たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

茂木健一郎『「赤毛のアン」に学ぶ幸福になる方法」_人の価値を何で測るか・安全基地があるから、人は冒険に出かけられる

2016年09月22日 12時58分27秒 | 本あれこれ
「-人の価値を何で測るかー

 さてここで、もうひとり重要な人物が登場します。ブリューエット夫人です。彼女は、リンド夫人とはまた違うタイプの実際的な人として、二つ目の種類の人たちに分類されます。リンド夫人は現実的で常識的、実際的な手段で周囲を切り盛りしていくタイプの女性ですが、ブリューエット夫人はそれをさらに徹底したような人物です。リンド夫人はまだ、家族や友人、アンに対する愛情もちゃんと持っていますが、ブリューエット夫人にはそういう温かみはほとんどありません。彼女は手違いで孤児院から来てしまったアンを、マシュー、マリラ兄妹の代わりに 受け入れようと申し出る人です。余分な肉など一グラムもついておらず、小さくて意地悪そうな感じの女性で、自分じゃろくに働かずに人のことはこき使うのだという噂がたっている。

 ブリューエットのおくさんは、頭のてっぺんから爪先まで、じろじろアンを眺めまわした。
「年はいくつ? 名前は?」( 中略)
「へえ、あんまり肉づきがいいようには見えないね。だけど、体つきはしっかりしている。やせてしっかりしているのが、一番だそうだけどね。もしうちに来ることになったら、いい子でいてもらうよ。いい子で、機転がきいて、行儀よく。自分の食べる分はしっかり働いてもらうから、そのつもりで。

 そうですね、カスバートさん、この子をもらいうけましようか。赤ん坊が気難しくて 、その世話でくたくたなんです。そちらさえよろしければ、すぐにでも連れて帰りますよ」

 この場面からも分かるように、ブリューエット夫人は、人の価値というものを、自分の 役に立つかどうかということで 測ろうとする人物です。経済原理主義者と言ってもいいかもしれません。アンのことも自分にとって何の役に立つかということでしか見ていない。

 しかし、これは彼女に限った話ではありません。世の中というのはそういう価値判断で動いている部分があります。今の社会は、まさに人間の価値基準というものを、経済的、
あるいは仕事の上で役に立つかかどうか、ということでしか測らないようになってきている。ハウツー本が売れているという現象も同じ要因から来ていると言えるかもしれません。
何が何でも、社会にとって役に立つ人間でなければならない 、という脅迫観念みたいなものからみんなが買っていく。そのような社会は、ざまざまな弊害を生み出しています。

 たとえば、ひきこもりやワーキン グブアなどの若者は、社会の役に立つかどうかという価値基準によって評価され、その基準に合わないということで苦しい思いをしているのです。このように、人を役に立つかどうかという価値基準でのみ測ろうとする社会や個人のあり様は、幸福な生き方からは遠いと言わざるをえないでしょう。

  幸福とは、個人の主観の問題です。たとえば、たくさんの子どもに囲まれて幸せだと感じるか、それともやっかいだと感じるか。これは、まさに主観の問題です。先ほどのブューエット夫人は、子どもがたくさんいることをやっかいだと思うだけで、幸せなことだとは思っていなかった。こういう人は、幸福からどんどん遠ざかっていきます。幸せであることと、自分が人をどのような基準で評価するかという問題は、大いに関係のあることです。では、幸福になるための人への評価基準とはどのようなものでしょうか。

 それは、「人の価値を何で測るか」ということを考えた時に登場する、三人目の人物を見ることで分かります。つまり、マシューです。マシューとマリラのアンに対する価値の測り方そのものと言えます。つまり、人を手段として使うのではなく、その人自体を目的とするということです。最初、孤児院から子どもをもらい受けようと思ったのは、自分たちの農場を手伝ってくれる男の子を求めてのことでした。これは、人を手段として見るということです。ところが、アンという子どもの魅力に感化されて「あの子が私たちに何かしてくれるのではなく、私たちがあの子に何かしてあげられるんじゃないか」というふうに、考え方が変わっていった。これは、アンという存在自体を目的としているからこそ出てくる発想です。

 これは、幸福になるための人事なテーマです。これを、仕事に当てはめても同じことが言えるのではないでしょうか。仕事を、生活費を稼ぐための手段として仕方なくやっているんだと思っているうちは自分自身もつらい。けれども、仕事をすることそのものを目的とすると、それ自体が喜びの泉となる。言い換えれば、働くことの中にどんな小さなことでもいいから喜びを発見し、働くこと自体を楽しむことができれば、その人の人生は幸福なものとなっていくのではないでしょうか。




ー安全基地があるから、人は冒険に出かけられるー

 アンは、グリーン・ゲーブルズに受け入れられて、自分の家を持ちます。そこで、はじめて 安心できる場所を得ました。これは、とても大切なことです。人は、安心できる場所が確保されないと、不安につきまとわれてしまう生き物だからです。そして、その不安は徐々に、ネガティブな感情を呼び寄せてしまうこともあります。ネガティブな感情に支配されると、新しいことにチャレンジしようという意欲が湧かなくなる。どうせ、新しいことにチャレンジしても失敗してしまうだろう、という負の回路が脳の中で出来がってしまうからで す。そして 次第に、何をするにも引っ込み思案になっていってしまう。それが積み重なっていくと、他人とのコミュニケーションがうまくいかず、さらにストレスや不安が増していく、という悪循環に陥ります。


