たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『ミス・サイゴン』(2)

2014年10月13日 21時29分31秒 | ミュージカル・舞台・映画
2014年『ミス・サイゴン』先日横須賀で、帝国劇場に始まった2014年公演の千秋楽を迎えました。

プログラムを読みながら思い返すと、歌・ダンス・芝居・・・レベルの高い舞台だったと
あらためて思います。役者さんたちにとっては、血を吐くような思いの毎日だったのではないでしょうか。
スタンバイとして袖に控えたり、一回の舞台の中で何役もこなすアンサンブルの皆さんは本当にハードだったと思います。
プリンシバルもアンサンブルも、お一人お一人が役柄を通して血の通った名もなき人々を
全身で体現されていました。



1975年3月北ベトナム軍、全面攻撃開始
     4月サイゴン(今のホーチミン)陥落、ベトナム戦争終結
     南部では、ベトナム難民が発生し始める
  (公式プログラムより引用しています。)


爆撃によって親を失い故郷を失ったキムとアメリカ兵クリスがナイトクラブで出会い、愛を育みながらも、サイゴン陥落を目前にクリスはアメリカへ引き上げていってしまい、二度と会うことはありませんでした。
二人のあいだに立ちはだかる、越える事のできない高い高いフェンス。
クリスを探し求めるキムは雑踏の中に紛れてしまい、キムに心が残るクリスは、親友のジョンにヘリコプターの中へ押し込められます。
ベトナムの人々が必死にフェンスにすがりつくなか、クリスたちアメリカ兵を乗せたヘリコプターは飛び立っていきます。
実際にアメリカ軍が使用していた「UH-1」をモデルにしたという実物大ヘリコプターが舞台に登場し、音声は観客席の袖からも聞こえてくるので、緊迫感のあるシーンでした。


 抱いてあやした子よ 何もねだらない
 小さな男の子よ 命もあげるよ
 
 生まれたくないのに 生まれ出たお前が
 苦しまないように 命もあげるよ
 

 神の心のまま 望むもの選ぶもの
 つかまえなさいチャンス 命もあげるよ

 
 お前のためなら 命をあげるよ

  (命をあげよう)


キムの歌う「命をあげよう」の最後にあるメロディーだけ、「命”を”あげるよ」と訳されたのは、岩谷時子さんだそうです。訳詞を超えた、岩谷さんの繊細な心での訳でしょうか。
公式プラグラムにはそんなことも紹介されています。


1992年の初演から今までの間に、ソ連ということばが過去となり、今は知らない若者もいるとききます。初演以来22年ぶりの観劇でしが、「アメリカン・ドリーム」の響き方もずいぶん変わったと感じました。


 気楽に暮らそう おお アメリカン・ドリーム
 たんまり儲けよう おお アメリカン・ドリーム
 コールガール行列 おお アメリカン・ドリーム
 乞食も金持ち おお アメリカン・ドリーム
 
 何でも叶うさ おお アメリカン・ドリーム
 みんな売り飛ばせ おお アメリカン・ドリーム

  (アメリカン・ドリーム)


豪華な毛皮のコートをまとったジジをフロントに乗せたキャデラックが登場し、コールガールとダンサーたちが華やかに歌い踊る「アメリカン・ドリーム」。
エンジニアの撒き散らす札束が宙を舞い、全てが舞台から消えてしまうと、アメリカ行きの切符を追い求め続けた彼の夢は幻のごとく消え去っていったかのようでした。


キムがクリスとの間に生まれたタムを守るために自らの命をかけて終わる、なんともやりきれない幕切れの舞台で、重い内容ですが、時代が変わってもこれからも繰り返し上演されていく作品だと思います。観客のわたしたちになにかを問いかけながら・・・。


7月29日のエンジニアは駒田一さんでした。オーディションに三度目の挑戦で射止められたとのこと。ちょっとびっくりでしたが、それぐらいこの舞台に出るのはハードルが高いということでしょうか。キムの婚約者だったトゥイが人民委員長となって、キムを探すように命じられる場面の、なんとしてでも生き抜いていってやろうとする雰囲気など、『レ・ミゼラブル』でティナルディエを演じ続けている駒田さんのエンジニアでした。
横須賀の千秋楽の動画を観ると、帝国劇場の時はまだかなり緊張されていたのかもしれません。


7月29日のキムは知念里奈さん。横須賀公演で、10年間演じ続けてきたキム役卒業の挨拶をされたので、私が知念さんキムを観るのは最初で見納めだったいうことになります。
芯の強いキムを可愛らしく演じられていました。
二幕でバンコクのホテルの部屋にクリスを訪ねたら、クリスと結婚したエレンと出会ってしまう場面のキムの驚愕、戸惑い・・・。
命をかけて守り抜こうとしているタムを、クリス夫妻がひきとろうとするのは残酷だと思ってしまいます。
キムの心の痛さがよく伝わってきました。




