たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

フランクル『夜と霧』より-第ニ段階収容所-運命-賜物(たまもの)

2025年01月11日 12時45分14秒 | 本あれこれ

フランクル『夜と霧』より-第ニ段階収容所生活-いらだち

「ひとりの人間が避けられない運命と、それが引き起こすあらゆる苦しみを甘受する流儀には、きわめてきびしい状況でも、また人生最後の瞬間においても、生を意味深いものにする可能性が豊かに開かれている。勇敢で、プライドを保ち、無私の精神をもちつづけたか、あるいは熾烈をきわめた保身のための戦いのなかに人間性を忘れ、あの被収容者の心理を地で行く群れの一匹となりはてたか、苦渋にみちた状況ときびしい運命がもたらした、おのれの真価を発揮する機会を生かしたか、あるいは生かさなかったか。そして「苦悩に値」したか、しなかったか。

 このような問いかけを、人生の実相からはほど遠いとか、浮世離れしているとか考えないでほしい。たしかに、このような高みにたっすることができたのは、ごく少数のかぎられた人びとだった。収容所にあっても完全な内なる自由を表明し、苦悩があってこそ可能な価値の実現へと飛躍できたのは、ほんのわずかな人びとだけだったかもしれない。けれども、それがたったひとりだったとしても、人間の内面は外的な運命より強靭(きょうじん)なのだということを証明してあまりある。

 それはなにも強制収容所にはかぎらない。人間はどこにいても運命と対峙させられ、ただもう苦しいという状況から精神的になにかをなしとげるかどうか、という決断を迫られるのだ。病人の運命を考えてみるだけでいい。とりわけ、不治の病の病人の運命を。わたしはかつて、若い患者の手紙を読んだことがある。彼は友人に宛てて、自分はもう長くないこと、手術はもう手遅れであることを知った、と書いていた。こうなった今、思い出すのはある映画のことだ、と手紙は続いていた。それは、ひとりの男が勇敢に、プライドをもって死を覚悟する、というものだった。観たときは、この男がこれほど毅然と死に向き合えるのは、そういう機会を「天の賜物(たまもの)」としてあたえられたからだと思ったが、いま運命は自分にその好機をあたえてくれた、と患者は書いていた。

 またかなり以前、トルストイ原作の『復活』という映画があったが、わたしたちはこれを観て、同じような感慨をもたなかっただろうが。じつに偉大な人間たちだ。だが、わたしたちのようなとるに足りない者に、こんな偉大な運命は巡ってこない、だからこんな偉大な人間になれる好機も訪れない・・・。そして映画が終わると、近くの自販機スタンドに行き、サンドイッチとコーヒーをとって、今しがた束の間意識をよぎったあやしげな形じょ上的想念を忘れたのだ。ところが、いざ偉大な運命の前に立たされ、決断を迫られ、内面の力だけで運命に立ち向かわされると、かつてたわむれに思い描いたことなどすっかり忘れて、諦めてしまう・・・。なかには、ふたたび映画館で似たり寄ったりの映画を目の当たりにする日を迎える人もいるだろう。そのとき、彼の中では記憶のフィルムが回りはじめ、その心の目は、感傷をこととする映画製作者が描きうるよりもはるかに偉大なことをその人生でなしとげた人びとの記憶を追うことだろう。

 たとえば、強制収容所で亡くなった若い女性のこんな物語を。これは、わたし自身が経験した物語だ。単純でごく短いのに、完成した詩のような趣きがあり、わたしは心をゆさぶられずにはいられない。

 この若い女性は、自分が数日のうちに死ぬことを悟っていた。なのに、じつに晴やかだった。

「運命に感謝しています。だって、わたしはこんなひどい目にあわせてくれたんですもの」

 彼女はこのとおりにわたしに言った。

「以前、なに不自由なく暮らしていたとき、わたしはすっかり甘やかされて、精神がどうこうなんて、まじめに考えたことがありませんでした」

 その彼女が、最期の数日、内面性をどんどん深めていったのだ。

「あの木が、ひとりぼっちのわたしの、たったひとりのお友だちなんです」

 彼女はそう言って、病棟の窓を指さした。外ではマロニエの木が、いままさに花房をふたつつけた緑の枝が見えた。

「あの木とよくおしゃべりをするんです」

 わたしは当惑した。彼女の言葉をどう解釈したらいいのか、わからなかった。譫妄(せんもう)状態で、ときどき幻覚におちいるのだろうか。それでわたしは、木もなにかいうんですか、とたずねた。そうだという。ではなんと?それにたいして、彼女はこう答えたのだ。

「木はこういうんです。わたしはここにいるよ、わたしは、ここに、いるよ、わたしは命、永遠の命だって・・・」」

 

(ヴィクトール・E・フランクル、池田香代子訳『夜と霧(新版)』2002年 みすず書房、113-117頁より)

 

 

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