たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

「大草原の小さな家」への旅_ミネソタ州大陸横断鉄道

2014年11月14日 18時25分27秒 | 「大草原の小さな家」への旅
「次に、ローラ・インガルス・ワイルダー博物館(ミネソタ州ウォルナット・グローヴ)へ行った。博物館は、線路沿いにある。大陸横断鉄道は、ローラ一家がここへやってきた1874年の前年に、この町まで延びてきた。一家は、西部の開拓地と鉄道が、西へ西へと進んでいく最前線で暮らしていたことがわかる。

 博物館へ入るために、線路をこえるとき、ちょうど列車が通りかかったので、踏切で待った。見るからに長い列車だ。みんなで数えたら、百二十もの車両が連結されていた。五、六百メートルはあっただろうか。列車の両端がみえないくらい長い。

 コンテナの文字を見ると、ほとんどが穀物会社のものだった。穀倉地帯の中西部で収穫された小麦やトウモロコシを運ぶのだろう。農業国アメリカの底力を見た思いだった。」

(松本侑子著『アメリカ・カナダ物語紀行』平成21年幻冬舎文庫、182-183頁より引用しています。)




今回のツアーではぺピン湖畔の町で大陸横断鉄道が走り抜けていく光景を見ることができました。うまくは撮れていませんが雰囲気が伝わればと思います。
















秋の日のつぶやき

2014年11月14日 09時12分48秒 | 日記
昨夜もグリーフ・ケアの講座に行きました。
帰りの電車の中はちょうど残業したか、仕事のあとに一杯飲んだか、どちらかの人でいっぱいの時間帯でした。自分はかつて残業して電車に乗っている人でしたが、ストレスと疲労に満ちているなあと感じました。毎日そんなことを感じながら、自分も一生懸命働いた帰りは疲れ果てて喋るのも面倒くさいぐらいで、電車の中でじっと固まって坐っていました。
「ウチの会社」と言っている人たちが幸せそうには見えませんが、同僚かだれかの噂話をしている光景は幸せそうには見えませんが、みなさん生活をかけて働いていらっしゃるんですよね。自分もその一人でした。またそこに戻っていけるのか、今はほんとうにわかりません。
そんなふうに悩んでいられるだけいいんじゃないの、養う家族がいたらそんなこと言ってられないわよ、という批判も受けますが、自分ひとり家賃を払いながら食わせていくのも大変なことです。比べっこはなしにしたいです。どんな場面でも一人一人みんな状況は違うし、それぞれどんな物語を背負って今ここにいるのかを、人は簡単にはわからない。今おかれている状況の中でその時最善だと思う道を選びとっていくしかないんだろうと思います。今の私は自分の感性を信じ続けることしかできません。今精一杯生きています。明日のことはだれにもわからないので、一日一日大切です。

旅日記や心に残る本の紹介など、ぼちぼちとやっていきますので気長におつきあいいただければと思います。

日本文化に出会って受けたもの・手ばなしたもの

2014年11月12日 22時35分56秒 | グリーフケア
11月6日のグリーフ・ケアの講座の内容を整理してみました。

来日して30年、普段は英語で授業をしているフランス人の先生が日本語で講義をされました。使われる日本語が私たちには不慣れで難しくて聴き取るのが疲れてしまいました。
内容もちょっと難しかったですが、こういう見方もあるという意味で面白い内容だったと思います。その全てを正確に記録することはできておらず。私が理解できたことにとどまります。また長くなりますが、よろしかったら読んでください。

***********

通訳には限界がある、絵の方がわかりやすいということで絵や写真を載せた簡単な資料を準備された。

日本におけるグリーフ・ケアには二通りある。
ひとつ目は喪失体験をした人に、あなたは今非人間的だからグリーフ・ケアが必要ですよ、と言って分ける。病院に入れば番号が付けられる。差別される。あなたは病気ですよ、あなたにはグリーフ・ケアが必要ですよ、という。
二つ目は、英雄扱い・犠牲者扱いする。

どうして今日本でグリーフ・ケアを受け入れるのか、横文字のまま一つの流行のようになっているのか。
ビジネスになるからではないか。例えばこうして大学でグリーフ・ケアとして講座を開けば人がたくさん集まる。(他の題目で開けば人はそれほど集まらないだろう。) いい悪いではなく、一つの見方としてそういう観点から自分はグリーフ・ケアを見ている。

日本は明治時代、早い段階でヨーロッパの啓蒙思想を受け入れた。
啓蒙思想は、弱い人々を踏みながら力をつけるのが特徴。啓蒙思想の価値観を持っている日本がどうしてグリーフ・ケアを受け入れるのか。弱い人々を踏みながら、裕福な人々は生きている。グリーフ・ケアがビジネスとして成り立つ。

