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たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

希望をもって生きていく(太平洋戦争手記)

2015年04月01日 18時44分26秒 | 本あれこれ
妹とのお別れの後、藁にすがるような思いで心の相談室を訪ねて出会ったカウンセラーの先生は、太平洋戦争の終戦を朝鮮半島で迎え、死との背中合わせの日々を送りながら、日本に引き揚げてこられました。
このお話をうかがったのは、先生との出会いから20年近くが過ぎてからのことでした。
気がついたら先生は私にこの話をしてくださっていました。

お名前は出さないという約束で先生の許可をいただいて、昭和40年に発表された手記の全文を引用させていただきます。転用・転載はご遠慮くださいまうよう、よろしくお願いします。

先生が今もひたむきにカウンセラーの仕事を続けている原点はここにあるそうです。
「どんな話にも希望がある。たとえ死にたいという話であってもどこかに必ず希望がある。
希望がなければ人の話を聴くことはできない。」

くわしくお話をうかがって小冊子にまとめることができればと思っていますが、
まだしばらく先になりそうです。




「私にとっては、生涯忘れる事の出来ない、いまわしい過去がフィルムを回転するがごとく、年年心の成長と共に八月十五日がはっきりと印象づけられてくるのです。
 私はその時、避難民として野宿やお寺、学校を転々としている時でした。
 当時父は、戦争に行ってしまい、ほとんどの家庭は女と子供だけでした。男の人といえば老人ぐらいのものでした。そしてこの太平洋戦争も末期という時、避難命令が出され、貴重品だけを持って、着のみ着のままで家を出た私達親子三人でした。私達が住んでいたところは、北鮮のはて、灰岩道という所でした。
 母はその時、妊娠五か月の身重、私が九才、弟が七才、妹が五才、毎日毎日あてもなく避難民として、あるくだけ。そうしているうち、八月十五日敗戦が伝えられました。
 その時からまた避難民には苦労が増していきました。戦車でロシア人が上陸し、避難民はトウモロコシ畑けにかくれたり、日本兵が銃殺されたり、今まで親切であった朝鮮人の態度が変ってしまったりした。そして敗戦の日から、避難民は団体行動を失い、各自が判断して行動するようにとの事で、その時からみんな散々ばらばらになってしまいました。
 満州へ行った家族、自殺した人、兵隊に連れて行かれた人、朝鮮にもぐりこんだ人、私達は母に連れられて、内地に帰ることを母から聞きました。母は内地の様子を語りながら、それに勇気づけられて、私達もあるきました。南鮮を目ざしてあるきました。お金もつきてしまい、避難する時持って出た貯金通帳を朝鮮人に売って、そのお金で朝鮮へ行って、食糧をもうらうのです。日本人は今までいばっていたから、ばちがあたったんだと口々に言われました。でも母の身重を見ると、みんな親切に食糧をわけてくれました。株券や預金通帳の売食いでどうやら命をつないできた仕末です。
 十月頃だったでしょうか、山に火をたいて野宿している時、三人の朝鮮人が私達に近寄って来ました。その時、母のドロボーという声と共に株券、通帳、貴重品一切はなくなってしまい、母がおいおい泣いたのを覚えています。そして母はその時から死を覚悟したのでしょう。男の人を見ては頼むと言うのです。
 二日後、ひとりの青年に出会い、母がもう生きる事をあきらめ、どうか私を助けると思って殺してくれと頼むセリフが私の耳に入ってきました。そして青年も自殺するつもりだったが死ねないと言ったのです。そして青年は私達子供を殺すことをひきうけたのです。でも母は私達にはなにも言いませんでした。でも私は知っていました。そして深い山へ入りました。母が言いました。みんなで「おひるねしましょう」と。静かな時間が数分過ぎていきました。母が青年に合図しました。そして青年は奥さんいいですか、と一言の後に、弟の首に手をかけました。いやだと弟は泣きました。母も妹も泣きました。母は青年にやめてとたのんだ。
 青年は山から去っていきました。その時から母に強く生きなければと言う意識がわいたのでしょう。
 また野宿。売ものはなにもなく、恵んで下さいと言うこじきになってしまいました。野宿とこじきの連続の日々を送りながら、母は身重な体にムチ打って栄養失調になった妹を背負ってあるきました。その妹が「お母ちゃん」「お水」と言ったきり、母の手の中で息をひきとりました。
母は泣く事さえしませんでした。今思えば、ほっとしていたのでしょうか。人間がぎりぎりで生きていく時の激しさなのでしょうか。妹の死体はムシロをかぶせて畑の中においてきました。そして間もなく、母は出産しました。女の子でした。その子も栄養失調で一カ月あまり死んでしまいました。
 どんな事が起こっても南鮮めざして歩きました。ある時汽車に乗る事が出来ました。そしたらロシア人が乗って来て、若い婦人を連れて行ったり、汽車の中で乱暴しようとするのです。母もされそうになりました。母がまる坊主の頭を見せるとにげていきました。その頃まる坊主にする事が身の安全でした。
 そして京城(うろおぼえ)まで来ました。そこのお寺には避難民の集団がありました。その集団の中で新しい生活がはじまりました。それというのもこれから先は、ヤミ船に乗らなければ三十八度線を突破出来ないのです。そこでこじきの生活から、朝鮮語の堪能な母は商売をしてお金をためて、三か月たったでしょうか。あしたはヤミ船が出ると言うのです。暗いうちに船に乗り込み、港につきました。それからまた歩きました。そしてやっと三十八度線を越すことが出来ました。そこにアメリカ兵がいてしらみのついた体を消毒してもらい、避難民収容所に入りました。母がもうここまでくれば大丈夫よと言いました。そして順番を待って内地へいきました。上陸したのは舞鶴でした。
 やっとの思いで引揚て来たものの、やはり戦争の悲劇は、程度の差こそあれ、ここにも戦争があったのです。長男も次男も男手を無くした農家、極度の食糧難など。私達引揚て来て父の里、茨城に帰ったのですが、老いた父母には、私達いそうろうは重荷だったようです。その時は父の生死は全然わかりませんでした。こんな母子三人の生活を維持するため、母は朝鮮で覚えた行商のコツを生かしてヤミ屋をしました。夜は和裁の内職。静かな農村に平和がよみがえり、食糧難ではあるが平凡な日々が過ぎて行きました。
 そんなある時、便が舞込みました。消息のわからなかった父からでした。こんな事が書いてありました。
 敗戦の時、ロシヤ兵につかまり、捕虜となりハバロスクの収容所に入っている。毎日重労働だ。
 そして三か月ほどしたある日、近いうち、病気のため内地へ帰れると言うのです。それが二十三年六月十一日でした。苦しかった母子家庭にピリオドを打ち、貧しいが日々が送れるようになりました。」

(現代教養文庫、「八月十五日と私」より引用しました。)