たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

金曜日、クリスマスの夜

2020年12月25日 23時29分55秒 | 日記
 平成の世は連休になることも多かったクリスマスの夜が、ほっとできる金曜日の夜でよかったなあと思います。なんとか生き延びた一週間、脳みそと心がよじれきった自分へのいたわりにわたしの時給にはちとぜいたくすぎるクリームティーセットをいただきました。ほっと一息つきながら少しお腹を満たすと、まだ出会っていない今年だけのクリスマスを求めてまた少し街を歩きました。周辺にほとんどなにもないところで脳みそよじれそうになりながら5日間フル稼働したあとなのでキラキラのシャワーを浴びたくなりました。気がつけば一か月東京に出向いていないし、疲れてしまって今年だけのクリスマスを満喫できたとはいいがたいのですが、金曜日の夜、まだ出会っていなかったきらめきとささやかな出会い。カップルが何組もいたのでおばさんはスマホで撮ったら早々にひきあげました。電車の中で1月のシフト表をあらためてみたらこれはやっぱり逃げ出した方が正解なのかともやもやしすぎですが今週はもう考えることをやめたい、ほっとやさしい気持ちで終わりたいと思う金曜日の夜、クリスマス。


 10年前の12月に訪れたプロテスタントの教会の牧師さんのお話より、

「ヨハネによる福音書1章6-14節

 永遠のみこ言は人となり、肉体となり、我々のうちに「宿った」。宿るは、元来、天幕を張るという意味である。幕屋はテントである。イスラエルの民はもともと遊牧民族出会った。遊牧の民イスラエルにとって幕屋は親しみやすい住かであった。天幕はたやすく張られ、また容易にたたんで移動できる。そこから、天幕は移ろいやすい人間の肉体をも意味するようになった。イスラエルの3大祭りの一つ、仮庵の祭りは、勤労の実を取り入れる仮小屋をつくり、イスラエルの天幕生活、天幕時代を記念して祝う祭りであった。使徒パウロの職業は天幕作りであった。だから彼は「私たちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、私たちは知っています」と言う(コリントの信徒への手紙25章1節)。神によって建てられる恒久的な建物、永遠の住みか、これと対比される「我等の幕屋なる地上の家」。「主は御父のもとをはなれ、わびしき世に住みたまえり」と讃美歌にうたわれている。人間の弱い存在を示す「肉」の姿を取り、人間生活のはかなさ、永遠性、恒久性とは反対の姿を象徴する「幕屋」に住まう仕方で、イエス・キリストは罪と死の支配するこの世に来てくださった。これは神の我々に対する愛の具体化であり、具現化にほかならない。

 日本、ローマ、エジプトでは、偉人や豪傑、あるいは皇帝などが神として祭られ、人間が格上げされる。古代エジプトの王ファラオは神として礼拝された。ローマでは皇帝礼拝があった。日本では、鎌倉時代末期の武将、楠木正成は大楠公と呼ばれて、神戸の湊川神社にまつられている。平安時代の政治家・学者の菅原道真は京都の北野天満宮に学問の神としてまつられている。これとは対照的に、キリストは神のかたちであり、神と等しい方であったのに、おのれをむなしくしてしもべの姿となり、人間の姿になられた。人々に仕えられるためではなく、しもべとして仕えるために来られたイエスの誕生の場所は、飼葉おけのほかはなく、また死に場所は十字架のほかはなかった。これらすべてのことは神の我々に対する限りない「愛」の故であることをおぼえたい。クリスマスはこのような神の愛のドラマである。」