日本をブランド化したのは旧国鉄がJRになった時。今も政府は日本のブランド化のために莫大なお金を使っている。そのために本当に大事なことが見えにくくなる。弱い人々が置き去りにされている。
資本主義を支えるためには、弱い者を踏みつけていくグリーフ・ケアが必要。
啓蒙思想に沿えば、完全なグリーフ・ケアの形があって、それを実行していくのがグリーフ・ケア。
島国に住んでいる人を本当に助けようとすれば、大変なこと。
「インターナショナル」と「国際」は少し違う。
日本は本当の意味で国際的になっていない。閉鎖的。どこかで深く根づいていない。一日も早くグローバル化を考える方がいい。
啓蒙思想は自分中心の妄想をつくらせる。現代主義の人間は、その妄想の中で生きている。
創造と妄想とは違う。お金があればよくなる-は資本主義の妄想。
どこまで日常生活で妄想を膨らませるか、想像するか。
都民の税金を使って進めた大学のグローバル化構想は、目指したところに少しもたどりつけなかったと思う。全てが妄想だった。
妄想だから全てOK。誰も責任を持たない。

グリーフ・ケア‐グリーフは悲嘆、ケアをどうやって訳すか。情(なさけ)。どういうふうに人間関係をつくるか。相手がフランス人だからいい、中国人だからいやだ、から抜け出さなければならない。本当のグローバル化はあり得ない。

芸術家は悲嘆のかたまり。だからとてもいい表現をしている。

弱い人々を踏みながら豊かな人々の生活をつくっているのが今の中国。張洹「ZHANG HUAN」はそれに対して、体全部を使って怒りを表現している。資本主義社会を批判。中国の今の資本主義は弱い人にとってきつい。展覧会の場で作品を創って終わったら壊す人。貧富の差が激しい上海に行って、貧しい人たちの住む所で全身にはちみつを塗って座り続けた。いろんな虫が寄ってきて体はぼろぼろになる。それが彼の怒りの表現だった。芸術家はそれほどのことをする。
杜維明(といめい Tu Wei-ming) も批判している。今の中国では自然は全滅する。彼の考え方は大事。今の日本も似ている。残っているのは資本主義モデルしかない。
坂口恭平は、3.11の津波と原発事故の時、政府のやり方に強い怒りを感じた人。
中西進の『日本人の忘れもの』は現代社会を批判的にみるために役に立つ。「強いモノは必ずこわされる」例えば原発。「弱い」の反対は「強い」ではない。

グリーフ・ケアを本当にやるなら、私たちの価値・社会を批判的にみる必要がある。
”情(なさけ)“を考え直さなければならない。そうすれば日本のいいものが生まれてくる。
今の日本で、自殺者、過労死の数は少なくない。そこをきちんと見なければ、グリーフ・ケアはただのビジネスに終ってしまう。

人間の脳の働きは理性的ではない。不思議なもの。まだフランスにいた頃、二十歳ぐらいの時、病院で出会った、バイクの事故で足を失った若者が読んでいたのはバイク雑誌だった。

グリーフそのものは文化がつくっている。カタカナを利用して、何かを訴えようとしている。現代社会のいい意味での批判的な概念になれば素晴らしい。今のままの日本では将来がない。”情(なさけ)“が育てば将来が生まれてくる。

耳の脳はとても大切にしている。(ここは先生の日本語を聴き取ることができず、内容を理解できていません。)
カナ-日本人は一つの小さなことばを大切にしている。
日本の歴史の中でグリーフ・ケアは現われてこない。
先生は縁があって30年前の来日直後、高野山で2月15日に行われる常楽会という儀式に参加した。尼さんの達の末席に坐った。
日本のお葬式の形は、お釈迦様が亡くなった時の儀式から生まれている。涅槃。お釈迦様は亡くなる時「私の伝えた音だけ守りなさい」と言われた。

万葉集11巻、2453 柿本人麻呂歌集
「春楊(はるやなぎ)
 葛城山(かつらぎやま)に
 たつ雲の
 立ちても坐(ゐ)ても
 妹(いも)をしそ思うふ」

万葉集の中に、素晴らしい「グリーフ」が現われている。
妹や幼い子供が亡くなった時、当時の人は詩を詠んだ。
亡くなった人は雲の形になって生きている。今も奈良に行くと美しい雲をみることができる。今生きている人と亡くなった人は、雲の形をとっている。雲全体の風景は生命のリズム。
”情(なさけ)“と耳が育つために、万葉集はとても大事。

グリーフ・ケアの目的は人を強くすることではない。
グリーフを経験している人は弱い人ではない。考えられない、いい表現をする。生命力は素晴らしい。ストレッサーはある程度必要である。3.11のような刺激を受けた時、強いものが生まれてくる。いい反応が生まれてくる。

