たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『万葉のうた』より_磐代の浜松が枝を

2015年04月05日 14時57分29秒 | いわさきちひろさん
春の雨の日、窓の外では大きく枝をひろげた満開の桜の花びらと木々の新しい緑がしっとりと解けあっています。こんな日がすり切れてしまっている心には、晴れわたった日よりも心に沁みいるような安心感を感じます。午前中桜の枝の下で、納骨式をされていたのだろうと思います、お墓のまわりに人が集まっている光景をみかけました。なぜだか安心感・・・。

余裕がなくて長い間開くことのなかったちひろさんの絵本をまた開いています。
高校生の頃、万葉集が大好きになりました。古典の授業、年配の女性の先生がすごく
きびしい方だったので同級生はみんな嫌っていましたが、私はひそかに大好きでした。
井上靖さんの『額田大王』を夢中で読んだりもしました。
(宝塚の舞台『あかねさす紫の花』も大好きです。一路さんと花ちゃんコンビ)

去年久しぶりに訪れたちひろ美術館には、『万葉のうた』の中からも何点か展示されていて、
ちひろさんのたしかなデッサン力とほんものの画家としての力量を感じました。

高校生の私には、歌の背景にある複雑な背景を理解する力はなく、ただ何かしら歌のもつ哀しい響きにひかれていたのだと思います。二つの大きな喪失をくぐってきた今、ちひろさんの描く若い皇子の表情は、口にはだすことのできない無念さ、悔しさ、人の世の哀しさ、あきらめきれない思いがにじみ出ていているように感じます。政治的背景も今読むと本当に複雑だったことがわかり、胸がしめつけられます。

「磐代(いわしろ)の浜松が枝を引き結び真幸く(まさきく)あらばまた
帰り見む(141)        有馬皇子(ありまのみこ) 


 有馬皇子は、大津皇子より一時期早く宮廷の政争の犠牲となった皇子で、父は孝徳天皇である。孝徳天皇の崩じたあと中大兄皇子は、自由に政策を行うため、ひきつづき皇太子として止り、母の皇極天皇が再び皇位について斉明天皇となった。有馬皇子は身の危険を感じて、気狂いのふりをしていたをいわれるが、やはり運命をのがれることはできなかった。皇太子は、母の帝や妃たちをひきつれて、紀州の温泉に湯治の旅に出た。その留守に19歳の有馬皇子は、重臣である蘇我赤兄(そがのあかえ)にそそのかされて、ついに謀反を起こすのである。彼は、まったく皇太子中大兄の計略にはめられたのであった。忽ち赤兄はそのことを天皇に報告し、有馬皇子は捉えられて紀州の湯に送られ、殺される。
 悲劇の皇子は、自分が計略にかかったことを知り、紀州の牟(む)ろの湯で中大兄皇子に糾問されたとき、「天と赤兄と知る。吾は全(もは)ら知らず」と答えたという。縄を打たれて護送される途中で詠んだこの歌は、幸うすい皇子の悲痛な叫びとして、長く世の人々の同情をそそった。草や木の枝を引き結んでおくと再び逢うことができる、幸を得る、と万葉人たちは考えたのである。


 家にあれば笥(け)に盛(も)る飯(いい)を草枕旅にしあれば椎の葉に盛(も)る(142)
              有馬皇子(ありまのみこ)

 これもやはり護送される途中、道中の神にささげものをするとき詠んだ皇子の歌で、家では立派な器(うつわ)に入れて祭るのだが、旅の途中ですから椎の葉に盛ります、おゆるしください。と神に自らの生命についての祈りをささげたのであろう。覚悟していても19歳の皇子はやはり一縷(いちる)の望みを神に托さずにはいられなかった。」

(大原富枝文、岩崎ちひろ画『万葉のうた』童心社、17-18頁より引用しています。) 
               
本を読むって大切。絵本って大切。
絵本の読むことの大切さは、柳田邦男先生が著書でも講演会でも繰り返し語られています。
後日あらためて書きたいと思います。


私の手元にあるものは昭和61年発行、第42刷です。


万葉のうた (若い人の絵本)
大原 富枝
童心社