たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『続・悩む力』より_人生が投げかける「問い」に答える

2015年02月09日 10時41分50秒 | 本あれこれ
昨日はノンフィクション作家の柳田邦男先生の講演会があり、御茶ノ水の方まで出向いてきました。休日なので電車が遅れることもなく乗り換えもスムーズでそれほど大変な感じが自分の中でしていなかったのですが、終わって最寄駅まで戻ってきてみるとぐったり。
荷物を持って、そこまで出向いていくのは、それだけでやはり大変なことなんだと感じました。
終盤で、フランクルの「それでも人生にイエスと言う」のお話を先生がされたので、姜尚中さんの『続・悩む力』を思い出しました。
去年の3月9日にフランクルのことを記載した箇所を引用して以来、久しぶりに読み返してみると、あらためて共感するところがたくさんあります。フランクルのことが紹介されている箇所からまた引用してみたいと思います。


「人間の尊厳と、人生に向かいあう態度という意味では、フランクルが本のタイトルに使った「それでも人生にイエスと言う」という言葉が思い浮かびます。

 この言葉は、第二次世界大戦中にナチスの迫害を受けてブーヘンヴァルト収容所に収監されたユダヤ人たちが、過酷な日々のなかで作った歌に由来するものです。彼らは明日の命の保証もない極限の状況のなかを生き、それでもなお、人生をあきらめまいとして、「それでも人生にイエスと言う」という歌を作り、これに望みを託したのです。

 先に、人間のなす行為のなかで最も価値の高いものは「態度」だと言いましたが、収容所に投げ込まれた彼らは、それを実行しなければ生きていけなかった人たちでした。何しろ彼らは無力なのです。できることは「態度」しかないのです。彼らはその唯一できることを実行したのです。だからこそ、収容所体験をもつフランクルは、人間の究極の価値として、態度ということをあげたのだと思います。

「それでも人生にイエスと言う」という言葉には、前向きでおおらかな感じがあります。字面だけ見れば「人生を楽しもう」といった楽観的で、それこそ「幸福の弁神論」的なイメージです。しかし、実際にはまったく逆で、シリアスで深い意味を含んでいる言葉なのです。

 私たちは人生というものに対して、しばしば「この人生は、私にとって何の意味があるのか?」とか「この人生は、私にとってどんなよいことがあるのか?」とか疑問を抱き、不満を吐き出します。そして、意味がないかと思えば絶望し、最悪の場合は、自分の手で自分の人生を終わらせてしまったりします。(第七章で取り上げた)「人生なんて無意味だ」に出てくる子供達もそうです。彼らは「意味のあるもの」探しにとりつかれ、あやういところに踏み込んでしまいました。

 しかし、フランクルの主張はまったく逆です。

 人生とは、「人生のほうから投げかけてくるさまざまな問い」に対して、「私が一つ一つ答えていく」ことだと考えたのです。フランクルはこの考え方の逆転を、「コペルニクス的転回」と呼びました。収容所の人びとにこの考えをあてはめていうならば、人生のほうが「おまえはこの忍びがたい屈辱を忍ぶことができるか?」とか、「おまえはこの別れの悲しみを乗り越えられるか?」とか、問うてきたわけです。これに対して、彼らは、一つずつ、「イエス、自分は受け入れる」「イエス、それを受け入れる」と、答えていったのです。

 そして、人生からの問いかけに対して答えつづけた人だけが、すべてではないにしても、過酷な試練を乗り越えて生き延びたのです。逆に、途中で答えるのをやめた多くの人が生から脱落してしまったのです。

 問いに対して「答える」ということは、「応答すること」であり、すなわち「決断する」ことであり、また「責任を取る」ということでもあります。

 「責任」と訳されるresponsibilityという英語が、「応答」を意味するresposeから派生してできた言葉だということも、「答える」ことと「責任を取る」この関係性を示しているといえます。

 こうして見てくると、人生からの問い一つ一つに、きちんと「イエス」と答えていくということは、決して楽天的な選択ではなく、非常に重い決断であることがおわかりでしょう。

 このことを、先に見た三つの価値に対応させて考えてみると、自分が世界に対して要求をしていくのが「創造」であり、自分を超えた世界からの要求に対して、責任をもって答えていくのが「態度」ということになります。

 しかし、「態度」を単なる受動的なものとみなすのは間違いです。世界というものを、自分の力の及ばざる「超意味」の存在として認識しつつ、なおかつそのなかで、自分が問われている役割について、一つ一つ責任をもって決断していくことです。これが「態度」ということであり、運命を唯々諾々と受け入れることではないのです。

 (姜尚中著『続・悩む力』集英社新書、2012年発行、205-207頁より引用しています。)

 
 原発事故で飯館村からの非難を余儀なくされ、フランクルの「それでも人生にイエスと言う」を励みにされている小林麻里さんという女性を柳田先生が紹介されました。
20代を心の病気で過ごした小林さんは30代で結婚、飯館村に移住して民家を借りて農作物の種を蒔き、人生をやり直そうとしましたが結婚から2年半で夫が病気のために他界。そして、立ち直ろうとした矢先に3.11と原発事故。「書くしかない」とその後日記を綴られ、本にまとめられたそうです。本の中に、「私の魂はこういう経験をしたかったんだと気づいた」という記述があるそうです。


 本当にいろんな方がいらっしゃって、どちらがより大変だとか比べっこするものではないです。人それぞれ。これでもかこれでもかとやってくる試練。それらから逃げ出すことなく向き合ってきた、もがきながら必死に自分の正直な気持ちと向き合ってきたら気が付いたとき今ここにいます。
人生の大きな転換期、私はまだこれでよかったんだ、私には必要なことだったんだと思うことができないでいます。それはきっと次へと具体的に踏み出せたとき。今はまだどこに踏み出せはいいのかわからず、自分の至らなさが招いたことだと自分を責めるばかり。一個人の責任だけではないこともわかっています、一個人の責任だけにされてしまうのはあんまりだとも思ってはいますが、今は自責の念が大きいし、なんだかやりきれなくて力が抜けています。
私がほんとうに納得できるまでには、まだしばらく時間が必要なんだろうと思います。


来月自死遺族の当事者として始めて少し話をさせていただくことになりました。
大切な役割。思いを振り返り、自分の中で整理し直して伝えられたらいいなと思います。