弱い者は資本主義が喜ぶ人材。
グリーフ・ケアは、その弱い者が、弱い者を踏みながら強い者が生きてゆく資本主義社会を批判する力になり得る。グリーフは予防できる。

antifragile(中西進の造語)→弱いの反対は強いではない。

最後に高木先生がまとめ直してくださったこと。
ブランド化された資本主義社会の日本を批判する力にグリーフ・ケアがなり得る。”情(なさけ)”がグローバル化されて、違う宗教・文化・民族と出会うことによって深められて行く。弱い者はすごいエネルギーを持っている。そのエネルギーを引き出すのが、グリーフ・ケア。グリーフ・ケアは、“情(なさけ)”を育てる。

***********

私自身、聴き取ることができず十分に理解できていないところもありますが、以上のように整理してみました。

東宝チャリティー・コンサート

2014年11月11日 22時16分16秒 | ミュージカル・舞台・映画
9月19日のチャリティーコンサートのことを書きたいと思いながら今になってしまいました。つい最近のような感じでいましたが気がついたら2か月近くが過ぎようとしています。早いものです。今年もあと一か月半ぐらいなんですね。


9月19日(金)の夜の部、
『東宝芸能50周年記念ミュージカルチャリティーコンサート Espoir-希望をもって-』に行ってきました。
場所は東京国際フォーラムCホール。
東宝所属のミュージカル俳優による、東日本大震災のチャリティーコンサートでした。

混乱の最中、大好きな一路真輝さんが『エリザベート』のナンバーを、トートとエリザベートの両方で歌われるというのに惹かれて気分転換に行ってきました。

一路さん、宝塚の雪組二番手時代から退団公演の『エリザベート』まですべて観ています。
退団後は、『王様と私』、『南太平洋』、東宝初演『エリザベート』(2000年)、それから私自身が勉強と仕事の両立で忙しかったことがあって間があき、2012年『ルドルフ・ザ・ラストキス』で久しぶりに拝見しました。2013年『アンナ・カレーニナ』今年は、『シャーロックホームズの冒険』『ブラック・メリーポピンズ』と観ています。
こうして何十回も拝見しているので勝手に懐かしい人に会いに行くような、ほっと安心できる感覚でした。久しぶりに一路さんの歌をたっぷり聴くことができて嬉しかったです。歌のお上手なことは、裏切られるはずがないのでそういう意味でも安心でした。ドレス姿も変わらず、本当におきれいでした。

第一部

またShowが始まる『キス・ミー、ケイト』より全員

So In Love 『キス・ミー、ケイト』より
 一路真輝、今井清隆

Take Me To Heaven『シスター・アクト』より
 瀬名じゅん 春風ひとみ 辛島小恵 遠野あすか 宇野まり絵 RiRiKA

世界が終わる夜のように『ミス・サイゴン』より
 昆夏美 石井一彰

アデレードの輝き『ガイズ&ドールズ』より
 高橋由美子

踊り明かそう『マイ・フェア・レディ』より
 遠野あすか 宇野まり絵 RiRiKA

ブロードウェイの子守唄『42ndストリート』より
 春風ひとみ 辛島小恵 宇野まり絵 RiRiKA
戸井勝海 石井一彰 杉山有大

Hello,Young Lovers『王様と私』より
 一路真輝

I Do! I Do!/ My Cup Runnth Over『I Do! I Do!』より
 村井國夫 春風ひとみ

Bring Him Home 『レ・ミゼラブル』より
 今井清隆

愛と死の輪舞『エリザベート』より
 一路真輝

私だけに『エリザベート』より
 瀬名じゅん

虹『ローマの休日』より
 斉藤由貴

トラディション~サンライズサンセット
『屋根の上のヴァイオリン弾き』より

全員


第二部
I Wish I May『イーストウィックの魔女たち』より
 一路真輝 瀬名じゅん 高橋由美子

『サウンド・オブ・ミュージック』メドレー
 斉藤由貴 村井國夫 
 東宝シンデレラ

舞台はレディ 映画『舞妓はレディ』より
 上白石萌音 辛島小恵 宇野まり絵 RiRiKa
 石井一彰 杉山有大

ランベス・ウォーク 『ミー&マイ・ガール』より
 東宝ジュニア
 
夢にも思わなかった『アンナ・カレーニナ』より
 瀬名じゅん 遠野あすか

セリョージャ『アンナ・カレーニナ』より
 一路真輝

命をあげよう『ミス・サイゴン』より
 昆夏美

ブイ・ドイ『ミス・サイゴン』より
 今井清隆 戸井勝海 石井一彰 杉山有大
 
プリンスは出て行った『モーツアルト』より
 高橋由美子

Stars『レ・ミゼラブル』より
 村井國夫

『エリザベート』メドレー
 全員

One Day More 『レ・ミゼラブル』より

 今井さんバルジャン、村井さんジャベール、戸井さんマリウス、昆さんエポニーヌ、
 杉山さんアンジョルラス、春風さん・戸井さんティナルディエ夫妻
 歴代のプリンシバルキャストの共演でした。


