『ジェイン・エア』(上巻)より(2)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/6377ef914bd68ef2b80b72302e36830a
「「ジェイン、なぜ、ここへ来たの? 11時過ぎてよ、ちょっと前に、打ったのを聞いたわ」
「あたしあなたに会いたくってきたのよ、ヘレン。あなたが大変悪いと聞いて、あたしあなたに会わないうちは眠れなかったのよ」
「じゃあ、お別れに来て下ったのね。ちょうどあなた間に合ったわ、きっと」
「あなたどこかへいらっしゃるの、ヘレン?お家に帰るの?」
「ええ、あたしの遠いお家へーあたしの最後のお家へ」
「厭よ、厭よ、ヘレン!」私は切なくなって言うのを止めた。私は涙を呑みこもうと一生けんめいになっていると、喉の発作が彼女を襲った。しかし、看護師の眠りを覚まさなかった。喉がおさまると、彼女は一時ぐったり疲れていた。しばらくして、彼女は低い声で言った-
「ジェイン、あなたの可愛らしい足は何も穿いていないのね。ここへ横になって、あたしのおふとんにおはいりなさい」
私は言われたとおりになった。ヘレンは片腕を私にまわし、私は彼女にぴったりと寄り添った。ながい沈黙のあとで、ヘレンはまた語りだした。やはり囁くようにー
「あたし、ほんとうに幸福よ。あなたはね、あたしが死んだと聞いても、しっかりしていて、悲しまないで頂戴。悲しむことはちっともないわ。誰だって、いつかは死ななきゃならないでしょう。あたしを連れていくこの病気は苦しくないのよ。おだやかに、次第次第に連れて行くの。あたしの心は安らかよ。あたしが死んだって大してあたしを惜しむ人はないわ。あたしにお父さんがあるだけ。父は最近再婚したのよ。だからあたしのいないのを淋しく思わないでしょう。あたしは早く死ぬおかげで、いろんな悩みからのがれるのよ。あたしなど、この世で立派になるような素質も才能もないんですもの。生きていてもしょっちゅう、過失ばかりしていると思うわ」
「だけど、ヘレン、あなたどこへ行くの? あなたに見える? あなたにわかる?」
「あたし信じている。信仰を持ってますもの。あたしは神様のおそばへ行くのよ」
「神様はどこにいらっしゃるの? 神様って、どんな方なの?」
「あたしの造り主であり、あなたの造り主です。神様はご自分でお造りになったものを決して滅ぼしはなさいません。あたしは、ただただ神様のお力にすがって何もかも神様のおいつくしみを信頼してますの。あたしはね、あたしを神様のみもとへかえし、神様をあたしに顕して下さる大切な時が来るまで時間を算えているのよ」
「じゃあ、ヘレン、天国のようなお国があるってことは、ほんとう? そして、あたしたちが死んだら、あたしたちの魂がそこへ行けるってことは、ほんとう?」
「未来のお国があるってことは確かよ。あたし神様って、よいお方だと信じてますの。あたしはちっとも心配しないで、あたしの滅びないものを神様へお任せできるのよ。神様はあたしのお父様ですわ、お友だちですわ。あたし神様を愛してます。神様もきっとあたしを愛して下さると信じます」
「ヘレン、あたしが死んだら、またあなたに逢えて?」
「あなたも、あたしと同じ幸福の国へ来られるのよ。あたしのお父様と同じ偉大な宇宙のお父様に迎えられてね。きっとそうよ、ジェイン」
私はまた訊いた。が、今度は心の中で訊いただけ、「その国はどこにあるのだろう? ほんとうに在るのだろうか?」それから私はヘレンを前よりもしっかりと抱擁した。ヘレンは私にとって、前にも増していとしく思われた。私はとても彼女を離せない気がして、彼女の首に私の顔を深くすりよせて横になった。間もなくヘレンは、この上もない優しい調子で言った-
「なんて、あたし楽な気持ちでしょう!さっきの咳で少し疲れてしまったわ。なんだか眠そうよ。でも、あたしを置いて行っちゃ厭よ、ジェイン。あたし、あなたにそばにいて貰いたいの」
「一緒にいてよ、大好きな、大好きなヘレン。だあれも、あたしを連れていきはしないわ」
「暖かくって、ジェイン?」
「ええ」
「おやすみ、ジェイン」
「おやすみ、ヘレン」
ヘレンは私に、私はヘレンに接吻した。それからすぐに、二人とも安らかに眠った。
目が覚めた時は朝であった。異様な動揺に目覚めて、ふと見あげると、私は誰かの腕の中にいた。昨夜の看護師が私を抱いて、廊下を通って寄宿舎へ連れ帰るところであった。私は自分の寝台から抜け出たことを叱られなかった。みんなは何か他の考えに忙しいらしく、その時私がいろいろ訊いても何も説明してもらえなかった。だがテンプル先生が夜明けにお部屋へ戻られた時、私がヘレンの小さな寝台で、顔をヘレンの肩にうずめ、両腕を彼女の首に回したまま寝ていたという事を一日か二日たってから、聞いた。私は眠っていた。そしてーヘレンは、死んでいた。
ヘレンのお墓は、今ブロクルブリッジ教会の墓地にある。彼女の死後15年間は、草の生い茂った土饅頭にすぎなかったが、今は、灰色の大理石の碑が、彼女の名と「われは復活すべし」の語を刻んで、彼女の葬られた場所を示している。」
(シャーロット・ブロンテ作、遠藤寿子訳『ジェイン・エア』(上巻)、1957年4月26日第1刷発行、1978年12月10日第19刷発行、岩波文庫、132-136頁より)
