たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

月曜日はまたリハビリ

2021年10月16日 23時03分51秒 | 日記
 振り返ると9年前の2012年10月16日(火)、雨のプリンス・エドワード島をガイドさんと共にドライブしていました。日本の12月の寒さにこごえそうでしたが、車の窓からハロウィーンの飾り付けがみえるとテンションがあがり、なんどか写真を撮りました。もう訪れることのない夢をみていたような時間。心の宝物です。

 土曜日、寒暖差と低気圧に体がだるくて仕方ありませんでしたがなんとか起き上がり、10時半に出社しますと連絡して出向きました。疲れましたが無事に一日が終りました。感情労働ではないので対人的な緊張感はなく気持ちは楽です。感情労働、大変さに比して安すぎるのでもう戻ることはできそうにありません。来月から、ここでせめて週3日の収入は確保できればと思っています。その前にリハビリを再開。

 悔しいかぎりですが月曜日に総合病院の整形外科で、手術の緊急性はない、リハビリをすることは悪いことではないという診断をうけたので火曜日にまた近くの整形外科に行きました。ちょっといやらしいですがいちばん近いので仕方ありません。診察で総合病院の紹介状どうしたの?ときかれたので、膝のレントゲン写真も撮ったリハビリ専門のところで書いてもらいましたと答えました。あとは細かい話なんかきいちゃいですね。パソコンで他の患者さんのカルテを入力しながら、要するにここでまたリハビリを受けたいっていうことですねと言われたのでそうですと答えました。担当は前と同じ先生(PT)でいいですかときかれたので、パートタイムの仕事を始めたので水曜日だけの方はちょっと困る、可能であれば他の方でお願いしたいということで来週の月曜日にまた再開することになりました。処方箋も所定のフォーマットに入力するだけなので、医師も患者の顔ではなくパソコンの画面をみながら診察する時代になりました。少しでも顔を見ただけマシだと今日出社したところでは言われました。PTも人によって言うことが違うのでどうなりますやら。少し前まで駅の階段の上り下りすら股関節に痛みが走っていましたがまたそれほど感じなくなりました。続けている体操が功を奏してきているのか。疲労感が激しいのは加齢によるものなのか、軟骨が摩耗してしまっていることによるものなのか、両方ですかね。

 当事者の会の投稿を読むと、こんな年齢(ひと昔前までなら年金の受給開始までもうひとがんばりぐらい)になって、遺伝により生まれる前から脱臼していると知るのはわたしだけではないようです。自覚症状が強くなって受診すると変形股関節症の末期と宣告されて手術を告知される。はあっ、そんなの知らんよっていう感じです。今の子どもたちはどうなっているんでしょうね、すごく気になります。乳幼児健診でわかったのなら医師は保護者にちゃんと説明してほしい、こんな年になると手術しなければならない将来があることを伝えてあげてほしい、そうならないためにやってはいけないこと、やった方がいいことをちゃんと伝えてあげてほしい。親がこの世にいなくなってから子宮の中にいた時からですなんて言われるの、直接命とられることではないし、ガンのように日々進んでいくものではありませんがすごく残酷なんですけど。医師やPTにとってよくある症例に過ぎないのでしょうが、それぞれの生活状況で手術なんてそんなにかんたんなことではないのですよ、恐怖心だってあるのですよ。日頃手術しているであろう総合病院の医師は、わたしに恐怖心があることもわかったようです。そういう方もたくさんいらっしゃるのでしょうね、それほどおそろしい手術ではないと。

 しゅじゅつ、しゅじゅつのパニックはひとまず落ち着きました。リハビリの翌日、動けないぐらいだるさがくるようになっていたので本当にいいのかわかりませんがなにもしないのも不安なのでまずはまた月曜日、火曜日は相談窓口に出向かなければならないので動けないと困ります。相性もあります、むずかしいです。納得できる医師に出会うまで一年半ぐらいかかったという方もいらっしゃるようなので4か月ぐらいですんだのは幸いとします。
 
 一日が終わってインターネットでニュースを一応チェックすると見事にまったくいい話がありません。不安と絶望におそわれて鬱にとりつかれそうなことばかり。わたしは世代は今まで払った年金全部返してくれよ!ですよ。現役世代、若者、自分も含めて選挙いかねば。

 不安神経症とのたたかいになりますが外に出てざわめきの中にいることも大切。人と話すことも必要ですね、ひとり考え込んでしまうのはよくありません。生きているかぎりはがんばって外にも出ます。

 静かなのはいやなので、オンデマンド配信中の動画など、音だけ流し続けて心を休めるようにしましょう。今週の自分、お疲れ様でした。

『ニュージーズ』のチケット、コンビニで引き換えねば。



 星組、12月に3500円の席、友の会で当選、それまで死んではいけないという天の声。緊急事態宣言で3回幻になりました。2年ぶりに、今度こそは会えますように・・・。


2008年『フェルメール展』より-「デルフトの爆発」(1)

2021年10月16日 08時23分51秒 | 美術館めぐり
エフベルト・ファン・デル・プール《デルフトの爆発》
1654年頃 
個人蔵、
油彩・パネル
33.6× 49.2㎝

(公式カタログより)


「19世紀を通じて、描かれているのはブレダと誤って信じられてきたが、デルフトを北西方向から眺めた図である。左に新教会、中央方向に旧教会、そしてその間に市庁舎の塔が見える。右端の建物は、北の端にある聖ヨーリス病院である。火薬庫の爆発は1654年10月12日、月曜、午前10時30分に起きたが、街の4分の1にあたる北東部分、ヘールフウェフ近くのその後の壊滅状況が描かれている。爆発で火薬庫にあった約90,000ポンドの火薬が焼けた。その影響でヘールフウェフの北、シンゲル・カナルの東に並ぶ家々が破壊された。市内の主たる教会も損傷を受けたが、倒壊することはなかった。爆発現場に残されたものといえば、水のたまった大きな穴だけだった。おそらく本作品の右手前に描かれているのがその池である。その場所は、再建の対象にはならず、後には馬市場として活用された。

 ダニエル・フォスマール、ヘルブラント・ファン・デン・エークハウト、ヘルマン・サフトレーフェンらがこぞってこの爆発事故の後の状況を描いているが、エフベルト・ファン・デル・プールはその光景の描写を専門とし、繰り返し20回、手がけた。マクラーレンとブラウンがその手の作品の多くをリスト・アップしている。多くは本作品のヴァリエーションだが、何点かは爆発の様子そのものを描いたり、黒焦げになった木と廃墟をより目立たせている。同じ添景を用いたものも少なくない。本作品におけるように犠牲者を強調したり、爆風で地面にたたきつけられた犠牲者を救助したり、走り去る人を入れたり、遺体がそこここに散らばる様子に目を向けたりしている。そうした数え切れないほどの犠牲者の一人が、有名な画家であるファブリティウスだったのだ。ファン・デル・プールもフォスマールもこの不幸を目撃したのかもしれない。実際、ファン・デル・プールはこの悲劇で子どもを一人亡くしている。あった2日後に娘を埋葬しているのだ。ファン・デル・プールのほとんど全部の作品には、爆発の年か、その2日後の年記が入っているが、間違いなく、その後何年も、このよく知られた事故を描き続けた。とはいえ、彼がこのテーマを繰り返し取り上げたのは一種の自己療法の行為だったという説は、時代錯誤の見方としてしりぞけて差し支えない。それは、近代的なショックや悲しみを物語っているのであって、画家が生きていた頃の感性ではないからだ。」

                                      →続く