プログラムは以上です。
東宝の宝物となっているミュージカルを一度に何本も観ているような感覚でした。
みなさん、舞台で持ち役として演じられた方々は役柄のスィッチがそれぞれに入っていました。

『エリザベート』より「愛と死の輪舞」、トート姿の一路さんの男役時代の声量と貫禄は衰えていませんでした。素敵でかっこよかったです。

子供たちによる『ミー&マイ・ガール』のランベス・ウォーク、かわいくて、楽しかったです。

一路さんの『アンナ・カレーニナ』から「セリョージャ」、舞台を思い出して涙が出ました。
昆さんの『ミス・サイゴン』から「命を上げよう」でさらに涙でした。
『ミス・サイゴン』より「ブイ・ドイ」でも涙でした。今井さんのジョンはぜいたくすぎます。
『レ・ミゼラブル』より村井さんの「Stars」、何十年ぶりに歌われたのでしょう。初めてきいたと思いますが、昨年観た川口さんジャベールを堪能した場面を思い出しました。

ラストの『エリザベート』メドレーは、村井さんパパ、昆さんシシィで、フランツと出会う前の少女時代からスタート。
遠野さんシシィでフランツと結婚後の独唱。
一路さんシシィ、戸井さんフランツで「夜のボート」
遠野さんシシィ、瀬名さんトートで「私は踊る」
瀬奈さんトートで「最後のダンス」
一路さんシシィ、瀬奈さんトートでラストのエリザベートの旅立ちの場面、幻のツーショット。
遠野さんの歌の上手なことにもあらためて心が動かされました。
ここでしか出会うことのできなかったキャスティングで『エリザベート』が好きな私には、楽しく、幸せな時間でした。


二幕の途中で、東宝を代表して挨拶に登場されたのは沢口靖子さん。明るい色のドレス姿が素敵でした。30年ぐらい前のデビュー映画をみていますが、年齢を重ねていい役者さんになられたなあと感慨深いものがありました。


一路さん、最後にまとめの挨拶もされ、すっかり落ち着かれた感があって、舞台を通して人が美しく元気に年齢を重ねられていく姿を拝見できるのも楽しいものです。

一路さんと瀬名さんがトートとエリザベートの両方を一つの舞台で演じられたのが注目のひとつでした。
瀬奈さんの男役時代はみていないので、トート姿も初めてでしたが、背が高いし男役の人なんだと思いました。




9月19日(夜)終演後のキャストによる募金とお見送りの様子。
被災地へ送るための募金箱がいくつか用意され、キャストのみなさんがドレスアップしたまま並んで観客を送ってくださいました。
(東宝の公式ツィッターより転用しています。)


『日本株式会社の女たち』(6)

2014年11月09日 21時56分26秒 | 竹信三恵子著『日本株式会社の女たち』
「昼夜、公私を問わない猛烈な働き方が社会を豊かにする、という大目標があった高度経済成長期。」

(竹信三恵子著『日本株式会社の女たち』1994年、朝日新聞社発行、111頁より引用しています。)

「大草原の小さな家」への旅_ミネソタ州ぺピン歴史博物館(1)

2014年11月08日 22時32分20秒 | 「大草原の小さな家」への旅
「ぺピンは、人口九百人足らずの小さな町だ。歴史博物館は、昔ながらの簡素な木造の建物だった。もともとは地元の歴史協会が、開拓時代をふりかえるために造ったもので、当時、使われていた日用品が主な展示物だが、ローラの本も売っていた。」

(松本侑子著『アメリカ・カナダ物語紀行』平成21年幻冬舎文庫、159-160頁より引用しています。)



歴史博物館には、19世紀の日用品が展示されていました。












きつい日々ですが・・・

2014年11月07日 16時42分46秒 | 祈り
空はなんとなく曇り空、木の葉が色づきはじめした。
あたたかな陽射しがうれしいですね。
私の部屋はとっても日当たりがいいので、夏は暑いですが、冬はほっこり幸せ。
でも今の混乱状況では残念ながら落ち着いて部屋にいることはできないので、
今日もパソコン背負って駅からの遠い道のりをあっちへこっちへと移動しています。
かなりもうほんとにきつくて、へばっているんだろうと思います。
それでも今は自分の感性を信じてこのまま進んでいくしかないです。

