小原麗子『自分の生を編む-詩と生活記録アンソロジー』より-姉は国と夫に詫びて死んだ(1)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/05b565f1ca7158ed6ecb6ff0043735ec
「-名誉な死と不名誉な死-
1992年(平成4)年秋、「名誉」という言葉は、「PKO」(国連平和維持活動)とセットで復活する。もともと不死身なのかもしれない。
PKO協力法案が大揺れのころ、自衛隊員の間では、「命令なら仕方がないが行きたくない」(朝日新聞、1992年10月1日)という戸惑いがあったという。カンボジア国内に埋められた地雷は数百万個、マラリアも心配だ。第一、国論は、「行くな」「行くべきだ」と、二分したまま。が、法律が成立すると否定的な雰囲気は肯定へと変わる。
その意義が説かれ、地雷密集地帯ではないこと。ポル・ポト派の活動地域から遠いことなどから、「安全」だとなる。そして「要員に選ばれるのは名誉なことだ」という雰囲気が広がり、「二の足を踏んでいた人も断りにくくなった」と、いうのである。
師団長も、「PKO派遣は名誉ある任務だ。『手柄』はみんなで分けた方がいい」と、言う。もっとも「名誉」という言葉は復活しても、その下に付く「戦死」という言葉は誰も口にしなかった。
それにしても、なぜ、こうも同じ光景が再現されてしまったのだろう。
1992年9月17日、自衛隊のカンボジア派遣部隊が出発する日、2月に結婚し妊娠8か月だという女性(25歳)は、「きのうは夫の誕生日を祝いました。行って欲しくない。今でもそう思います」(朝日新聞、
9月18日)と、涙ながらに話している。
小原ミチさんは、1942(昭和17)年10月に出征する夫を見送った。
皆が集まって出征祝いをしてくれた夜、夫は座敷から見えなくなった。探すと、自分たちの寝部屋で、黙ってあぐらをかき座っていた。ミチさんを見て夫は、「俺なあ・・・」と言ったきり動かない。
「今でも、オレ、ハ、その気持ちわかるマス。だれェナッス、喜んで行く人、どこの世界にあるベナッス。酒のんだって、騒いだって、なんじょしてその気持ち消えるベナッス。オレもハ、泣いでばりしまって、ろくな力付けも出来ないでしまったも」(『あの人は帰ってこなかった』岩波新書、1964年刊
)と、ミチさんは語る。
その時、ミチさんは18歳。夫と暮らしたのはたった5か月、妊娠2か月だった。
50年の歳月を重ねて同じ秋、二人の女性は戦地に赴く夫を見送る。18歳と25歳、結婚5か月と7か月、妊娠2か月と8か月。共に二人は泣いた。」
(2012年1月6日、日本経済評論社 発行『自分の生を編む』プロローグ、3-8頁より)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/05b565f1ca7158ed6ecb6ff0043735ec
「-名誉な死と不名誉な死-
1992年(平成4)年秋、「名誉」という言葉は、「PKO」(国連平和維持活動)とセットで復活する。もともと不死身なのかもしれない。
PKO協力法案が大揺れのころ、自衛隊員の間では、「命令なら仕方がないが行きたくない」(朝日新聞、1992年10月1日)という戸惑いがあったという。カンボジア国内に埋められた地雷は数百万個、マラリアも心配だ。第一、国論は、「行くな」「行くべきだ」と、二分したまま。が、法律が成立すると否定的な雰囲気は肯定へと変わる。
その意義が説かれ、地雷密集地帯ではないこと。ポル・ポト派の活動地域から遠いことなどから、「安全」だとなる。そして「要員に選ばれるのは名誉なことだ」という雰囲気が広がり、「二の足を踏んでいた人も断りにくくなった」と、いうのである。
師団長も、「PKO派遣は名誉ある任務だ。『手柄』はみんなで分けた方がいい」と、言う。もっとも「名誉」という言葉は復活しても、その下に付く「戦死」という言葉は誰も口にしなかった。
それにしても、なぜ、こうも同じ光景が再現されてしまったのだろう。
1992年9月17日、自衛隊のカンボジア派遣部隊が出発する日、2月に結婚し妊娠8か月だという女性(25歳)は、「きのうは夫の誕生日を祝いました。行って欲しくない。今でもそう思います」(朝日新聞、
9月18日)と、涙ながらに話している。
小原ミチさんは、1942(昭和17)年10月に出征する夫を見送った。
皆が集まって出征祝いをしてくれた夜、夫は座敷から見えなくなった。探すと、自分たちの寝部屋で、黙ってあぐらをかき座っていた。ミチさんを見て夫は、「俺なあ・・・」と言ったきり動かない。
「今でも、オレ、ハ、その気持ちわかるマス。だれェナッス、喜んで行く人、どこの世界にあるベナッス。酒のんだって、騒いだって、なんじょしてその気持ち消えるベナッス。オレもハ、泣いでばりしまって、ろくな力付けも出来ないでしまったも」(『あの人は帰ってこなかった』岩波新書、1964年刊
)と、ミチさんは語る。
その時、ミチさんは18歳。夫と暮らしたのはたった5か月、妊娠2か月だった。
50年の歳月を重ねて同じ秋、二人の女性は戦地に赴く夫を見送る。18歳と25歳、結婚5か月と7か月、妊娠2か月と8か月。共に二人は泣いた。」
(2012年1月6日、日本経済評論社 発行『自分の生を編む』プロローグ、3-8頁より)