「徳一の仏教改革‐
徳一。この人は、天台宗開祖の最澄、真言宗開祖の空海と同時代の人です。最澄や空海は、奈良仏教の内側にあって、これを改革して新しいいのちを吹きこもうとしたのです。ですから、鎌倉時代で言えば、法然・親鸞・栄西・道元らの新宗教改革派にたいする貞慶(じょうけい)・明恵(みょうえ)・叡尊(えいそん)というような旧仏教内改革派と、同じような宗教改革をすすめた人ということになります。
かれは、南部仏教が都市仏教になって堕落したのをきらい、山林に交わってきびしい修行をし、庶民の中に立って、真の信仰をたてなおそうとして、東国に下るのです。あずま・みちのく。そこはまだ文化が庶民にまで届いていないところである。仏恩に浴することも薄い。そこでこそ宗教はたしかめられねばならぬ。徳一はまず、常陸(ひたち)国に下りました。そして、筑波山にこもり、この山の神を、仏に読みかえて、中禅寺をここに営むのですが、この寺は、筑波山寺で通ったのです。筑波山は関東一の霊山でしたから、この神の山を、その奉ずる仏の山に組みかえた徳一は、この山の神の信仰に立つ関東の人たちを、みなその徳一宗徒に組み入れることができたのです。
筑波山寺の基礎を固めた徳一は、次いで会津に移ったのです。そして、筑波山信仰を組みかえたとまったく同じように、会津の信仰のよりどころとなっていた磐梯山の神信仰と、その仏教との融合・一体化(神仏習合)をなしとげたのです。磐梯山麓に建てられたその根本道場は恵日寺といったのですが、山号は磐梯山というのです。会津は会津嶺の国、磐梯山の国でしたから、磐梯山の神でもある恵日寺の仏は、そのまま会津一円の信仰のよりどころとされ、徳一は、北関東から南東北にわたって、生き仏のようにあがめられ、徳一菩薩と称されたのです。
徳一は、このよみがえった奈良仏教の自信を引っさげて、最澄の天台宗、空海の真言宗の全面批判を行なったのです。南都(奈良)の僧侶たちは、会津にあって、新宗派とくに最澄を批判する徳一を全面支援しましたから、徳一は東北にあって、奈良の正統仏教を代表する学僧という位置をあたえられていたのです。
日本仏教を、奈良仏教から平安仏教に転換させていくうえでの教理論争・学問論争というのは、じつは、この最澄対徳一、空海対徳一という形でたたかわれたといってよいのです。ですから、徳一という人は、平安仏教史上、最澄・空海の裏に当たる人だったのです。
東北にもう一つの平安時代があったというのは、この意味なのです。人が最澄・空海並の存在だったのですから、そのまわりに延暦寺や高野山級の文化がおこって、ふしぎなかったのです。勝常寺の仏像はその形見です。恵日寺は火災で当時のものを失ってしまったのです。平安末期には、会津の武士たちもみな恵日寺の衆徒頭(しゅうとがしら・僧侶指揮者)の指揮下にあったとされていますから、世俗領主としても、恵日寺は、会津の興福寺のようになっていたことがわかります。興福寺は大和一国の総領主のようになっていました。」
(岩波ジュニア新書『東北歴史紀行』27‐29頁より)