妹がきっと背中を押してくれています。
ねえちゃん、がんばれよ、と言ってくれています。
あなたはもう十分妹さんとお母さんの分を生きられたのですから、
これからは自分らしくさわやかに生きていってくださいね、とW先生が
仰ってくださいました。
自分のやっていることは間違っていない、これでよかったんだと思える日が訪れると
信じ続けます。信じ続けるってむずかしい。信じ続けるって大切なこと。

「1995年8月26日(土)

友達への手紙を書いてしまったので、もうあまり書けない。
ほんとは、妹のことをまとまった文章にして吐き出してしまいたいのかもしれない。
でも、今は距離をおけないので、こわくて書けない。
自分の中で、ふっとみえてくるものがないのだ。
まあ、家のことをかんがえるのはよそう。
母のダミ声をきいてると、こっちが変になりそうなので、とてもいっしょにはいられない。
忘れよう。
大切なのは、これから自分がどう生きていくかだ。
自分に忠実であれ。それだけだ。
わたしは別に不幸じゃない。」


「1995年8月30日(水)

薬のおかげで眠ることはできるが、いやな夢ばかりみるのでひどく疲れている。
ぐっすり眠りたいなあ、なんにも考えないで。
ただ、仕事の依頼の電話を待っているだけの状態もさすがに疲れてきた。
かといって、自分から働きかけて、なにをしたらいいのか、わからないわたし。
じっと待っているだけだ。ばかみたい。
まず、疲れをとることだ。あせるまい。」


結局、21年前と同じ状況? いやそんなことはないはず。少しは成長できているのかなと思います。ながあい回り道をして、この時の自分への問いかけの答えをようやくみつけられるのかもしれませんが、今はまだわかりません。もう少し、もう少しです。もう十分すぎるぐらいがんばっているけれど、もう少し、がんばれ、わたし・・・。


大震災の喪失体験を通して考える「悲嘆」(2)

2014年11月06日 16時06分43秒 | グリーフケア

記録が不完全で、お話されたそのままでなく、言葉が違っていたり足りなかったりする点がありますことご了承の上、長いですがよろしければ読んでください。

***************


地震から三日後に当時教えていた神戸大学のゼミ生三人が慰問に来てくれた。
ロバートさん(3.11の後アメリカのトモダチ作戦のリーダーとなった人)、むらいりょうたさん、女性のきたおさん。きたおさんがゼミ生全員の安否確認をしていて三十数名の無事が確認できていたが、後二人はわからないとのことだった。残念ながらその後二人は亡くなっていることがわかった。一人は堺市に実家のあるもり君は大学の授業が始まるまでまだ日にちがあるのでもう少しとどまるよう家族に引き止められていたが、オヤジ(先生のこと)を打ち負かすような卒業論文を書きたいと言って神戸に早めに戻ったところを地震に遭遇した。彼には婚約者がいて、婚約者にも先生のゼミのことをたびたび話していたことを知った。
先生のゼミは何時間もかかる長丁場。一冊本を読んできてそこから何を学んだかを各自3つずつ話してもらい、それに対して先生がコメントしていくという形式なので、熱心な学生しか来ない。大学院生も評判をきいて入ってくる。もり君も非常に熱心なゼミ生の一人で、議論が白熱することもしばしばだった。彼はカトリックで葬儀の時に弔辞を読んだが、優秀な若者の未来を奪ったことを恨みに思うことを読んだ。

生き残ったゼミ生は弔い合戦のようにその後ボランティア活動を行ったが年度末で区切りをつけて、新年度になってからは勉強をがんばった。

先生の家は三井のプレハブツーバイフォーム。ツーバイフォームは地震に強いことが阪神淡路大震災でわかった。たまたま地震の7-8年前にこの家を購入した。展示会に行って奥様がとても気に入ったので、一番長く家にいる彼女が気に入ったならと購入した。地震で家は24センチ動いて傾いて止まった。家はつぶれなかったが全壊認定を受けた。
最初は家に籠城するつもりだったが、この家が一番危ないですよと人に言われ、娘たちが通る道沿いの家もいつ崩れおちてきてもおかしくない状態だった。その時知り合いの広島の女性が、強引にこちらに来なさいというのではなく、まだ一度も遊びに来てもらったことないですよね、と優しく誘ってくれたので、娘二人と奥様を預かってもらうことにして、鉄道は遮断されていたので、飛行機の切符を取って三人を行かせた。様子を見に行った時、下の娘はランドセルを用意して小学校に行かせてもらっていることを知った。とてもよくしてもらった。この時の恩返しのつもりで、3.11の復興構想会議で構想を練り上げた。

阪神淡路大震災の時の政府・行政の冷たさは繰り返してはならない。
それまであったものよりも良いものを造るなら、地元のお金でやりなさいと当時の警察出身の後藤田ドクトリーが立ちはだかった。
不合理なこと。官僚制が強いことを示している。
神戸港の復旧に後藤田ドクトリーが立ちはだかった。15メートルの新しい埠頭を造って国際競争力のある神戸港を造りたかったが12メートルの埠頭しか造れなかった。神戸港はその後釜山にも負けることになる。国際競争力のある神戸港を造れなかったのは日本全体にとっての喪失。

