく復習して久しぶりにアップ。気がつけばもう9年前ですか。クソ会社で必死に必死に働いていた頃でした。二人分労働のストレスにまみれながら、言葉にしようのない辛さを誰にも話すことができず、誰にも辛さを分かってもらないまま、あとはよろしくね、って言って海外出張に出かける奴らを見送っている自分がみじめでみじめで仕方なくって、こうして遠い空のもとへ、地球の裏側へ飛び立たないではいられませんでした。出発前、男性の添乗員さんから挨拶の電話を携帯にもらったときも、昼休みにようやく出られた時余裕がなくってなくってつっかかるような言い方しかできませんでした。仕事辛くって仕方なくすみません、って謝りました。そんな日々を今でも体が記憶しています。同じことを何度も書いているような気がしますが、色々とありつつも苦しみ抜きながらやっと出かけた旅はわたしの中でかけがえのないもの。ルーブル美術館ツアー、テンションがあがって楽しくってたまらなかった記憶があります。

 ミロのヴィーナス、正面からみるのとは全く違う後ろ姿の表情に魅了されて何度も何度も後ろに回って鑑賞しました。後ろ姿にたくましいエネルギーを感じました。上手く言えませんがなんだか自分の体に響いてくるものがあってすごく心が震えました。なんだろうなあ、その時その場で出会わなければ味わうことのできないなにかがありました。

 当時持っていた解像度の低い携帯で撮った写真なので全くたいしたことはありません。もっと素敵に撮れた写真がネットの中にはあふれかえっていると思いますがわたしだけのミロのヴィーナス。モナリザの間のように、日テレがお金を出してミロのヴィーナスの間が創られるという話があったのにまだできていませんねとガイドさんがおっしゃっていました。その後創られたんでしょうか。


「ミロのヴィーナスは、1820年4月8日に小作農であったヨルゴス・ケントロタス(Yorgos Kentrotas)によってオスマン帝国統治下のエーゲ海にあるミロス島で発見された。彼は最初、官吏に見つからぬようにヴィーナス像を隠していたが、トルコ人の官吏に発見され没収された。

後に、フランス海軍提督ジュール・デュモン・デュルヴィルは、この像を見て価値を認め、フランス大使に頼みこんでトルコ政府から買い上げた。これは修復された後にルイ18世に献上された。ルイ18世はこれをルーヴル美術館に寄付し、現在でもそこで管理されている。

以後、ルーヴルを出て海外へ渡ったことはただ1度、1964年4月~6月、日本の東京都(国立西洋美術館)京都府(京都市美術館)で行われた特別展示のみである。この際、日本への輸送時に一部破損が生じ、展示までに急遽修復されている。

1900年頃にルーヴルで一度だけ型取りされており、現在もその型を元にレプリカや縮小モデルが作られている。」(ウィキペディアより)











旅の思い出写真_モン・サン・ミッシェル

2017年03月04日 23時37分06秒 | パリから世界遺産を訪ねて
 まだまだモノがあふれかえっていてぐちゃぐちゃなので少しずつ整理中、そんな心の断捨離は続いています。

 メルキュール・モンサンミッシェルで一泊した翌日、2008年9月9日(火)、晴れわたった空のもとで訪れたモン・サン・ミッシェル修道院。

『地球の歩き方』より

「708年、アヴランシュの司教聖オベールが夢の中で神のお告げを受けて小さな礼拝堂を建てたことから、モン・サン・ミッシェルの歴史は始まる。966年に修道院の建設が本格的に始まり、その後、数世紀にわたって増改築が繰り返されてきた。こうして、中世のさまざまな建築様式が混ざり合った独特の造りとなっている。例えば11世紀に造られたサン・マルタン地下聖堂はロマネスク様式のオリジナルの形を残しているが、もともとロマネスク様式で造られた教会の内陣は15世紀にフランボワイヤン・ゴシック様式に造り替えられている。

 一番の見どころは北面の3階建て2棟を含む部分で、「ラ・メルヴェイユ(驚異)」と呼ばれ、ゴシック建築における傑作と称えられている。

 最上階にある13世紀の回廊は、2列に並んだ円柱がリズミカルに美を奏でる、まさに瞑想にふさわしい神秘に満ちた空間となっている。円柱が交互に立っているのは修道士の歩くリズムに合わせたものだという。回廊の隣は修道士の大食堂。その階下には、騎士の間と賓客室がある。

 中世の頃には多くの巡礼者を受け入れたモン・サン・ミッシェルだが、18世紀には牢獄として使われた歴史をもつ。このため、修道院の内部には労働に使われた大車輪、さらに死体収容所の跡まで残っている。修道会はフランス革命時に解散させられたが、牢獄としての役割は続き、さまざまな政治犯や反体制派の人々がこの島に送られた。牢獄としての役目の終えたのは1863年のこと。やがて中世芸術を再評価する動きとともに、モン・サン・ミッシェルの比類ない景勝美が注目され、現在ではフランスで最も人気のある観光地となっている。

 修道院の見どころは、建築のほかにもうひとつ。ここからのパノラミックな眺望だ。西側テラスに出ると、晴れた日なら対岸のグランヴィルまで見渡せる壮大な眺めを満喫できる。時間があれば、湾を取り囲む海岸線を散策してみるのもおもしろい。さまざまな角度からモン・サン・ミッシェルを眺められる道で、また新たな魅力を発見することだろう。」

ごつごつ、ごつごつとした石の要塞を実感。足元も石。当然ですが歩いて観光したので、この日の夕方になって足がかなり疲れていることを感じました。イヤホンガイドもぶら下げていたので荷物重かったし、観光地めぐりは体力、健康な体があってこそです。