「一寸先は間」という言葉があります。この格言が示すように、人が生きていくということは、何も見えないということなのです。先のことは、全くわからない 。人生、何が起こるか予想できない。だから人は、誰もが失敗を恐れ、生きていくことすら恐れるようになる。しかし、生きていくことが不安なのは、誰だって一緒です。

 そうで あるならば、いきいきと生きていくためには、新しいことにチャレンジし続けるしかないのです。歴史を振り返ってみても、不確実性の中に身を置くことで、新たな発見や発明はなされてきました。

 では、どうすればネガティブな感情から抜け出すことができるのでしょうか。それは、子どものころを思い出せば分かると思います。子どもの頃は、見るもの、触れるもの、そのすべてが初めてのことばかり。まさに、不確実性の中を生きている状況です。けれど、その 状況に対して不安は抱かなかった。むしろ、初めての経験に目を輝かせ、好奇心とチャレンジ精神でいっぱいだったことでしょう。 どうして、子どもの頃は、不確実性の中にいても不安を感じなかったのでしょうか。どうして、失敗しても果敢に次ヘチャレンジできたのでしょうか。それは、多くの場合、父親や母親という保護者が作ってくれていた心理的な「 安全基地(secure base」があったからです。

「安全基地」とは、何かがあったときに、いつでも逃げ込める場所のことです。外の世界でどんなにつらいことがあっても、新しいことにチャレンジしてうまくいかなくても、安全基地に帰ってくれば、そこにはいつも自分を守ってくれる親がいる。その安心感が子どもの心の支えとなって、子どもたちはまた、新たな冒険に出かけて、自分の世界を広げて行くことができるのです。

 この安全基地は、ネガティブな不安から解放されるため、そして、新たなことにチャレンジするためには、大人にとっても必要なものです。ただ、大人にとっての安全基地は、年老いていく親とい うわけにはいきません。確かに、恋人や夫や妻は心の支えではありますが、全面的に頼ることはできません。子どものときのように 自分のことを絶対的に守ってくれる人はもはや存在しないのです。 では、どこに安全基地をつくるのか。それは、今まで 生きてきた経験や知識、スキルをもとにして、自分自身が新たな安全基地になるしかないのです。しかし、子供のころの安全基地と違うところは、そこが逃げ込む場所ではなく、自分の経験やスキル、知識を武器に社会の中で戦っていく場所としての基地だということです。」

(茂木健一郎著『「赤毛のアン」に学ぶ幸福になる方法』、2008年12月12日第一刷発行、講談社文庫、95-114頁より抜粋して引用しています。)


 モンゴメリさんは、シャーロットタウンのクリーン学院へと旅立っていくアンを汽車で見送ったあとのマシューにこう語らせています。

I don,t believe it was any such thing.
It was Providence,because the Almighty saw we needed her,I reckon.’

「しかし、これは運の良し悪しなんてものじゃない。神様の思召しだ。思うに、全能の神は、わしらにはあの子が必要だとご覧になったんだよ」

(松本侑子訳『赤毛のアン』講談社文庫、401頁より。)


 幼いころは両親がわたしにとっての安全基地でした。両親がわたしという存在を必要として大切に育ててくれたから今わたしはこうしてどうにかこうにか自分の足で立っていることができるのかもしれません。同じ両親のもとで育った妹はなぜいなくなってしまったのか。その答えはどこにもないことを抱きしめながら、これからわたしは自分自身を安全基地として生き延びていきます。とってもしんどいことですが、自分を信じる気持ちを大切にしていきたいです。父も母もふいにいなくなってしまった今、茂木さんの著書を読み返しながら、こんなことを思いました。

 社会から孤立したまま労働紛争で闘いズタズタにすり切れてどうにもならなかった二年間。ややこしい状況を人に話してもなかなか理解されず、やめなかった自分が悪いと言われ、社会のどこからも必要とされず、自分は社会の中で何の役にも立たない人間なんだと思わされざるを得なかった二年間。本当に苦しかった。それらは茂木さんが書かれているように、経済的合理性という物差しで社会から測られ、わたし自身もまた自分をそういう物差しでしか測ることができなかったということだと思います。(ハケンなんていう人を商品化した仕組みは、人を経済的価値のみで判断する最たる仕組みでわたしには合っていませんでした。ほんとに)。人の心の営みは、物差しできっちりと測ることができない、もやもやとヴェールに包まれたようなもの。生きていくということはもやもやとしたヴェールの中を手探りしながら歩き続けていくということ。それを許さない社会はわたしには息苦しくてなりません。