当時個人の家を建て直すのは自分ではやれないので助けてくださいと言っても政府に冷たく突っぱねられた。家という私有財産に対して国のお金は出せないと言われた。この3年後に私有財産に対して自然災害の時は300万円国が出すという法律がつくられた。

3.11の時は手厚かった。財政は阪神淡路大震災の時よりも厳しかったが、今を生きる世代が増税を受け入れて支えたから可能になった。
3党合意で25年間の増税を国民が受け入れた。どこがやられても国民全体で支える。これがなかったらこの列島に生きていけない。被災者は先ず逃げる。その先に復興がある。

3.11の時、列に並び互いに譲り合う日本人の姿が世界に称賛されたが、例えば1906年のサンフランシスコ地震の時には略奪が横行した。秩序を保つために当時の市長が警察官に射撃命令を出した。後で市長には射撃命令を出す権限のないことがわかったが、秩序を保つために正とされた。

阪神淡路大震災の時に2万数千人もの人が当日中に救助されたが、多くは民間の手による。神戸商船大学の学生が、一人の指揮をとる優秀な学生の下で長靴をはく、マスクをするなど装備を整えて集合し、当時中に100人を救助した。発生から72時間は生存率が高いと言われているが実際に高かったのは当日で80%。二日目以降はがたっと落ちる。自衛隊が救出したのは165人。初動がおそかった。

学生時代、ケチな人間になるなと教えられた。ケチな人間になるな=自己中を超えられないような人間になるな、ということだったと思う。

3.11の時、ボランティアである消防団員が254名犠牲になっている。
人を助けようとして犠牲になった人は多い。南三陸町で避難のアナウンスを続けて自分は津波の犠牲になった女性、中国人の従業員を先に避難させて自分は津波の犠牲になってしまった男性・・・。名取市で高齢の母親を連れて逃げようとしたが母親が自分はいいから逃げなさいと言うので苦渋の決断で母親を置いて逃げだ。後でなぜ自分だけにげたのかと責め続けた男性もいる。

阪神淡路大震災の時知事命令がおそかったから自衛隊の出動がおそかったというのは神話。知事命令が出る前の9時台には装備を終えていた連隊もあった。警察のパトカーの先導なしには現場に行けないだろうとパトカー一台の手配も終えていたが、道路はふさがれてしまっていて現場に行くことができなかった。自衛隊の方から現場に行かせてくださいと要請したのが知事命令ということになった。連隊長の自己判断で出動準備をした連隊もあった。後で処罰されることを考えなかったのかという自分の問いかけに対して、連隊長は自分が責任をとるつもりだったと答えた。自衛隊にはそういう訓示がある。

阪神淡路大震災の教訓が3.11で生かされてよかったこともどこかでお話しされました。
(別の機会に五百(いお)旗頭(きべ)さんより、自衛隊は阪神淡路大震災の反省を生かして、3.11の時には組織力で救出された人の約半分の一万数千人を救ったお話を伺ったことがあります。2011年6月都心の大学でのシンポジウムにおいてでした。)

「他の家族でなくて私でよかった」
昨年亡くなられた奥さんがすい臓がん(沈黙の臓器)の告知をされた時の言葉。あどれぐらいですか? そして、いつから悪かったのか?
告知された時の奥様から医者への質問。告知されたのは5月?6月?だったが、2月にお腹に違和感があるとして診察を受けていた。その時にはがんは発見されなかったので妻としては医者への抗議も込められている質問だったと思う。自分が一昨年神戸と東京と九州を一週間の間に行き来するような状況で生死をさまようぐらい具合が悪くなってしまった。その時にすでに悪かったのかもしれないというのが医者の答えだった。

最期は家で、家族みんなで看取った。娘たちがお母さんのために命のスープを作るんだと言って、新幹線でかけつけては競い合うように世話をしてくれた。最期は点滴をして口から黒いモノが出ているような状態になった。65歳は今の時代では短いが、家族のあたたかさの中で幸せな人生だったと思う。

悲嘆と復興
「個人の心の中のグリーフ・ワークと国や県が行うハードもグリーフ・ワーク。両方でグリーフ・ケアであることを知ってほしい」、と最後に高木先生からお話があった。








大震災の喪失体験を通して考える「悲嘆」(1)

2014年11月05日 14時07分17秒 | グリーフケア
10月30日のグリーフケアの講座でお聴きした五百旗頭真(いおきべまこと)さんのお話をまとめたので載せてみようと思います。

