たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

「大草原の小さな家」への旅_ミズーリ州マンスフィールド_石の家&教会

2020年04月04日 20時16分57秒 | 「大草原の小さな家」への旅
ジャーナリストだった一人娘ローズが当時よく売れた小説によって得た収入で年老いたローラとアルマンゾのために買った石の家。ローラとアルマンゾが建てた家のある広大な敷地内にありました。
電気が通り、近代的な設備、高価な家具が備えつけられていましたが、二人は8年間暮らしたあと最初につくりあげた木造の家に戻って最期を迎えました。居心地の良さでは最初の家に叶わなかったこと、中に入って感じた空気で納得しました。
たしか開かずの間があり、少し怖さを感じた記憶があります。






ローラとアルマンゾのお葬式があげられた教会は今はなく、新しく建て替えられた教会の外観のみ見ることができました。










「ローラ・エリザベス・インガルス・ワイルダー ( 英語 : Laura Elisabeth Ingalls Wilder, 1867年 2月7日 - 1957年 2月10日 )は アメリカ合衆国 の 作家 ・ 小学校 教師 である。」
 (Wikipediaより)

 90年を生き抜いたローラの人生に触れることができた旅でした。2013年9月の旅、いくつかの意味でかなり無理しましたが、この時を逃していたらこの世にいる間に訪れる機会はなかったですね。

『Little House on the Prairie』より

「Going West

 In the night a strange noise wakened Laura.

It sound like a shot,

but it was sharper and longer than a shot.

Again and again she heard it.

Mary and Carrie were asleep,

but Laura couldn,t sleep until Ma,s voice came softly through the dark.

“‘Go to sleep,Laura,” Ma said.

“‘It,s only the ice cracking.”



  Next morning Pa said,“‘It,s lucky we crossed yestetday,Caroline.Wouldn,t wonder if the ice

broke up today.We made a late crossing,and we,re lucky it didn,t start breaking up while we were

out in the middle of it.”

“‘I thought about that yesterday,Charles,”

Ma replied,gently.」

苦悩していた日々を思い出す_実習記録ノートより(13)

2020年04月03日 20時39分01秒 | 祈り
「平成18年11月24日(金) 晴、10日目

 10日目を終えた。いろんな不安と葛藤を持ちながらのぞんだ実習である。こんな自分を受けいれてもらえていること、コメントをいただけていることに感謝している。私はここにいていいのだ。そのことがとても嬉しい。ずっと心の中で母の呪縛から逃れられず、ずっと辛い、苦しいばかりで自分で自分を締め付けてきた。だけど、そんなことばかりでもないよ、みんな笑ってるじゃん、所長の言葉だ。私も利用者さん達と笑顔で時間を共有できている。これってすごいことだし、これで今の私には十分だ。一見、どこか病気なんだろうと思う方もいるが、やはり病気なんだなあ、症状があらわれているんだろうなあ、と感じさせられることがしばしばある。

病気であることを受けいれつつ、それぞれ生きているんだなあ。普段の会社生活の中でも、やはりみんなそれぞれ一生懸命生きているにはちがいないのだろうけれど、そんなことをダイレクトに感じられる場面に出会うことはないだけに、私にとっては新鮮だ。

ディスカッションの時のスタッフさんの対応の仕方はすごいなあと勉強になった。利用者さんそれぞれが自分の言いたいことを言い、ふざけ合ったりもしている。

Oさん(男性)は食への強いこだわりを見せていた。生保を受けているようで、食事にお金をかけられないという現実に直面しているらしい。
軽食を利用者さん同士で作ろう、という話題からOさんの現状の訴えへと話がそれていってしまう。Sさんは、Oさんにちょっかいを出している。
S.Tさんは軽食の話題へと軌道修正しようとする。

スタッフさんは、それぞれの言葉を受けとめて返しつつ、ポイントをまとめていく。
今の私にはとてもできないことだ。

実習はあと2日間。

母のことはちょっと横においていて、利用者さん達と同じ場所、時間を共有したいと思う。
仕事とのやりくりをこなしたら、無事に12日間終えられたら、自分に拍手を送りたい。
やり通すこと、それもまた大切な課題だ。」

