『東北歴史紀行』より‐いざたどらまし〈会津嶺の国〉(3)
「戊辰戦争と白虎隊-
会津では、この精神は、女や子どもたちの心にも徹底していました。そして、16、7歳の少年たちが団結して、堡塁(ほうるい)を守り、宗社(そうしゃ・祖国)が亡びるときは、わが事もおわるとして、全員屠腹(切腹)して、武士道に殉ずるあの白虎隊の行動をよびおこしたのです。白虎隊というのは、戊辰戦争における会津藩兵組織の中の少年隊名です。このときの藩兵編成は、朱雀隊(18-35歳)・青竜隊(36-49歳)・玄武隊(50歳以上)・白虎隊(16,7歳)という年齢別編成になっていて、玄武隊と白虎隊は予備隊でした。でも、戦局が重大化し、存亡の秋(とき)が迫ったので、白虎隊二番隊37名は、特別に出願、許されて、戦場に立ったのですが、激戦の末、最後まで団結を説かなかった20名が、鶴ヶ城に砲煙のあがるのを見て、今はわが事おわると、飯盛山上、自刃(じしん)して君国に殉じたのです。「南鶴城を望めば砲煙あがる 痛哭(つうこく)涙を飲んでしばらく彷徨す 宗社亡びぬ我が事おわんぬ 十有九人屠腹してたおる」。白虎隊の詩は、少年たちの最期をそういたんでいます。飯沼貞吉少年だけ奇蹟的に蘇生しましたが、昭和6年、仙台に没し、同32年、その遺志がかなえられ、90年を隔てて、懐かしの同志たちの眠る山上の一角に自分も眠ることができたのでした。
娘子(じょうし)軍として戦場に出で立ち、壮烈な戦死をとげた婦人たちもいたましかったのですが、いっそういたましかったのは、16、14の少女たちまでが、武士の作法に従って、自決しはてていることです。家老西郷頼母(さいごうたのも)一家の留守の女性たちは、同居の一族あわせて21人、全員が自決して、藩国と運命をともにしました。それぞれに、辞世の歌が書きとめられています。16歳の細布子(たえこ)と14歳の瀑布子(たきこ)の歌は、こうなっています。
妹「手をとりて共に行きなば迷はじな」(お姉さまと手をとり合っていっしょにいくなら、あの世だって道に迷うことはありませんよね、お姉さま)
姉「いざたどらまし死出の山路(やまみち)」(そうよ、大丈夫よ。さあ、いきますよ、あの世の山道になるよ、ついておいで)
この人たちは、800年間の武士道の教えが、いつわりでなかったことを証明した尊い人たちです。飯盛山に白虎隊の霊をとむらいながら、わたしたちは、そのまわりで、それと同じようにそのまことをつくし、それぞれに武士道に殉じていった数多くの人たちのこころをもしのぶことにします。」
(岩波ジュニア新書『東北歴史紀行』、33~35頁より)