五百旗頭さんは、前防衛大学校長、東日本大震災復興構想会議議長をつとめられました。
現在は、ひょうご震災記念21世紀研究機構理事長、熊本県立大学理事長をされています。

講座ではよどみなくお話をされました。
そのすべてを正確に記録することはできておらず、私がその場でメモをとったことと記憶に残っていることからまとめたものですので、お話しされたことから言葉が違っていたり、
こぼれおちたりしています。その点ご了承ください。

一回で載せるには長いので分けてみます。
よろしかったらお読みください。


****************


悲嘆は死別体験ばかかりではない。喪失も悲嘆。
今の日本には四つの喪失の危機がある。

①中国の台頭。これは人類史上画期的なこと。19世紀ドイツが台頭したことにより第一次世界大戦が起こった。国の規模がドイツよりもはるかに大きい。経済力の上に軍事力を持っている。国益のために軍事力を使う恐れがある。尖閣諸島をとられるだけでも日本にとっては大きな悲嘆となるだろう。もうすぐ日中首脳会談があるが、力を蓄えた中国とのつきあいは難しい。

②GDP200%の赤字。国家予算の半分は来年送りとなっている。税金で半分しかとれていない。一定の成長率と共に税金を増やしていかなければならない。高齢化で、地方の市町村の80-90が消滅していく。就学・就労の為に人口が東京に集中し過ぎている。東京が差し出すべき地方が死んでいく。提供すべき側の東京は、人口の再生産をしない。ギリシャは赤字140%で破綻した。日本は国債を発行して国の内部に借金をしているのでまだもっている。金利を上げなければ国債はもたない。それはもう目の前。団塊の世代が負担しなければならないのに、そうなっていない。

③首都直下型地震と南海トラフ。3.11の時に帰宅困難者がたくさん出て大混乱したが、一極集中で直下型地震が起こったら、政治、経済、全て止まってしまって大変なことになるだろう。

④人口減少。地方も東京も衰退していく。


五百旗頭(いおきべ)さんは阪神淡路大震災の罹災者。地震に対して敏感になっている。3.11の時は横須賀の防衛大学にいたが、最初の揺れから、さらに大きな揺れがきたのですさまじい地震だと感じた。すぐにドアを開けて避難経路を確保してくれた女性がいた。それからラジオで宮城沖が震源地であることを知った。

阪神淡路大震災は、1995年1月17日午前5時46分。いきなり下から上につぎあげてきた。家を揺らされて殺意を感じた。実際には20秒だったと後で知ったが揺れている間2分ぐらいに感じた。下から突き上げられると家も電車も一度浮かび上がり、降りてくるときに横揺れがくる。阪急電鉄の伊丹駅は3階にあった。地震を想定して造られてはいたが、一度浮かび上がることは想定していなかった。3階にあったため、電車の重さで崩れて、下にあった交番がつぶれた。警察官二人が生き埋めとなり、一人は存命だったが、一人は遺体で発見された。
その日はたまたま下の娘と2階の部屋で一緒にベッドで寝ていたので、揺れ続けている間娘が地震に連れ去られないように押さえつけていることができた。(とっさにそれしかできなかった。)

2階の自分の部屋にいた上の娘もベッドで寝ていたので助かった。家具が飛んでいたがベッドまでは降りてこなかった。
家族四人無事であることを確認した後、食料を確保できるのか、本当に助かったのかを確かめるために、お父さんが代表で1階に降りていってみることになった。暗闇の中で蝋燭をみつけたがマッチがどこにあるのかわからなかった。上京していた息子の部屋にラジオがあった。ラジオで震源が淡路島だと知って驚いた。関西に地震はこないという神話に毒されていたので、東京が震源地ならとてつもなく大きな地震で、小松左京の「日本沈没」が現実に起こったのではないかと震源地を知るまで妄想した。

一階に降りていって、玄関でスリッパをはいた時安心した。こういう時スリッパをはくと安心する。表玄関のドアは揺れで歪んでいて開けられなかったので、勝手口に行ってみることにしたが、台所は家具などが倒れて三層にふさがれてしまい、勝手口に行くことはできなかった。
2階の窓から下の娘の同級生の女の子がいる。すぐ近所の社長の豪邸がつぶれているのが見えた。大きな庭があって野菜づくりをしていたので、娘たちがたびたび遊びに行っていた家だった。娘が友だちの名前を呼び続けていたら、友だちが無事な顔を見せた。梁と梁との間で友だちは助かった。針の先ほどの偶然がこういう時生死を分ける。

視点を変えることによって人は救われる。
昨年亡くなられた奥さまはそれまで趣味で器が好きだった。台所で、散らばった器を「私の柿右衛門・・・」などひとつひとつ名前を呼びながら拾っていた。それ以降、相対化して物事を考えるようになり、器はなんでもなくなった。
大震災前は旧約聖書。大震災以後、別の人生を生きている。
今この瞬間を大事に生きるようになった。明日はないかもしれない。