「平成18年11月25日(土)、晴、11日目

本日の目標;11日目を迎える。笑顔で、そこにいることを楽しみたい。」

 
 何度目かの失業者となった3日目、8年前母が居なくなった時、助言してくれた人の言葉にしたがって土地と家の名義に自分の名前も無理矢理いれてもらったの、もうよくって弟から外す手続きを進めるって言われたの承諾したのですが不動産の名義変更は容易ではないみたいで売る時外れされることに。名義から外れるということは居場所がなくなることを意味すると同時に、売る時解体費用が持ち出しになるっぽいのを負う責任もなくなります。

 失業者になると電車に乗ることもない田舎生活、泣き言をきいてもらいたくて、13年間働いた大会社から使い捨て同然にされたあと泣くことしかできなくなった私の話を繰り返し聴いてくれた相談員の方々、年度が変わってもいらっしゃるかなあと思いながら、ほんとは住んでいないのだから電話してはいけないとわかりつつ電話したらいらっしゃいました。そんなきつい状況でよくがんばったねとねぎらい、そっと背中を押してくれました。変わらずいらっしゃるという、その事実だけで安心感。電話できるところがあるという安心感。

 家を離れて気がつけば30年間一人で暮らした歳月、家から逃げながらどこかに、でも困ったら、どうしても行き詰ったらデカい家があるのだから帰ればいいという甘えが心のどこかにありました。母がいなくなったとき天涯孤独になっていたのだから、そんな甘えはもう許されないのだとわかった今回の帰省。車に乗らないと生きていけないところで自分が暮らしていくことはできないのだと確信した帰省。また駅に近いところで部屋を借りるところからやり直し。次に旅立つときは戻ることはないのだという覚悟を決めて旅立つ。親がいなくなったら兄弟は他人。自分がいなくなっても困る人はどこにもないので自分のために生きればいい。安い給料から家賃を払っていく生活はきびしいけれどここは自分の居場所ではないのでまた旅立っていかなければなりません。一人用の炊飯器をまた買うところからはじめていこうかな。スーパーにおいてある段ボール自転車で持ち帰ってきて少しずつ詰めていこうかな。あれもこれもまだ整理できていない、先はみえてきたけどまだまだ荷物はあるなあという感じです。あきらめてはいけない、少しずつ、少しずつ。

3月に誕生日だったので年金お知らせ定期便というのが届いているの、まだ未開封。開封して、毎月保険料払ってきている民間の個人年金基金などとあわせていくつになったらいくら入ってくるのか計算しないとなあと思うのですが、外貨とかコロナで全てなくなってしまったのかもという不安。今勘定しても意味ないかもなあ。生きている限り細々と自分で自分を食わせていくしかないですかね、たぶん。マンションを買うことが正解なのかどうかはわからないです、私には。

コロナがなければ東京宝塚劇場のチケット当選できたので明日あたり高速バスに乗り、スパに泊まって、観劇もかねてぶらっと訪ねてみようとしていた1年間働いたところの求人、4月半ば面接にいって5月1日からスタートすることは無理なのですがお手紙つけて書類出すだけ出してみるか。今日書式をダウンロードしたのをコンビニでプリントアウト。これが正解なのかわからないですが全く知らないところではないし、経験値でやれる。自分が一年間書いてきた記録はその後どうだったのか、知るのがちょっとこわいです。

10カ月間、お給料使ってしまいましたが宝塚大劇場に日帰りできるという心の支えがなかったら、体が病む前に心が病んで崩壊していたと思います。観劇は心の糧、日比谷に近いところをまた目指すか、住んだことないですが大劇場に近いところを目指すのはありなのかなあ。そこかよっていう話ですがそのために生きているわけでそこなのですよ。

明日は定期券の期限が切れる日。数日ぶりで電車に乗って、家から自転車で行けるところにあったキャッシュコーナーが消えていた都市銀行のATMに行かねばと思います。使わなくなったIC定期券の手数料払い戻しもあるし、ド〇ールにも行きたいよう。車がないと暮らしていけない郷里のきびしさにあらためて涙。

警察の方はさ、わたしを呼び留めるよりも法定速度守っていない運転手さんたちに注意してほしいなあ、危ないから信号つけてほしいって一年前に訴えたじゃないですかって、そんな声が届かないことはよくわかった、わたしは暮らしていくことができない、また旅立つことを目指します。