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「「ジェイン、なぜ、ここへ来たの? 11時過ぎてよ、ちょっと前に、打ったのを聞いたわ」
「あたしあなたに会いたくってきたのよ、ヘレン。あなたが大変悪いと聞いて、あたしあなたに会わないうちは眠れなかったのよ」
「じゃあ、お別れに来て下ったのね。ちょうどあなた間に合ったわ、きっと」
「あなたどこかへいらっしゃるの、ヘレン?お家に帰るの?」
「ええ、あたしの遠いお家へーあたしの最後のお家へ」
「厭よ、厭よ、ヘレン!」私は切なくなって言うのを止めた。私は涙を呑みこもうと一生けんめいになっていると、喉の発作が彼女を襲った。しかし、看護師の眠りを覚まさなかった。喉がおさまると、彼女は一時ぐったり疲れていた。しばらくして、彼女は低い声で言った-
「ジェイン、あなたの可愛らしい足は何も穿いていないのね。ここへ横になって、あたしのおふとんにおはいりなさい」
私は言われたとおりになった。ヘレンは片腕を私にまわし、私は彼女にぴったりと寄り添った。ながい沈黙のあとで、ヘレンはまた語りだした。やはり囁くようにー
「あたし、ほんとうに幸福よ。あなたはね、あたしが死んだと聞いても、しっかりしていて、悲しまないで頂戴。悲しむことはちっともないわ。誰だって、いつかは死ななきゃならないでしょう。あたしを連れていくこの病気は苦しくないのよ。おだやかに、次第次第に連れて行くの。あたしの心は安らかよ。あたしが死んだって大してあたしを惜しむ人はないわ。あたしにお父さんがあるだけ。父は最近再婚したのよ。だからあたしのいないのを淋しく思わないでしょう。あたしは早く死ぬおかげで、いろんな悩みからのがれるのよ。あたしなど、この世で立派になるような素質も才能もないんですもの。生きていてもしょっちゅう、過失ばかりしていると思うわ」
「だけど、ヘレン、あなたどこへ行くの? あなたに見える? あなたにわかる?」
「あたし信じている。信仰を持ってますもの。あたしは神様のおそばへ行くのよ」
「神様はどこにいらっしゃるの? 神様って、どんな方なの?」
「あたしの造り主であり、あなたの造り主です。神様はご自分でお造りになったものを決して滅ぼしはなさいません。あたしは、ただただ神様のお力にすがって何もかも神様のおいつくしみを信頼してますの。あたしはね、あたしを神様のみもとへかえし、神様をあたしに顕して下さる大切な時が来るまで時間を算えているのよ」
「じゃあ、ヘレン、天国のようなお国があるってことは、ほんとう? そして、あたしたちが死んだら、あたしたちの魂がそこへ行けるってことは、ほんとう?」
「未来のお国があるってことは確かよ。あたし神様って、よいお方だと信じてますの。あたしはちっとも心配しないで、あたしの滅びないものを神様へお任せできるのよ。神様はあたしのお父様ですわ、お友だちですわ。あたし神様を愛してます。神様もきっとあたしを愛して下さると信じます」
「ヘレン、あたしが死んだら、またあなたに逢えて?」
「あなたも、あたしと同じ幸福の国へ来られるのよ。あたしのお父様と同じ偉大な宇宙のお父様に迎えられてね。きっとそうよ、ジェイン」
私はまた訊いた。が、今度は心の中で訊いただけ、「その国はどこにあるのだろう? ほんとうに在るのだろうか?」それから私はヘレンを前よりもしっかりと抱擁した。ヘレンは私にとって、前にも増していとしく思われた。私はとても彼女を離せない気がして、彼女の首に私の顔を深くすりよせて横になった。間もなくヘレンは、この上もない優しい調子で言った-
「なんて、あたし楽な気持ちでしょう!さっきの咳で少し疲れてしまったわ。なんだか眠そうよ。でも、あたしを置いて行っちゃ厭よ、ジェイン。あたし、あなたにそばにいて貰いたいの」
「一緒にいてよ、大好きな、大好きなヘレン。だあれも、あたしを連れていきはしないわ」
「暖かくって、ジェイン?」
「ええ」
「おやすみ、ジェイン」
「おやすみ、ヘレン」
ヘレンは私に、私はヘレンに接吻した。それからすぐに、二人とも安らかに眠った。
目が覚めた時は朝であった。異様な動揺に目覚めて、ふと見あげると、私は誰かの腕の中にいた。昨夜の看護師が私を抱いて、廊下を通って寄宿舎へ連れ帰るところであった。私は自分の寝台から抜け出たことを叱られなかった。みんなは何か他の考えに忙しいらしく、その時私がいろいろ訊いても何も説明してもらえなかった。だがテンプル先生が夜明けにお部屋へ戻られた時、私がヘレンの小さな寝台で、顔をヘレンの肩にうずめ、両腕を彼女の首に回したまま寝ていたという事を一日か二日たってから、聞いた。私は眠っていた。そしてーヘレンは、死んでいた。
ヘレンのお墓は、今ブロクルブリッジ教会の墓地にある。彼女の死後15年間は、草の生い茂った土饅頭にすぎなかったが、今は、灰色の大理石の碑が、彼女の名と「われは復活すべし」の語を刻んで、彼女の葬られた場所を示している。」
(シャーロット・ブロンテ作、遠藤寿子訳『ジェイン・エア』(上巻)、1957年4月26日第1刷発行、1978年12月10日第19刷発行、岩波文庫、132-136頁より)