『ミス・サイゴン』(4)

2014年11月04日 13時43分02秒 | ミュージカル・舞台・映画
「アメリカとベトナム戦争

(ディエン・ビエン・フーの戦いでフランス軍は降伏。ジュネーブの和平協定で停戦。これで第一次インドシナ戦争は終結する。)

 しかし、このジュネーブ協定は、禍根を残す。協定の内容としては、ベトナムは南北に分離し、1956年7月に自由選挙を行い統一を図るというものであったが、1955年アメリカの後押しを受けた(アメリカは、15000人ほどの軍事顧問団を派遣していた)ゴ・ディン・ジエムが、選挙で南ベトナムの大統領に選ばれた。ゴ・ディン・ジエムは、ベトナム共和国の建国を宣言し、北ベトナムとの統一選挙を拒否した。アメリカとアメリカ軍事顧問団の支援の下、一方で、ゴ・ディン・ジエムは一族による政治支配と独裁、極端に腐敗した政治、経済政策の失敗で塗炭を舐める国民には弾圧を加えた。特に、国民の崇拝する仏教徒の僧侶の抗議の焼身自殺が続き、世界に衝撃的な映像が伝えられた。

 ゴ政権は、軍事クーデターによって倒され、更なる軍事クーデターが起こり、政情は混迷を深めていった。そして、南ベトナムでは、北ベトナムの支援と指揮の下、南ベトナム解放民族戦線(べトコン)が生まれ、治安は極端に悪化した。

 1963年11月、ジョン・F・ケネゲィがテキサス州ダラスで暗殺され、副大統領のリンドン・B・ジョンソンが大統領に就任した。1964年8月、アメリカは公海上のトンキン湾で、米駆逐艦が魚雷艇に攻撃されたとして、北ベトナムの魚雷艇の基地に攻撃を仕掛けた。

 このトンキン湾事件については、後年アメリカの駆逐艦が、北ベトナムの領海内で魚雷艇基地の攻撃任務についていたことが明らかになる。

 8月7日、アメリカの上下院は、ジョンソン大統領に無条件の戦争大権を与え、ベトナム戦争はエスカレートしてゆく。1965年2月、北ベトナムへの爆撃開始、3月に海兵隊、続いて陸軍、1967年には最大で50万人を超える若者が、祖国を遠く離れたベトナムに送られ、ジャングルで戦い、泥の中で眠った。相手は、民族解放戦線のゲリラだけではなく、主体は北ベトナム正規軍だった。」

(東宝の『ミス・サイゴン』公式ブログラムより引用しています。)


 ミュージカルで描かれているのは、1975年のベトナム戦争末期、サイゴン陥落前夜からです。


 8月13日の観劇後に書きましたが、一幕の終盤、難民となってタムを抱きエンジニアと共に国境を越えようとする昆夏美さんキムの「命をあげよう」を聴きながら、涙が流れていました。 本田美奈子さんを思い出したり、徒然にいろいろな思いが心の中をめぐっていました。
昆さんの小柄ながら、全身でキムを生きる姿が今も深く心に残っています。
二幕のバンコクのホテルにクリスを訪ねる場面、クリスの姿はなく、クリスの妻エレンと鉢合わせした時のキムの驚愕は、なんとも胸がはりさけそうでやり切れません。エレンの動揺する姿もまたやり切れませんでした。クリスの罪深さを思ってしまいます。それは戦争が引き起こした罪ですね。

キムの親が決めた婚約者で戦後人民委員長となるトゥイは、7月29日が泉見洋平さん、8月13日が神田恭平さんでした。
トゥイは男性が憧れる役なんだそうです。
キムを追いかけてサイゴンに姿を現した時には、身なりがみすぼらしいので誰が登場したのか最初理解できていませんでした。2回目に観劇した時にわかりました。
人民委員長となってから、エンジニアにキムを探させ、居場所を突きとめたトゥイは、
クリスの間に生まれた子タムの存在を知って、タムに手をかけようとします。
タムを守るためにキムは引き金を引いてしまいます。
その場面は、バンコクで働くキムの回想シーンとして描かれています。
キムに消せない過去を思い出させる、今は亡きトゥイの登場の仕方には、ドキッとさせられました。
泉見さんも神田さんも執拗な、冷徹な雰囲気をよく出されていたと思います。


書き切れていない感がありますが、ひとまずこれで終わりです。


本田美奈子さんが旅立たれたのは2005年、『レ・ミゼラブル』のファンティーヌ役に決まっていたことを最近知り、あらためて残念でなりませんでした。
本田さんのことはまた別の機会に書きたいと思います。


7月29日の入り口ボード。



8月13日のボード。