『赤毛のアン』は現代を生きるわたしたちに、本当にそれでいいんですかと問いかけてくれている深い作品なんだということもあらためて感じました。目の前の利権にしがみつくことしか考えていない人たちにこそ読んでほしいです。残念ですがそんな人世の中にいっぱいいます。ブリューエット夫人が社会の中にはたくさんうごめいています。


「赤毛のアン」に学ぶ幸福になる方法 (講談社文庫)
茂木健一郎
講談社

イエスの言葉を読む「ヨハネによる福音書」編より(3)

2016年09月21日 20時10分11秒 | 本あれこれ
2016年9月4日のこちらの記事の続き。

「イエスの言葉を読む「ヨハネによる福音書」編より(2)」
http://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/f7699e86e168b5ca6baada8069bf77f5

4月9日の、カルチャーセンターでの若松英輔さんの講座より少しつずつ書いています。



「われわれはみな、
 この方の満ち満ちた豊かさの中から、
 恵みの上にさらに恵みを受けた。
 立法はモーセを通して与えられたが、
 恵みと真理は、
 イエス・キリストを通してもたらされた。
 神を見た者は、いまだかつて一人もいない。
 父のふところにいる独り子である神、
 この方が、神を啓示されたのである。
  (「ヨハネによる福音書」1・16-18)

 そして、ヨハネはこう証言した、「わたしは、霊が鳩のように天から降(くだ)り、
 この方の上に留まるのを見た。わたしもこの方を知らなかった。
 しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、こう仰せになった。
 『霊がある人の上に降って留まるのを見たら、その人こそ聖霊によって洗礼を授ける者
 である』と。
 わたしはそれを見た。それでわたしは、この方こそ神の子であると証ししているのである。

  (「ヨハネによる福音書」1・32-34))」(レジュメからの引用)



若松英輔さんのお話からメモったこと。


神はイエスとして現れた。
神の言葉=肉体の魂。我々の魂の空白を埋めてくれる。
宗教は言葉。

イエスは殆ど洗礼を授けていないが、ヨハネから洗礼を受けている。
洗礼=神の門を通る。他者に授けてもらう。

信ずる=他者に向かって開かれていく。

 


  


 


イエス伝
若松 英輔
中央公論新社

わたしが歩き続ける

2016年09月21日 14時19分01秒 | 祈り
今日は妹の命日。自死遺族となって23年が過ぎました。
自分を責めるときをずいぶん長く過ごしましたが今は心静かに祈りつつ、わたしが歩き続ける。妹の自死はわたしの体の一部だから。一緒に生きているから。
悩み苦しみ、のたうち回りながら、なにかをなせるわけではないけれど、歩き続ける。ゆっくりと・・・。ただそれだけ。

**********************

若松英輔 ‏@yomutokaku 16 時間
16 時間前

早く歩けと世の中は言う。だが、どこへ行けとは言わない。行先を知らないからである。どうしてそんな声に耳を傾ける必要があるだろう。今日一日を生きているだけで人は、十分に偉大である。その意味と重みを忘れた者の声に従って一体どこへ行こうというのか。歩け、それもゆっくりと歩け。



明日は土曜日なり・・・?!

2016年09月20日 22時43分15秒 | 日記
 三連休明け。最寄り駅からの電車も乗換駅からの電車も遅延で、いつもと同じように早めに出たのに出勤はぎりぎりとなってしまいました。悔しい。ちょっと遅れがでるとホームで電車を待つ人がたまりすぎて電車に乗ることができないとはいやはや。乗換駅の乗り換えは時間かかるし、ちょうどいい時間の電車がないので一本逃すと間隔があいてしまってなんだかほんとに大変。あーあ、なんだかすっごいローカル線の駅のような気分。朝の一分、二分は大きいです、ほんとに。車通勤だとこういうことないんでしょうね。連休明けで出勤したばかりですが明日は土曜日でお休み。今度は二連休。明日は出勤していいので本当の土曜日に休みたいよう。切なる願い。また曜日の感覚がおかしくなるし、体のリズムがくるうし、来週と再来週が長くってしょうがない。こんな土曜日がまだあと七回もあります。まだあと七回もあると思うか、もうあと七回しかないと思うか。なんとなく年末のゴールがちらちらっと見え隠れし始めているので誰の頭の中にも、「次どうしよう、ないよね」がよぎり始めているようです。わたしには、また社会から孤立するつらい日々が待っているだろうと思います。家賃あるし、12月初めのマンションの契約更新をどうするのか。勤務先書かなければなりません。昨年度の収入を証明するものを万が一大家に出せと言われてもないので出せないし、どうすればいいのだろうと思いながらなんにも考えられません。12月初めに今の勤務先を記すことは嘘を書くことにはなりませんが、その先も続いていくわけではないのでどうしたものか。はあっ。