西側テラスの足元。モン・サン・ミッシェルの建築に携わった人たちの名前だったかな、イニシャルだったかな?が刻まされているという説明だったと思います。



西側テラスで空を見上げて撮りました。
より空に近く、より神様に近づこうとして高くつくったという説明があったと思いますが見上げているとその想いを肌で感じることができました。






西側テラスから対岸を眺めることができました。イギリスとの100年戦争の時には、モン・サン・ミッシェルが砦となったという説明があったと思います。



西側テラスから眺めた潮の満ち引き。



出る時後ろを振り返って撮ったようが記憶があります。






 写真ありませんが、地球の歩き方に書かれている修道士たちが瞑想したという回廊はとても落ち着く雰囲気でした。身分の高い人たちが食事をする間の豪華さとその階下だったと思いますが身分の低い人たちが食事をする間の質素なことの落差も印象的でした。ヨーロッパの身分制社会は日本人がイメージするよりもはるかに強いものがあるというような記述をどこかに読んでことがありますが、身分によってこんなに扱いが違うものかと驚きました。

 修道院の観光が終わると、近くで昼食に名物というオムレツをいただきました。ボリュームのあるメインディッシュを想像していましたが、オムレツは小さくって日本なら米のかわりのような存在、一緒に魚などもいただいた記憶があります。

 すべて使い捨てカメラで撮った写真。簡単ですが、わたし自身のための旅の振り返りでした。

旅の思い出写真_モン・サン・ミッシェルの夕暮れ

2017年02月25日 23時06分51秒 | パリから世界遺産を訪ねて
 昨日読んでくださった記事を自分でも読み返していて、この旅のことをちょっと振り返ってみたくなりました。2008年9月7日から13日まで、「パリから世界遺産を訪ねて」というツアーに一人参加してフランスを訪れました。8年半前ですか。早いものです。この旅のことを思い出すと、二人分労働の真っただ中で有給休暇にたどり着くまでいかに大変だったか今でも鮮やかによみがえってきてしまいます。自分にこういうご褒美を用意しないととてもじゃないけどやってられませんよ、っていう日々が続いていました。その結末が、もういらねーよ、じゃまくせーよ、ポイっってか。それじゃあ、あんまりさみしすぎやしませんか、という話はおいといて、パリに到着した翌日、バスでシャルトル大聖堂を経て、モン・サン・ミッシェルを訪れました。近くのホテルで一泊するので夕暮れの光景を楽しめるというのが、このお値段安めのツアーの最大の呼びものでした。パリのホテルがひどくって、添乗員には内緒で実はこっそり他のホテルに泊まっていましたっていうカップルがいたほど。メルキュール・モンサンミッシェル。お写真ありませんが、ラブリーでこのツアーの中で唯一、素敵なホテルでした。パリでもこんなホテルに泊まりたかったあ・・・。それはさておき、

 バスから少しずつモン・サン・ミッシェルの姿が視界に入ってくるようになり、だんだんと大きくなっていく時は、気持ちが高まりました。要塞のようなその姿が、少しずつ少しずつ、近づくにつれて大きくなっていったんですね。晴れわたった日で大型バスに差し込む陽射しがまぶしすぎました。それでも窓際に坐っていたわたしはカーテンを閉めなかったのでちょっとひんしゅくだったかもしれませんが、だんだんとモン・サン・ミッシェルが大きくなっていくのをみていたかったでっす。

 カナダと同じで、ヨーロッパもゆっくりゆっくりと陽が暮れていきます。日本のように暗くなり始めたらあっという間ではなく、ほんとにゆっくりゆっくり。遅い時間まで陽が高かったんですね。だからホテルに着いたら浜辺を散歩しながらモン・サン・ミッシェルの全景を遠くに眺め、まだ陽が高いうちにホテルで夕食をとると夕暮れ時をみるためにまた外に出ました。わたしと添乗員さん、ツアーの何人かが出ました。昼間は暑いぐらいでしたが夕暮れ時は風が冷たくなってお手洗いになってしまいましたがそこはガマン、ガマン。

 デジカメをまだ持っていなかったので、使い捨てカメラで撮ったアナログ写真です。もっと素敵な写真、ウィキペディアにいくらでもあると思いますが、わたしの心の思い出写真はこれだけ。ほんとに苦労して苦労してようやくたどり着いた旅だったので喜びを大きかったです。

道路沿いを歩いていくとモン・サン・ミッシェルの姿が近くなっていきました。
(顔が写っているところはモザイク、下手ですね~、もう少しきれいにやりなおします)










ゆっくりゆっくりと陽が落ちていく時、あたりはオレンジ色と紫色に染まっていました。



暗くなっていくにつれて、モン・サン・ミッシェルに灯りがともされていくのをみることができました。なんだか厳かな気持ちになりました。





 モン・サン・ミッシェルに夜のとばりが訪れると真っ暗になった帰路は、足元がみえなくなってしまい草をかきわけかきわけホテルに戻った記憶があります。転びそうになると同じツアーの人が助けてくれたりとかしました。

 夜ホテルの部屋で化粧室のドアが開けられなくなってしまうというトラブル発生。添乗員さんの部屋に電話をかけると、もう休まれていたみたいですが来てくれてトラブル解決。ありがとうございました。翌朝5時に起きて、モン・サン・ミッシェルの朝焼けを見に出かけたという方が数人いらして感心しました。添乗員さんもいらしたそうで、ほんとにタフ。40人ぐらいのツアー客を一人でずっと世話して、人数分のイヤホンガイドも旅の終わりに空港で回収して、タフな方でないとできないお仕事だと思いました。一週間前にパリに来たばかりだとのことでした。疲れ果てて余裕がなかったわたし、事前に挨拶のお電話いただいた時にはぶっきらぼうな言い方しかできずに申し訳なかったです。今でもお顔おぼえています。本当にありがとうございました。