たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

中国からパーティー券購入!?岸田総理

2024年05月23日 18時42分42秒 | 気になるニュースあれこれ

 国会が変ってきているとみる向きもあるようですがどうでしょうか。岸田文麿総理大臣の答弁、きいていて吐きそうになります。非常に体に悪いですが監視し続けなければなりません。

 たった1回こっきり4万円で減税だと本気で考えているのでしょうか。次から次へと値上げ、社会保険料という名の税金増額、電気料金の補助金終了と電力各社値上げの発表、再エネ賦課金もあがる一方です。能登半島はいまだ放置で、自分たちは夏に氷代に冬は餅代という特別給付を受けている自民党議員。このままではお金と権力しかない岸田文麿総理大臣と自民党に殺されてしまいます。そんなにお金ほしいなら別の方法で儲けろ、税金で贅沢しようとするな、天罰くだれよと思います。ここまでひどいことが戦後あったでしょうか。

 

2024年5月22日参議院予算委員会、

柳ケ瀬裕文議員の岸田総理への質疑、

(9) 中国からパーティー券購入!?岸田総理⚡️5/22のやなチャン国会質疑! - YouTube

 

辻元清美議員の質疑と岸田総理の答弁、

Xユーザーのbuuさん: 「参予算委 立民辻元「まず、6月からの、定額減税について、一、二、伺いたいと思います。これですね、企業の、給与明細への明記は、総理、義務ですか?」 岸田「はい、あの~ぉ、きゅぅーよやボーナスの、ぇ明細について明記すること、コレ昨年末の税制改正大綱で決定をしています。そして、3月末に」 / X

「参予算委 

立民辻元「まず、6月からの、定額減税について、一、二、伺いたいと思います。これですね、企業の、給与明細への明記は、総理、義務ですか?」

岸田「はい、あの~ぉ、きゅぅーよやボーナスの、ぇ明細について明記すること、コレ昨年末の税制改正大綱で決定をしています。そして、3月末に交付した、ぜ、ぁ財務省令において、給与明細での、えー義務的記載事項として定めております」

辻元「減税を、いくら減税されたかは、企業に、給与明細に義務としてしっかり書かせると。じゃ、増税の時も、義務として書かせるんですか?」

岸田「アノー、この明記についてワ、コノ国民の、ぃ、国民への、周知を行うことによって、コノ経済的な、コノ効果、えー、この、ぉ経済せ、政策との整合性、ぇこういったことを、マ周知させるものであると、思います。マ、そういったことから、税制改正大綱で、ぇ定め、そして財務省令において、えー定めた、ぇこうした事であると、考えております」は?

辻元「増税の時はどうするのかって聞いてるんです」

岸田「ぇ増税後、ぉー増税につきましても、増税を、の、このーえ、ぇー税制、ぇ、税の、明細についてワ、ぁーこの明細書、に、ぃーぃーャ明らかに、されるものであると、考えます」

辻元「特記して書かせるわけですね?じゃ具体的に聞きましょう。今回、医療保険料に上乗せする子育て支援金、これ、医療保険料に、あなたはいくら上乗せしましたよ、ということを、キチンと明記を義務づけるんですね?よろしいですね?」

岸田「アノ、子ども子育て支援金、の、話ですが、これはま、税ではなくして、ぇーこれは、ぁー医療保険、ぇーぇーっと、ぉ保険と、ぃ位置づけられて、おります。ぇそして、その、医療ホ、医療、ぇー保険に、ぇ、として、ぇー、ぁっ、医療保険とあわせて、マ、徴取する、際に、ぇー明細、等が、書かれることになると、考えます」

辻元「あのー、これ、子育て支援金は、あなたはいくらプラスされますよ、というのは、書かれると、キチンと。そういう理解でいいんですか?」

岸田「えぇっと(笑ってごまかす)、ぇ税が、税に、つきましては、マ、控除される額等に、ついては、明らかに、いたします。えーそして、ご指摘の支援金については、これ、ぃ医療保険、と位置付けられています。取り扱いが異なると考えています」

辻元「それ、おかしくないですか?医療保険に、溶け込ませるんですか?別に徴取するとおっしゃってるわけだから、医療保険料に、あなたの支援金は、これだけ子育てのためにプラスしますよと、これキチンと明記するという理解でよろしいですね?」 岸田「あれ、えーっとですね、これ制度として支援金の導入までに、えーそうした、ぁー詳細については、カク、えーと確定することになっていると、ぇー承知をして、おります」

辻元「あのね、ま、減税はですね、書いてアピールするわけですから、これ医療保険も、いくら自分が子育て支援金に上乗せされてるのか、ここで、ちゃんと明記すると、宣言して下さいよ、するべきですよ、公平公正に」

岸田「あれーえーっと、、ぅーその、法律上、えーーっと、明記する、このギ、義務的に明記する事項と、定められているものではありませんが、いずれにせよ、これ、制度導入までに、詳細について確定すると、いう扱いになっていると、承知をして、おります」

辻元「結局ね、岸田政権は~減税は、国民に減税をアピール、増税負担増はステルス、隠すということがハッキリしたじゃないですか。そういう姿勢じゃないですか。あのね、総理ね、これね、企業などから、たった一度の減税のために煩雑な事務作業、システム改修が必要になると悲鳴が上がってるんですよ。一二声をね、紹介しますとね、『国が減税しますよのアピールのために、社員も会社も振り回されてる感が半端ない、こうした何の価値も生み出さない事務負担が、日本の民間の競争力を損なっている事に気づいていないのだろうか』とかね、『手間を増やされた恨みの方が深く刻み込まれるだろう』こんな声があふれてますよ。総理、ここは確認します。企業などに、相当の負担をかけているという事は、御認識されてますね?」

