たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

フランクル『夜と霧』より-第ニ段階収容所生活-壕のなかの瞑想

2024年12月13日 10時24分20秒 | 本あれこれ

フランクル『夜と霧』より-第ニ段階収容-もはやなにも残されていなくても

「資質に恵まれた者が収容所生活で経験する内面化には、空しく殺伐として現在や精神的な貧しさから過去へと逃れるという道も開いていた。一心不乱に、想像を駆使して繰り返し過去の体験に立ち返るのだ。たいした体験ではない。過去の生活のありふれた体験やごくささいなできごとを、繰り返しなぞるのだ。そして、そういう思い出は被収容者の心を晴やかにするというよりは、悲哀でみたした。

 自分を取り巻く現実から目をそむけ、過去に目を向けるとき、内面の生は独特の徴(しるし)を帯びた。世界も今現在の生活も背後にしりぞいた。心は憧れにのって過去へと帰っていった。路面電車に乗る、うちに帰る、玄関の扉を開ける、電話が鳴る、受話器を取る、部屋の明かりのスィッチを入れる-こんな、一見笑止なこまごまとしたことを、被収容者は追憶のなかで撫でさする。追想に胸がはりさけそうになり、涙を流すことすらある!

 被収容者の内面が深まると、たまに芸術や自然に接することが強烈な経験となった。この経験は、世界やしんそこ恐怖すべき状況を忘れさせてあまりあるほど圧倒的だった。

 とうてい信じられない光景だろうが、わたしたちは、アウシュヴィッツからバイエルン地方にある収容所に向かう護送車の鉄格子の隙間から、頂が今まさに夕焼けの茜色に照り映えているザルツブルクの山並みを見上げて、顔を輝かせ、うっとりしていた。わたしたちは、現実には生に終止符を打たれた人間だったのに-あるいはだからこそ-何年ものあいだ目にできなかった美しい自然に魅了されたのだ。

 また収容所で、作業中にだれかが、そばで苦役にあえいでいる仲間に、たまたま目にしたすばらしい情景に注意をうながすこともあった。たとえば、秘密の巨大地下軍需工場を建設していたバイエルンの森で、今まさに沈んでいく夕日の光が、そびえる木立のあいだから射しこむさまが、まるでデューラーの有名な水彩画のようだったりしたときなどだ。

 あるいはまた、ある夕べ、わたしたちが労働で死ぬほど疲れて、スープの椀を手に、居住棟のむきだしの土の床にへたりこんでいたときに、突然、仲間がとびこんで、疲れていようが寒かろうが、とにかく点呼場に出てこい、と急きたてた。太陽が沈んでいくさまを見逃させまいという、ただそれだけのために。

 そしてわたしたちは、暗く燃えあがる雲におおわれた西の空をながめ、地平線いっぱいに、鉄(くろがね)色から血のように輝く赤まで、この世のものとも思えない色合いでたえずさまざまに幻想的に形を変えていく雲をながめた。その下には、それとは対照的に、収容所の殺伐とした灰色の棟の群れとぬかるんだ点呼場が広がり、水たまりは燃えるような天空を映していた。

 わたしたちは数分間、言葉もなく心を奪われていたが、だれかが言った。

 「世界はどうしてこんなに美しいんだ!」」

 

(ヴィクトール・E・フランクル、池田香代子訳『夜と霧(新版)』2002年 みすず書房、64-66頁より)

 

 

 

 


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