 一昨日はフォーウインズのセミナーに参加してきました。W先生が私の顔を見ると、「あら、あなたがんばってるわね」と声をかけてくださいました。とってもあったかい事例検討会。ほんとうに人は色々で、さまざまな家族模様、人間模様ありです。幼いいのちが必死に生き延びていこうとする姿が思い浮かんでくるような心うごかされるケースでした。今の業務でもこんなことあるんだなあ、こんなご家族もあるんだということに出会ったりするので、専門家として仕事をしているわけではないけれど全く何の役にも立たないというわけでもなく、こうした事例検討をとおしてより深い思いになっていくわたしで接することによって、直接的にはなにもなくても、事務手続きを進めながら、心の中でこのお子さんが幸多き人生になるようにと祈らずにはいられないような時があり、そんなわたしの思いが伝わればいいなと思ったりします。わたし、専門家として仕事をしているわけではないし、これからもすることはないかもしれませんがセミナーには参加し続けたいと思いました。そこにどんな意味があるかなんて考えません。意味なんかあってもなくてもいいです。何ができるわけでもありませんが、参加し続けるつもりです。ただせっかくPSWに合格しているし、今までの色々な経験が生きてくるような道はないものかという想いもよぎります。わたしにできること、ほんとうにないんでしょうか。やるべきことはないんでしょうか。自分で何かを立ち上げていくことできないしょうか。その前にまだまだ断捨離。もう少しすっきりしたいので明日もがんばろうと思います。今夜は台風だし、明日お隣は通常営業でしょうから足音で目がさめると思います。眠いのに出勤日は起きなければのプレッシャーからか早く目がさめてしまいます。色々と落ち着きません。

 明日は妹の命日。23年が過ぎようとしています。心の中で祈るのみ。わたしが生きるのみ。こうしてグチりながら、弱音を吐きながら、七転八倒しながら生きるのみ。


以前にも載せている写真ですが、久しぶりに春のプリンス・エドワード島。



秋のプリンス・エドワード島。




旅の思い出写真_ロマンティック街道_ヴュルツブルク_レジデンツ

2016年09月19日 22時20分24秒 | ドイツロマンティック街道とスイスアルプス
ドイツ・ロマンティック街道とスイスアルプス・パリ9日間の旅。
順路通りに書けていないのでわかりづらいですが、日程としては下記の続き。

2015年5月24日の記事。
旅の思い出写真_ロマンティック街道・ヴュルツブルク。

http://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/365106718453207fc025f76bef4211c2

 旅の三日目。ライン川クルーズを楽しみ古城ホテルに宿泊した翌日。2007年10月22日。ロマンティック街道の出発点・ヴュルツブルク市内のマリエンベルク要塞と世界遺産のレジデンツを見学しました。

 なんだか本当にようやくこうして少し落ち着いて振り返ることができるようになってきたのかなあという感じです。でもまだまだぐちゃぐちゃですけどね・・・。

 この頃はデジカメを持っていなかったので写真少ないし、あっても使い捨てカメラで撮ったものなので全くたいしたことありませんが、振り返りながらふとフランクフルトの空港からバスで最初の宿泊地バート・クロイツナハというホテルに着くまでの道のり。高速道路沿いの黄葉がキラキラと輝くように美しかったことを思い出しました。空は晴れ渡っていました。こんなにきれいに色づいた黄葉にタイミングよく出会えるのは珍しいことだという添乗員さんの説明があったと思います。ホテルに到着したあと、近くをひとりでぶらぶらとしていたら公園がありました。夕暮れの公園もまた黄葉で美しく輝いていました。公園中に黄色い絨毯が広がっていて、歩くとカサコソと深い秋の音。10月下旬でしたが、ヨーロッパなので日本の12月半ばぐらいの気温。ぐっと寒くって震えながらもわたしの心は静かに浮き立っていました。ようやくこうして旅に来ることができた喜びに満たされていました。ここまでの長かった道のりを思うと、鮮やかな黄葉に包まれながら涙が出るような心持ちでした。写真はありませんが、わたしの心のアルバムに、公園を一人で歩いた幸せな時間は刻まされています。ほんとうに幸せでした。最初の夜はツアーに食事が組み込まれていませんでした。ホテル周辺の店でもホテルでも食事に入るだけの勇気がなく、レトルトなども持って行かなかったので空腹のまま眠ることになったのが失敗。その後旅に出るときは湯沸かし器とレトルト食品は必ず持参するようになりました。

 
マリエンベルク要塞。入口の門。見張り番の顔にぎょっとします。




世界遺産のレジデンツ。



お仲間が映っちゃってますが、顔が出ていないから大丈夫かな。

「ロマンティック街道の北の起点ヴュルツブルクは、マイン川の両岸に開けた教会の多い古都である。8世紀から司教座がおかれ、権勢をふるった歴代の司教領主のもとで町は発展した。

 おいしいフランケンワインのふるさととしても知られ、ヴュルツブルク中央駅の手前の線路ぎわにまでぶどう畑がひろがっている様子が見られる。

 日本とのつながりも古い。長崎の出島で活躍した医師シーボルトは、この町に1796年に生まれ、医学を学んだ後、鎖国中の日本に赴任した。

 1582年創立のヴュルツブルク大学は、過去に5人のノーベル賞受賞者を出している。なかでも1895年にエックス線を発見し、第1回ノーベル物理学賞を受けたレントゲンの名は世界中に知れ渡っている。」

