記録が不完全で、お話されたそのままでなく、言葉が違っていたり足りなかったりする点がありますことご了承の上、長いですがよろしければ読んでください。
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地震から三日後に当時教えていた神戸大学のゼミ生三人が慰問に来てくれた。
ロバートさん(3.11の後アメリカのトモダチ作戦のリーダーとなった人)、むらいりょうたさん、女性のきたおさん。きたおさんがゼミ生全員の安否確認をしていて三十数名の無事が確認できていたが、後二人はわからないとのことだった。残念ながらその後二人は亡くなっていることがわかった。一人は堺市に実家のあるもり君は大学の授業が始まるまでまだ日にちがあるのでもう少しとどまるよう家族に引き止められていたが、オヤジ(先生のこと)を打ち負かすような卒業論文を書きたいと言って神戸に早めに戻ったところを地震に遭遇した。彼には婚約者がいて、婚約者にも先生のゼミのことをたびたび話していたことを知った。
先生のゼミは何時間もかかる長丁場。一冊本を読んできてそこから何を学んだかを各自3つずつ話してもらい、それに対して先生がコメントしていくという形式なので、熱心な学生しか来ない。大学院生も評判をきいて入ってくる。もり君も非常に熱心なゼミ生の一人で、議論が白熱することもしばしばだった。彼はカトリックで葬儀の時に弔辞を読んだが、優秀な若者の未来を奪ったことを恨みに思うことを読んだ。
生き残ったゼミ生は弔い合戦のようにその後ボランティア活動を行ったが年度末で区切りをつけて、新年度になってからは勉強をがんばった。
先生の家は三井のプレハブツーバイフォーム。ツーバイフォームは地震に強いことが阪神淡路大震災でわかった。たまたま地震の7-8年前にこの家を購入した。展示会に行って奥様がとても気に入ったので、一番長く家にいる彼女が気に入ったならと購入した。地震で家は24センチ動いて傾いて止まった。家はつぶれなかったが全壊認定を受けた。
最初は家に籠城するつもりだったが、この家が一番危ないですよと人に言われ、娘たちが通る道沿いの家もいつ崩れおちてきてもおかしくない状態だった。その時知り合いの広島の女性が、強引にこちらに来なさいというのではなく、まだ一度も遊びに来てもらったことないですよね、と優しく誘ってくれたので、娘二人と奥様を預かってもらうことにして、鉄道は遮断されていたので、飛行機の切符を取って三人を行かせた。様子を見に行った時、下の娘はランドセルを用意して小学校に行かせてもらっていることを知った。とてもよくしてもらった。この時の恩返しのつもりで、3.11の復興構想会議で構想を練り上げた。
阪神淡路大震災の時の政府・行政の冷たさは繰り返してはならない。
それまであったものよりも良いものを造るなら、地元のお金でやりなさいと当時の警察出身の後藤田ドクトリーが立ちはだかった。
不合理なこと。官僚制が強いことを示している。
神戸港の復旧に後藤田ドクトリーが立ちはだかった。15メートルの新しい埠頭を造って国際競争力のある神戸港を造りたかったが12メートルの埠頭しか造れなかった。神戸港はその後釜山にも負けることになる。国際競争力のある神戸港を造れなかったのは日本全体にとっての喪失。
当時個人の家を建て直すのは自分ではやれないので助けてくださいと言っても政府に冷たく突っぱねられた。家という私有財産に対して国のお金は出せないと言われた。この3年後に私有財産に対して自然災害の時は300万円国が出すという法律がつくられた。
3.11の時は手厚かった。財政は阪神淡路大震災の時よりも厳しかったが、今を生きる世代が増税を受け入れて支えたから可能になった。
3党合意で25年間の増税を国民が受け入れた。どこがやられても国民全体で支える。これがなかったらこの列島に生きていけない。被災者は先ず逃げる。その先に復興がある。
3.11の時、列に並び互いに譲り合う日本人の姿が世界に称賛されたが、例えば1906年のサンフランシスコ地震の時には略奪が横行した。秩序を保つために当時の市長が警察官に射撃命令を出した。後で市長には射撃命令を出す権限のないことがわかったが、秩序を保つために正とされた。
阪神淡路大震災の時に2万数千人もの人が当日中に救助されたが、多くは民間の手による。神戸商船大学の学生が、一人の指揮をとる優秀な学生の下で長靴をはく、マスクをするなど装備を整えて集合し、当時中に100人を救助した。発生から72時間は生存率が高いと言われているが実際に高かったのは当日で80%。二日目以降はがたっと落ちる。自衛隊が救出したのは165人。初動がおそかった。
学生時代、ケチな人間になるなと教えられた。ケチな人間になるな=自己中を超えられないような人間になるな、ということだったと思う。
3.11の時、ボランティアである消防団員が254名犠牲になっている。
人を助けようとして犠牲になった人は多い。南三陸町で避難のアナウンスを続けて自分は津波の犠牲になった女性、中国人の従業員を先に避難させて自分は津波の犠牲になってしまった男性・・・。名取市で高齢の母親を連れて逃げようとしたが母親が自分はいいから逃げなさいと言うので苦渋の決断で母親を置いて逃げだ。後でなぜ自分だけにげたのかと責め続けた男性もいる。
阪神淡路大震災の時知事命令がおそかったから自衛隊の出動がおそかったというのは神話。知事命令が出る前の9時台には装備を終えていた連隊もあった。警察のパトカーの先導なしには現場に行けないだろうとパトカー一台の手配も終えていたが、道路はふさがれてしまっていて現場に行くことができなかった。自衛隊の方から現場に行かせてくださいと要請したのが知事命令ということになった。連隊長の自己判断で出動準備をした連隊もあった。後で処罰されることを考えなかったのかという自分の問いかけに対して、連隊長は自分が責任をとるつもりだったと答えた。自衛隊にはそういう訓示がある。
阪神淡路大震災の教訓が3.11で生かされてよかったこともどこかでお話しされました。
(別の機会に五百(いお)旗頭(きべ)さんより、自衛隊は阪神淡路大震災の反省を生かして、3.11の時には組織力で救出された人の約半分の一万数千人を救ったお話を伺ったことがあります。2011年6月都心の大学でのシンポジウムにおいてでした。)
「他の家族でなくて私でよかった」
昨年亡くなられた奥さんがすい臓がん(沈黙の臓器)の告知をされた時の言葉。あどれぐらいですか? そして、いつから悪かったのか?
告知された時の奥様から医者への質問。告知されたのは5月?6月?だったが、2月にお腹に違和感があるとして診察を受けていた。その時にはがんは発見されなかったので妻としては医者への抗議も込められている質問だったと思う。自分が一昨年神戸と東京と九州を一週間の間に行き来するような状況で生死をさまようぐらい具合が悪くなってしまった。その時にすでに悪かったのかもしれないというのが医者の答えだった。
最期は家で、家族みんなで看取った。娘たちがお母さんのために命のスープを作るんだと言って、新幹線でかけつけては競い合うように世話をしてくれた。最期は点滴をして口から黒いモノが出ているような状態になった。65歳は今の時代では短いが、家族のあたたかさの中で幸せな人生だったと思う。
悲嘆と復興
「個人の心の中のグリーフ・ワークと国や県が行うハードもグリーフ・ワーク。両方でグリーフ・ケアであることを知ってほしい」、と最後に高木先生からお話があった。