きびしい人生ですかね、いやそれぞれみんなきびしい人生を生きている・・・。


なつかしの雪組『虹のナターシャ』『ラ・ジュネス』

2020年04月02日 21時00分15秒 | 宝塚
 1996年12月2日から26日まで東京宝塚劇場で上演されました。高嶺ふぶきさんのトップお披露目公演。大羽根を背負った写真がプログラムの表紙になるの、当時としても滅多にないことだったかなあと思います。

『虹のナターシャ』
原作:林真理子 大和和紀
脚本・演出:植田紳璽
演出:谷正純

 連載中の漫画を舞台化したということできびしいご意見もあるようですが、漫画のような美しい世界が目の前に繰り広げられている舞台に、きゅんきゅんなってわたしはすごく楽しかった。高嶺ふぶきさんの上品で美しく正義感のある二枚目ぶり、花ちゃんのほんとにハーフみたいな金髪と鼻筋の通った顔立ち、理事の下駄似合いすぎ、箙かおるさんの「今はおばさんなんだよ」っていう台詞、今も思い出せます。小乙女幸さんのナターシャへのいじわるぶりも漫画ちっくでした。2回は観劇しました。3回だったかも。ぜひやってほしいと強く思ったものです。振付は全編羽山紀代美先生、振付助手に若央りささんのお名前。

「「 虹の ナターシャ 」公演に よせて 大和和紀

 漫画「 虹のナターシャ」を新連載するにあたって、「 いつか宝塚の舞台に取り上げてもらえるような、美しい、華やかな少女漫画にしましょう」というのが、私と原作者、林真理子先生の合言葉だった。 第二次世界大戦前夜の中国、上海と東京を舞台に、天才的な歌姫として駆け抜けた、日露混血の美少女。そして、彼女を愛しながら、次第に反戦主義に目党めてゆく若い音楽家。 私としても久々の波乱万丈ものではあり、林先生の豊富な知識と、打ち合わせの合間の楽しいおしゃべりに、私自身大変楽しみながら描き進めて来た。

 三条薫を演じて下さる高嶺ふぶきさんは、品のある二枚日目として申し分なく(本人は地が出せずに辛いとか)、花總まりさんにとっては珍し い 、ガラッ パチなお転婆娘という役まわり(こちらは地が出せて 嬉しいと仰る。 どんな魅力的な三条薫や、 美しく、強いナターシャ が舞台の上で 動き、 歌うのか、一観客として楽しみたいと思っている。」(公演プログラムより)

三条薫 :高嶺ふぶき
蘭子・ナターシャ -:花總まり
栗崎武志 :轟悠
長岡仁 -:和央ようか
呉竹梅子 : 星奈優里
曽根邦子 -:小乙女幸
呉竹公弥 -:萬あきら
カメ -:箙かおる
村松大佐 : 箙かおる

『ラ・ジュネス』は岡田敬二先生のロマンティック・レビュー10作目。パステルカラーの、宝塚らしいショーでした。演出助手に植田景子先生と大野拓史先生の名前があることに時の流れを感じます。高嶺さんと花ちゃんの並び、二人とも小顔で手足長くて背丈のバランスがちょうどいい。大劇場は二作、外箱をいれると三作ですがわたし何気に今も好きなコンビ。

 高嶺さん、3月に甲状腺がんと診断され、5月末に手術、今の歌声は失われるとの報に心配で心配で涙がにじんでいます。生還してほしい、また元気な姿を拝見したい。わたしも生き延びていきたいと思います。祈っています。いっちゃん、花ちゃん、同期ののんちゃん、まりこさん、雪組だった仲間、仮面のロマネスクごっごしていたさゆみさん、まこさん、たくさんの人が驚き心配し、祈っていると思います。初演をみている『エリザベート』のフランツ・ヨーゼフも『仮面のロマネスク』のヴァルモン子爵もわたしの中で永遠、高嶺さんが一番。優しく柔らかい歌声を忘れません。『風と共に去りぬ』のアシュレー、『あかねさす紫の花』の天比古などなど思い出は尽きません。杜けあきさん率いる雪組で3番手だった頃途中からですが東京宝塚劇場作品は全作観劇しました。

 『虹のナターシャ』、高嶺さんが歌う中、花ちゃんが虹のセットにのって下りてくるラストシーン。

「薄紫の夜明け前に
 僕は聞いた天使の歌声を
  ナターシャ ナターシャ
  君こそ  
 ナターシャ ナターシャ
 我が愛 駆けておいで この胸の中に
 金色の髪 風にとかせながら
 碧の海を映すような 君の瞳 
 忘れられなくて
 ナターシャ ナターシャ
 君こそ