(『地球の歩き方―南ドイツ―’07-’08』より)。

ヴュルツブルクの街並みの写真を一枚ウィキペディアよりお借りしました。





ドイツ名には「ブルク」がよく出てきます。

モーツァルト生誕の地はザルツブルク。

ザルツ=塩 ブルク=砦・城、という意味だそうです。

現在『エリザベート』でフランツを演じている田代さんがブログで書かれています。
田代万里生オフィシャルブログ、「フランツ₌ヨーゼフ紀行④日目」より。

http://ameblo.jp/mario-capriccio/page-8.html

父とのお別れ

2016年09月18日 19時14分07秒 | 祈り
「2010年9月17日(金)有給休暇

 午後2時22分父が亡くなる。
 母のため、Kクリニックに行っていて待ち時間が長いので抜け出した。その最中だった。

 (わたしと弟が来るのを待っていたかのように、病院について見守っているとみるみる
 心拍数が落ちていきました。最期はゼロに。旅立った父の目には涙がにじんでいました。 最期までがんばりました。
 前日の夜、危篤状態に父に一生懸命呼び掛けました。「お父ちゃんどうしたんや」
 酸素マスクをした父が目を見開いてわたしを見つめた瞬間がありました。
 わたしが来ていることを認識できたと思います。

 お別れの前日、主治医にレントゲン写真をみせられるまで、父が若い頃結核を患ったこと
 を知りませんでした。長い間親子だったのに知りませんでした。黒い肺で何十年も生き続
 けた父の生命力に驚愕しました。


 娘に先立たれた父の人生は幸せだったのか。
 「幸せな人生やったか?」
 旅立っていこうとする父の顔をさすりながら、わたしは繰り返し繰り返し問い続けまし  た。枕元には私の部屋においている妹の写真を連れてきて置いていました。 

 最期を看取った弟とわたしはなにをすればいいのかわからず茫然としていました。
 看護士さんが旅立った父の身支度を整えてくれている間、近所に住んでいるおじさん
 (母の兄)に電話を入れるとすぐに駆けつけてくれました。
 そして最初にやってくれたのが火葬場の手配でした。
 そうなのか・・・。
 
 それから葬儀社の手配、医師の死亡診断書をもって役場で埋葬許可証をもらうなど怒涛の ようにやることがありました。茫然としながら、こういうことをやらなければならないの
 は大変なことでした。のちに母とのお別れのときに知ることになりますが、医者は死亡診
 断書に死因を書かなければならず、医者の目の前で亡くならなかった場合死因を特定する
 ための時間が必要になります。自宅で亡くなった母の亡骸は警察によっていったん総合病 院に運ばれ全身CTスキャンをかけられました。まずは事件性をうたがうのは警察の仕事。
 そこで医者によって死因が特定され、数時間後に母の亡骸は家に帰ってくることができま
 した。

 夕方、病院の安置室からカイシャに電話を入れました。亡くなったこと、翌週の水曜日ま
 で休むことを課長に告げました。それから車の手配がつくと、母をあまり刺激してしまわ ないだろうかと心配しながら父の亡骸を家に連れて帰りました。)

 2010年9月18日(土)

 通夜。

 (母はいつも通り過ごせるようにそっとしておきました。カウンセラーのY先生に相談し  て、病院に無理矢理連れて行くこともしなかったし、通夜・告別式は弟が喪主となって行
 いました。父が旅立ったことを認識できなくてよかったと思います。ただ母が好きで好き
 でたまらずに結婚した人の最期を看取ることができないのは、わたしの中でなんとも切な いものがありました。夜、弟は葬儀場に泊まり、私は母のいる家に帰ってなんとか眠りま した。弟は一睡もしなかったようでした。)

 2010年9月19日(日)

 告別式。


 (火葬場で妹の時はここだったなあと鮮明に思い出されました。お骨だけになってしまう
 となんだか夢をみているような心持ちでした。夕方には初七日がありましたが、もう亡骸
 がどこにもないのでいなくなったという実感がなくなりました。でもたしかにもうどこに
 も父はいないのでした。)


 2010年9月20日(月)敬老の日。

 (家の中に)残った父の洋服や散らかったタオル、引き出の毛布等片づける。

 (戦前のモノがない時代に育った父は色々なモノをため込んでいました。下着やら洋服や ら安いものがあると買い込んでいたようで、ものすごい量でした。もらいものなどもたく
 さんありました。残酷だと思いながらそのほとんどとお別れせざるを得ませんでした。つ
 まりビニール袋に入れてごみに出すということ。持ち主がいなくなるモノはただのゴミに
 なっていくのだと知りました。悲しいことですが、持ち主がいなくなればお別れしていか
 ざるを得ません。ビニール袋の中に入れたモノの中にはわたしが父の日や誕生日に贈った
 モノもあったと思いますが考えないようにしました。)


 2010年9月21日(火)有給休暇。

 (ハケンには忌引き休暇とかありません。有給休暇のなかで休むだけ。ハケン会社にはな
 にも連絡しませんでした。タイムシートの有給休暇の欄にチェック入れて、備考欄に忌引 きと書いただけ。わたしの雇用主であったハケン会社にはなんにも関係ないことなんだと
 よくわかりました。)