7月29日のキャストボード。





8月13日のキャストボード。


『いわさきちひろの絵と心』より

2014年10月13日 14時24分48秒 | いわさきちひろさん
「親子二代にわたって仕事をもった女性であったいわさきちひろにとって、働く女性の様々な問題は切実に感じられたに違いない。彼女は家庭にあっては主婦であり、双方の親をひきとった大家族のなかで生活していた。しかも、自分の母親は半身不随の身であった。

 いわさきちひろのこのような活動は現実の社会と密接に結びついたものだったが、その姿勢は当然のこととして作品のなかにも結実していった。

 いわさきちひろは、1973年に「戦火のなかの子どもたち」という絵本を出版した。この絵本の製作には二年近くの月日が費やされたが、私はこの本にとりくんでいるいわさきちひろの姿を特に印象深く覚えている。

 戦火のなかで親を失い家を焼かれた幼い子どもたちの姿を描いた彼女の三点のタブローが、東京、新宿の小さな画廊でおこなわれたグループ展に出品されたのは1972年の春のことだった。

 このタブローをもとにして絵本をつくる話がもちあがり、いわさきちひろの仕事場にベトナム戦争の写真集をはじめ、多くの資料が運びこまれたのは、それから二、三カ月後のことである。

 机の横に積まれた資料の山は、なにかその部屋の雰囲気にとけこまず独自の存在を主張しているようにみえた。

 写真集には、腕がちぎれて立っている少年や、両足を失った老人、さらにはベトナム人の首をぶらさげて得意そうに胸をはっている米軍の兵隊の写真など、見るものの胸を容赦なくつきさしてくるものが数多くあった。

 いわさきちひろはこの写真集をみつづけることがかなりつらかったようだ。本のみかたもじっくりとみるというよりは、時おり開けてはパタッと閉じるような具合いで、たまに美しい自然の写真があるとほっとしたようにそれをみつめていた。そばにいる私には彼女の胸の痛みがじかに伝わってくるようだった。しかし、彼女の脳裏には、確実にしかも鮮明に数々のシーンが焼きついていった。

 実際の製作の段階では、資料はすべてかたづけられ、仕事場からは姿を消していたが、いわさきちひろは無意識に描いた絵をみて、
「この構図は写真のものと同じになってしまった。」とつぶやくようにいったことがある。

 いわさきちひろは、この絵本の完成を急いでいた。

 当時、ベトナムの戦火は拡大し、アメリカの北爆は無制限に広がって病院や学校までがその爆撃の犠牲になり、野山には毒薬が降りそそがれていた。彼女はベトナムの子ども達がすべて殺されてしまうのではないかと恐れていた。そしてこのころ新聞に発表した詩のなかで、

 日本の南のベトナムの国に
 爆弾をはこぶ飛行機を
 とばすのはだれ

 と語り、当時の日本政府がアメリカの侵略戦争に加担していたことを批判している。

 いわさきちひろは一日も早く絵本を仕上げようとしていたが、彼女のからだは、この頃からしだいに調子をくずすことが多くなり、何度かの入院によって製作は中断しがちであった。だがようやく73年の夏、この絵本は完成する。

 赤いシクラメンの花は
 去年もおととしも その前のとしも
 冬のわたしの仕事場の紅一点 
 ひとつひとつ
 いつとはなしにひらいては
 仕事中のわたしとひとみをかわす

 去年もおととしも その前のとしも
 ベトナムの子どもの頭のうえに
 爆弾はかぎりなくふった

 赤いシクラメンの
 その透き通った花びらのなかから
 死んでいったその子たちの
 ひとみがささやく
 あたしたちの一生は
 ずーっと戦争のなかだけだったのよ

 赤いシクラメンの絵とこの詩ではじまる「戦火のなかの子どもたち」は絵筆によって描かれた詩のようなものになった。そこには直接ショックを与えるような悲惨な場面は描かれていないが、中空をぼんやりとみつめる少女の顔や、焦土のなかに立ちつくす少年の姿は、戦争への怒りと悲しみを、静かに、しかし強い力をもって訴えている。

 そして「母さんといっしょに、もえていった、ちいさなぼうや。」という言葉とともに描かれている絵は、この世で一番安心できる母の手のなかであどけない瞳を大きく見開いている子どもと厳しい表情の母親の姿である。母親の表情のうちには戦争をひき起こすものへの限りない憎悪がこめられているが、この怒りの表現は、一人の母親でもあったいわさきちひろの怒りそのものの表出であった。

 いわさきちひろはベトナム戦争の終わりを知らずに世を去ったが、彼女は死の寸前まで世界中の子どもが、そしてすべての人々が幸せに暮らせる社会がくることを願い続けていた。」

(いわさきちひろ・松本猛『いわさきちひろの絵と心』講談社文庫、昭和53年発行、87-92頁より引用しています。)


写真はちひろ美術館から、「戦火のなかの子どもたち」の中の一枚と佐藤卓さんとのコラボレーションを紹介させていただきました。(撮り方が下手すぎますね・・・)