 ナターシャ ナターシャ
 わが愛
 たとえ嵐襲い来ようとも
 挫けはしない
 虹をつかむ日まで
 激しい雨のあとこそ
 虹は強く輝く
 哀しみ旅路の果てに
 きっと君がいてくれる
 虹の中に君がいる
 虹の中に君がいる
 君がいる」







『シェイクスピアの面白さ』より_エリザベス朝劇場とは

2020年04月02日 09時14分25秒 | 本あれこれ
「そこで、もう一つ、この場面転換の妙を巧みに利用した具体例を「ロミオとジュリエット」から引いてみよう。いったいこの悲劇は、エリザベス朝舞台機能の特色を、実にうまく計算に入れて書かれた芝居であるが、それは一般流布本で第4幕第2場から第5場にいたる一連の場面である。普通の刊本では、「キャピレット家の広間」から、「ジュリエットの寝室」、また「キャピレット家の広間」、ふたたび「ジュリエットの寝室」と続いている件りだが、はじめ第2場の「キャピレット家の広間」は外舞台、つまり内舞台への幕は閉まっており、その奥がジュリエットの寝室という心。だから、その外舞台でジュリエットが偽って結婚を承諾し、「乳母とともに退場」とあるのは、幕の間から内舞台へ消えるので、つまり寝室へ退いたことになる。そのあと両親たちの対話があって、第3場「ジュリエットの寝室」とあるのは、ただここで内舞台との仕切り幕を開くだけにすぎない。開くと、乳母と彼女が寝室にいるわけである。ここは有名な眠り薬を飲む場面。飲み終わって寝台に倒れ伏すと、幕を閉じる。これでふたたび外舞台が広間、つまり第4場になる。広間では結婚式への準備が急がれている。しばらくこれが続くとかなりの時間の経過したことを意味し、最後に乳母に命じられて、ジュリエットを起しに入るところで、この場は終る。ただし、入るといっても、それもまた仕切り幕を開けて内舞台へ入るだけ、場面はふたたび寝室という体で、以下、仮死状態のジュリエットを発見しての騒ぎになるというわけ。つまり、第2場から第5場までは決して切り離された四つの場ではない。巧みな幕の開閉を利用してできた一連の流れリエゾンと見なければ意味がない。

 以上述べてきたように、エリザベス朝劇場の舞台は、二階舞台と平舞台との対照によって、一種独特の立体的効果を出すとか、また三つの舞台を巧みに交代させることによって、場面転換をスムースにし、劇的効果のリズムを停滞なく進行させるなど、大陸の劇場には見られない独自の特色をもっていた。だが、考えてみると、必ずしもそれはエリザベス朝劇場だけの独占物ではなかったようである。

 たとえば、わが歌舞伎劇場である。といっても、これは西欧式劇場の様式を採り入れた明治以後のそれではない。明治以前のものを指しているのだが、そもそもエリザベス朝劇場と歌舞伎劇場とは、いずれもそれらが外来の劇場様式の直輸入でなく、あくまでも土着の演劇的要求にしたがって発生、発達した平民の劇場であるという点において、当然のことながら、不思議と共通な機能を数多くもっている。」













4月1日

2020年04月01日 23時33分43秒 | 宝塚





「宝塚歌劇の幕開けとして、記念すべき年1914年(大正3年)。4月1日にプールを改造したパラダイス劇場で初めて公演を行い、歌と踊りによる華やかな舞台を披露しました。」
           (歌劇団HPより)

 宝塚市国際観光協会がツィッターに桜の花が満開になった「花のみち」をアップしてくれています。小林一三翁の像が見守っている「花のみち」と宝塚大劇場。また舞台の幕が上がる日を待ち続けています。いずれの舞台も4月の上演はきびしい感じになってきているように思います。100年続いている劇団がこのまま中止、中止だけで大切な公演を見送っていくことはないのではという気がします。おそらく再来年までスケジュールが決まっているであろうところを繰り延べしていくことが視野に入ってきているのではないでしょうか。もしかしなくてもわたしらがそんなことを思う前から調整を始めているのかも。簡単なことではないですが自社劇場なら可能なのではないかと。(宙組の外箱はきびしいかなあ。)事態が収束したらまたわたしたちに夢の世界を届けてくれる。その日のために劇団はきっとがんばっている。次に観劇するときは今まで以上に大きな拍手を送って大切に過ごしたい。その時が訪れるまで死ぬわけにはいかないとの気持ちを強く持つ。