 役場へ死亡届提出。母の遺族年金の届け出用紙をもらう。銀行で必要書類確認。
 Kクリニックをあらためて弟と受診。
 役場で家屋は未登記であることが判明。
 夕刻社会福祉センターに行って母の介護保険申請。

 
 2010年9月22日(水)有給休暇。

 AM10時。介護認定調査。
 PM15時初の往診。午前中の疲れもあってか拒絶反応が起きてしまった。薬によって統合失 調症の症状が落ち着いているという診断だった。先生に慣れるのに時間がかかりそうだ。

 夕刻、疲れ果てて自分の部屋へ戻る。


 2010年9月23日(木)秋分の日。

 整骨院に行く。一週間ぶりに落ち着いて眠った。

 なんとなく悲しみがジワジワッときている感じがしてきつい。そんなに簡単に受け容れら
 れることではない。ゆっくりと向き合えばいい。なんだか疲れちゃった。仕事のあること がこういう時は有難い。忙しさが私を救ってくれる。明日は会社行くよ。
 今日お彼岸なんだなー。妹のこともまたぐわっときてしまう。こういう辛さと私はこれか
 らも向き合っていかなければならない。


 2010年9月24日(金)

 出社。お香典を集めてくれていた嬉しかった。」


落ち込み・・・

2016年09月17日 21時50分16秒 | 日記
 歯医者さんに行ってみたら思ったよりも大変なことになっていました。金属の型が外れてからすぐに行かなかったのがいけなかったし、歯磨きが十分じゃなかったので外れてしまったということでした。知り合いの旦那さんがやっている歯医者さんでとってもよくしてくださってありがたいかぎりですが、あたらしく型を作り直すために一日分の給料より多い費用がかかることに・・・。払えないわけではないですが、ストレスに耐えながら一生懸命に働いていると、時間的にも心的にも余裕がなくなって、結局こういうことになるのかと思うとなんだか哀しくなってしまいました。わたし、前職のカイシャの完全オーバーワークの代償として歯がボロボロになってしまったんです。ストレスと空調アレルギーと疲労などなどで喉と鼻がやられて、カイシャにいる間ずっとのど飴をなめる日々を続けていたら虫歯だらけの金属だらけになってしまったんです。なんだかね、体を削るようにして一生懸命に働いてもいいことないですね。そう考え始めたらすっごく気持ちが落ち込んでしまいました。わたしなにやっているんだろう。あんなに心身をすり減らすように一生懸命に働かなければよかったと思います。こんなことやってられるかー、これ以上やれないよー、って机ひっくり返して暴れたいと何度も何度も思いました。そんなこと実際にやったらかなり危ない人なのでセーブしましたけどね、辞めると言い出すタイミングを逸してしまった自分、ほんとばかだったと思います。何度も何度もタイミングはありました。3.11のあともすごく迷いました。でも、生活という人質があるから、とうとう言えませんでした。そしたらただの使い捨て。どうせ使い捨てるならもっと早い時期にしてほしかった。正規雇用でもないのにさんざんあてにされて、頼りにされてやっているうちにずるずると続けてしまって、でも上はどんどん変わっていって結局だれもわたしの雇用に対して責任をもたないまま、いいように使われるだけ使われて年くってから何の補償もなく放り出された。年くったから放り出された。わたしが仕事をこなしてしまうのをいいことに使うだけ使ってきたカイシャにはなんの責任もなし。なにも残りませんでした。残酷なりや。今もね、まだ自分の中にどうやっておさめればいいのかわからなくってケリがつきません。だいぶついてきてはいるけれど心の血と汗と涙を流しながら心身を削って働き続けた日々はかんたんにケリがつきません。自己責任だけなのか、社会の仕組みはそうなっているけれど、なんで自己責任だけなのか、その方がカイシャにとって、巨大組織にとって都合がいいからですが、一人一人の人生なんてどうでもいいんだなって、一般PEOPLEの認識よりもはるかに社会はグレーなんだなってわかって、どうすりゃいいのさ。気力が失せました。だらだらとネットみています。明日も明後日も休みでよかったです。なんかね、今の業務も無理して続けて、だからどうなんだろうって思ってしまいます。終わったらお休みしたいな。遺品整理と断捨離やりたい。すこし旅にも出たい。一生懸命働いたってしょうがない。家に帰ろうかなという思いがよぎります。

 父の命日。裏山がほんの少しばかり秋色に色づいていることに気がつきました。

 休日だし、他のこと書くつもりでしたが、いつもと同じ長々とつぶやきのグチ日記になってしまいました。明日はフォーウインズのセミナー。気力うせていますがお金払っているから行かねば。W先生のお顔をみるとまた元気も出るかもしれません。麻酔がきれてきて治療したところが軽く痛みます。

 心のアルバムに刻まれた2013年レミゼ帝劇凱旋公演。千穐楽の舞台を観ることができたのは大感激でした。「一日の終わり」という、一日一日を生きるのびることに必死だった市井の人々の声を歌にした曲があります。英語では「The end of the day」。あらためてかみしめたいです。(レミゼの観劇日記は、ミュージカルのカテゴリーにあります。)


なんとか週末_今日もまた一日が・・・

2016年09月16日 22時51分18秒 | 日記
 なんとかようやく週末にたどり着きました。今日もまた一日が終わり、無事に残りの稼働日数が一日減ることとなりました。帰宅後夜ごはん食べながらだらだらとツィッターをみて息抜きしました。長い、ほんとに長い。はあっ! なんだかすごく疲れました。月曜日に有給休暇を取ったのでなおさら長く感じたのか、それとも5日間フルよりも短く感じたのか自分でもよくわかりません。とにかく長い。来週は祝日があるので3日勤務ですが土曜出勤あります。その翌週がほんとに長いです。ぞっとします。休みが続くあとになおさらきついです。まだ七回も土曜出勤あります。今は考えない、考えない。

 秋分の日の祝日って22日なんですね。そうでしたっけ? 23年前、妹の旅立ちが21日、お通夜が22日、お葬式が秋分の日の23日だった記憶があります。月曜日を祝日にして連休にするために、毎年祝日が変わるようになったのでよくわからなくなってしまいました。これもよし悪しです、ほんとに・・・。

 朝夕は涼しくなったのに昼間はムシムシ。まだまだ暑いので電車の中やお昼を食べるカフェの冷房がキンキンなの、体にこたえます。ほんとに厳しい夏。夏の終わり。秋の始まり。早くクリスマスにならないかなー。早くクリスマスになれー。今はとにかく一日も早く終わりがきてほしいです。その次に働きたいところなんてどこにもなくって、必死に書類を送りたいところもなくって休みたいばっかり、断捨離したいばっかり。既存の仕組みにしがみつくよりも新しく自分で何かを創り出していく時なんでしょうね。そんな綺麗ごとでごはんを食べていくことは到底できませんがそう思います。あんまり具体的に書けませんが、たとえば昨年の秋、区役所で紹介されて自分でも面白そうな仕事だなと思って応募してみたところ。作文の試験のパスする人のなかに選ばれて、面接に進んで、感触は悪くなかったように感じました。少しばかり期待してしまいました。しばし気持ちが盛り上がりました。でも結果はお祈り通知。たぶんですが出来レースだった可能性大だと振り返ってみて思います。だって他の、面接に進んだ人たちの顔ぶれを見ても選ばれるにふさわしいようにはみえませんでした、わかりませんけどね。なんとなく耳に入ってくる話では、かたちだけは一般募集しなければならないので、ハ〇ー〇ークに求人を出すけれど、実際には経験者に声をかけて人はすでに決まっていたりする。ハ〇ー〇ークから紹介される全く知らない人よりも経験者にやってもらった方が安心。でもかたちだけはやらなければならない。そういうケースが多いような・・・。そういうことだったのか。これから自分はどこでどうやって自分にごはんを食べさせながら生きていけばいいのだろう。

 明日は父の命日。21日は妹の命日。心静かに祈ります。歯医者行って、日曜日はセミナー行って、あとは断捨離と読書と英語を少しやれたらいいかな。実家との往復もあったし、疲れました。この夏が一日も早く終わってほしいです。

 今日も長々とつぶやき日記でした。
 清史郎君の笑顔が疲れを忘れさせてくれます。2013年『レ・ミゼラブル』帝劇凱旋公演のオープニングセレモニー。写真はお借りしています。

 

中秋の名月_今日もまた一日が・・・

2016年09月15日 22時28分13秒 | 日記
 今日もまたなんとか無事に一日が終わりました。本来の業務と本来の業務ではないことと並行しながらの一日。ローテーションの時間交代のタイミングに合うように本来の業務ではないことを終えるようにしなければならないし、いつ本来の業務に戻らなければならないかわからないし、残業にならないようにしなければならないし、なんの達成感も得られずただ目がちかちかしてくるだけのような業務に、すっごい疲れて一日の終わりは笑うしかありませんでした。帰りの電車の中で涙が出てしまいました。思い起こしてみれば、前職のカイシャでは二つどころか五つも六つも、いやさらにそれ以上の業務を同時並行でいつもやっていました。頭の中には常に同時にいくつものことがあって、あっちのスィッチを入れたりこっちのスィッチを入れたり。あっちのスイッチを入れながら、こっちのスィッチのことも、さらにあっちの隣のスイッチのことも考えながらやっていました。完全オーバーワークの毎日。疲れ果てて一日の終わりにはいつも涙が出てしまっていたような記憶があります。そんな日々がどれだけ続いたでしょうか。いやあ、人件費削減、経費削減、数字数字ばっかりで、肝心なところでお金をけずり、一方ではすっごい無駄使いばっかり。そんな矛盾を一身に背負わなければならなかった日々のつらさと怒りを今もまだ体が覚えています。忘れることができるまでにはまだまだ時間が必要みたいです。無理して忘れようとも思わない。吐き出すだけ吐き出したらいつかおのずと忘れていけるのかもしれません。