 昨年大劇場を何度も訪れることができたのはほんとに贅沢なありがたいことでした。この世にいる間に一度は新しい宝塚ホテルにゆっくり泊まりたい。

 3月22日のライブビューイングのチケット、気力を出してぴあで払い戻さねば。



 















泣いている場合ではないのかもなあ

2020年04月01日 19時10分44秒 | 日記
 雨の水曜日、自転車生活がきつい郷里の生活。アメリカでコロナの感染がとまらないですね。日本は、というか東京で急に公表される感染者が増えてきているのはなぜなのか、どこにリスクが潜んでいるのか、不安にかられる毎日。東日本大震災のあと近くに知る人がいない都心の生活が心細くって心細くって、家に帰ろうかという迷いに揺れながら過ごすようになりました。そして直近で住んで部屋、入居して10日ほどで水漏れがおきた部屋に家賃払い続けていくのはきついし遺品整理したいしと帰ってきた結果、まさかの一人暮らしよりもひとりぼっち、天涯孤独の身なのだと気づかされることとなりました。ここ2に年半の経験を生かして郷里近郊でも同じように働けるものと信じて疑っていなかった結果、同じような業務内容でも地域によって全く違っていて郷里近郊の地域性が自分には全く苦手なのだとわかりました。数年先に自分はマンション買って家を出ていくつもりだと弟から言われたのは部屋を引き払って帰ってきてしまってから。帰ってから中古マンションでいいから買っていればよかった、ばかなんだよと何度も言われました。身内は残酷、血のつながりほど残酷なものはないのだと改めて思い知ることとなりました。やすらぎの時間と場所があると信じて疑っていなかった帰省は想定をはるかに超えた苦しみを伴うものとなりました。悪口だらけの陰湿さになんとか耐えて過ごした10カ月を終えた昨晩、他に帰る場所はないので家に帰ってまたさめざめと涙を流しました。帰ってこなければよかったと。

 一昨年の11月半ば、一年間のアルバイト就労を終えて去り、直後はウルトラハードな仕事に疲弊しきっていてつらかったけれどあとから、勉強になることが多かったなあ、あと人はどうしているかなあ、どうなったかなあ、気になっているお母さんはもうこの世にはいらっしゃらないかなあ、子どもはどうしているのかなとか思い出され、援助職の需要があるかどうかはともかく日比谷への観劇がてらスパに数日泊まってぶらっと訪ねようとしていました。需要はあるようで求人が出ていることを今日知りました。5月1日から来年の3月末まで。アルバイトではないですが条件はアルバイトと全く同じ。ブラックとは言いませんがホワイトでもない。ウルトラハードな内容のわりに安い時給制。それでも呼んでもらえるなら都心へ戻るきっかけの扉が開けることになります。お金がいいと妬みをかうとわかったし全く知らないところで経験のないことを今からやるのはきつすぎる。ものすごく大変だとわかっていても今ならまだ経験値でやれる、内勤の、怒りと不満と悪口だらけの陰湿さはもうこりごり、訪問で外に出られる方がまだマシ。書類を出すだけだしてみるのはありかなあ。わたし働ける力はあるはず。弟にばかにされながら残りの人生を生きて行くなんてあり得ない。人が行き交う街は巨大ショッピングモールの中にある車社会で自分が生きて行くことは無理だとわかった帰省。このまま家にこもっていたら死にたくなってしまいそうです。元気に働いている自分こそ、自分らしい。明日のことは誰にもわかりません。コロナはどうなっていくのか。郷里近郊で収入を得る道を求めていくことをもう完全に捨てています。田舎に引っ込んでしまっていることがもどかしくて仕方ない。離れているので呼んでもらえるかどうかわからないですが書類をつくるだけつくってみるのありなのかもしれません。都心に戻れば宝塚大劇場には遠くなる、それだけがさみしいです。東京宝塚劇場は競争率が高いですがA席の11時公演なら友の会がお友達になってくれることもあるから観劇できないわけではないか・・・。