 昨夜も12時頃に就寝。夜中にどうしてもお手洗いで一度目がさめてしまいますが、そのあとは熟睡。明け方夢をみていたようが気がします。そして6時少し前に目がさめてしまいました。あんまり眠れないのは年を取ってきたからでしょうか。眠るのにもエネルギー使います。こんな年になるまでわかりませんでした。夜更かししないとその分だけ体は楽ですね。前職では毎日2時ごろ就寝して7時に起きて出勤していました。今では考えられません。無事でよかったです。

 今日は中秋の名月。お彼岸の入り。23年前のことを思い出さないではいられませんが、今日は書きません。ただ安らかに眠りながら見守り続けてほしいと祈るのみ。休んだ後の出勤は長いです。再来週とその次はさらに長いでしょう。今から考えない、考えない。前の下の歯の虫歯を抜いて金属をかぶせているところが取れてしまいました。歯医者にも行かねばなー。明日一日はこの状態で我慢するしかありません。明日の夜退社後はかかりつけの内科に行きたいし、どうしよう。土曜日に、近場でも電車乗るのしんどい。またひきこもって断捨離したり、本を読んだり、ブログを更新したり、あれやこれや。三連休ですね。日曜日はフォーウインズのセミナー。翌日も休みなのは嬉しいです。明日は6年前、父危篤の報を受けた日。早いものです。心静かに祈りたいと思います。9月はお別れの季節。わたしはただ生きるのみ。ただそれだけ・・・。

 清史郎君のさわやかな笑顔と共に今日も長いつぶやき日記でした。


今日もまた一日が・・・

2016年09月14日 22時26分28秒 | 日記
 今日もまた一日がなんとか終わり、残りの稼働日数が一日減りました。はあっ! 限りある人生の時間をこんなふうに早く過ぎていくことを願いながら過ごすなんて本当にもったいない、一秒一秒を惜しむように過ごしたいですが残念ながら今は少しでも早く12月28日になってほしい。過ぎてみればあっという間ですが長くって長くって仕方ありません。帰ってからツィッターをだらだらとみるような時間も息抜きに必要かな。頭を使わずにすみますからね。正直ベースで話せる人による、他の就労場所でも威張ったオバチャンがいて大変なことに変わりはないようです。怖いモノ知らずのオバチャンの自分勝手さは半端なくどうしようもない。全く自覚がないのだからこちらが我慢して合わせていくしかない。合わせるのごめん、合わせられないですが。どこでも誰とでも合わせてやっていけます、って言えないわたしはダメなひとなんでしょうか。よくわかんないです。ちょっと先になると思いますが、公式にヘルプとして他の就労場所に行ってみることになりそうです。ずっと今の場所にいるより少しは気分も変わるのか。でも、人が辞めてしまって定員が足りないからヘルプがきているらしいので、どうなんでしょうかね。たぶんさらに強烈なボスザルが何人かいそうです。ボスザル同士がいがみ合っていたりして・・・、ああ、おそろしや。定員割れ状態っていわゆる人間関係以外にたぶんありえません。さらにすっごいオバチャンいるんでしょうね。わたしにとって近いということが行ってみようかと思う理由のひとつですが、それよりも今の環境はつらくって。でも他に行けばさらにつらい。同じ内容の業務でも就労場所によってかなりやり方が違うようなので即戦力にはなり得ないし、できあがっているところへ人の顔と名前もわからないままポンと入っていくのは本当に大変なこと。今回はあくまでも頼まれていくお手伝いなので、それほどひどい扱いは受けない。人間関係の渦に巻き込まれないですむと思いたいですがどうでしょうか。責任者が来週様子見に行くそうなので、それである程度状況がわかります。あんまり大変そうだったらやめようかな。一日行ってみて無理そうだったらもう行かないという選択肢もありだそうです。とにかく一日が長い。他に行って一日が早く過ぎていくならそれでいいです。オバチャンたちとのおしゃべりタイムが苦手で仕方ない。だったら接遇の時間の方が長くって契約書通り本来の業務をやっているほうがまだマシだと気付いた次第。裏作業でしゃべり出したらとまらないオバチャンに色々と言われながらいるよりマシだと気付いた次第。おしゃべりスィッチが一度ニュートラルに入ったら止まらないのほんとうにすごい。これからもこういうたぐいのオバチャンに遭遇せざるを得ないんでしょうね。わたしはこれ以上どこでも勤められる自信がないです。まあその前に年齢でアウト、行くところありませんけどね・・・。実家で弟が作ってくれたカラーはうまかったです。終わったら少しゆっくりしたい。遺品整理もやりたい。明日は彼岸の入り。妹の旅立ちを送り出したのは、1994年9月23日のお彼岸でした。お月見はただただ切なくなります。自分を責めるでなし・・・。「答えのない問いかけは続ていく」の記事、昨日のベストテンでした。ありがとうございます。

 忍たまな清史郎君のお写真と共に、長々と今日もつぶやきのグチ日記でした。