岸田「ハイ、アノ、負担が生じるという事は承知をしておりますが昨年来の議論の中で、年末の、マ税制改正大綱の中で、ぇーこうした、この、ぉっぉー取り扱い、明記するということ、ぇこれを、決定をして、おります。これワ、税制をめぐる、コノ政策的な議論の中で、ぇーどのように、ぃこの、ぉぉー問題は、取り扱うか、その一環として決定されたものであると、思います。明記することガ、この政策効果、を、国民の皆さんに、周知徹底する、ぇーしゅ、しゅ、周知してイタ、知って頂く、ま、こういった事において、効果的であると、言う観点から、昨年のマツ、決定したものであると、考えております」

は?「政策効果を周知徹底するために効果的である」 「自分の手柄だと浸透させたい」ってストレートに言ってるじゃん、バッカじゃねーの、総理大臣」

 

 


父が亡くなった翌年・東日本大震災のあった年-2011年1月

2024年05月23日 16時57分30秒 | 祈り

「2011年1月1日(土)

例年通り何もない新年、一応日吉神社に行った。あとは部屋の掃除。夜ウィンンフィルはみた。」

 

「2011年1月2日(日)

松本侑子さんのサイン本プレゼント、当選のメール。なんかいいことあるかもとうれしかった。夜、T崎さんにメールを送った。あとは部屋の掃除。

なんとなく気持ちがひきつったまま仕事に突入しようとしている。部屋の片付けは終わらない。眼の疲れがひどい。チカチカしてファイルの整理をしたいがこれ以上やれない。進捗表をやらないといけないのできつい。がんばれ、ワタシ。」

 

「2011年1月3日(月)

部屋の掃除。いつも通りの生活のペースがいい。この間までクリスマスだったのにすごい変化の速さだね。」

 

「2011年1月4日(火)

銀行・郵便局を回った。スカイスパ、マッサージ20分コース。煮つまっていたのがすっきりした。気持ちが切り替わっていってよかった。がんばった。」

 

「2011年1月5日(水)

仕事はじめ。8時過ぎまでがんばった。仕事のあるのが救いだ。このまま負担が続いてはもたない。」

 

「2011年1月6日(木)~7日(金)

8時過ぎまでがんばった。ホットフラッシュが起らなくなったことに気づく。」

 

「2011年1月8日(土)

〇〇医院、シニアジョブフェスタに登録。

T崎さんよりメールの返信有。地域包括支援センターと連携して訪問してくれるとのこと。」

 

「2011年1月9日(日)

Y君が送ってくれたパスタをお昼にいただく。うまかった。

川和G。久しぶりにはなちゃんが来ていた。ほっとする。17歳の女の子がお母さんを亡くしお父さんも余命1ヶ月。さぞかしきついだろう。なんとかやっていってほしい。」

 

「2011年1月10日(月)成人の日

部屋の片付け。カフェでセスクの資料を久しぶりに読む。慶応のレポートの手書き資料を電子化して整理しようとしたらすごく大変だった。これだけのことをやったんだな。」

「2011年1月11日(火)

色々考えていると夜中にすごく不安におそわれる。母は寒いのにちゃんと暖をとれているんだろうかとかはなちゃんどうしているんだろうなとか、鍵神経症、不安神経症も続いている。大丈夫だとわかっていても不安になってしまう。このまま一人もぶっそうだし心細いなあ・・・。

松本先生からサイン本が届いた。」

 

「2011年1月15日(土)

シニアジョブスタ、キャリアカウンセリング 16;00~17;00

はなちゃんお父さん急変。何もできない。祈るのみ。」

 

「2011年1月16日(日)

整骨院で全身トリートメント、4,000円」

 

「2011年1月18日(火)

朝方、寒さと乾燥で6時過ぎに目がさめてしまった、眠かった。」

 

「2011年1月19日(水)

カラカラの天気が続いている。はなちゃんはどうしているのだろうと気になりながら何もできない。」

 

「2011年1月20日(木)

お父さんのことを思い出したらすぐには寝つけなかった。連日5時間足らずの睡眠。よくもっているよな。なんだか時おりすごい淋しさにおそわれている。親がいなくなるというのは大きい。はなちゃんはどうしているのだろう。」

 

「2011年1月21日(金)

今日もいい天気。やっと5時間眠ったかな。なんとかやっている。母から解放される日はきっとくる。」

 

「2011年1月22日(土)

〇〇医院、漢方薬を減らした、花粉症の薬を出してもらう。ジョブフェスタ16;00~17;00ジョブスタ。美容院でヘアカット。自分自身のことはなにもできないまま終わった。

はなちゃんは元気にしているというY先生からのお知らせ。」

 

「2011年1月28日(金)

すごく寒い。今週はあwりと落ち着いた状況で仕事は進んでいた。4年前の今頃は国家試験でボロボロになっていたことを思い出す。よくやったではないか。自分をほめてあげよう。今やれることを一生懸命やる。それでいいんだ。」

 

「2011年1月29日(土)

キャノン吉村さん講演会、13時30分~15時 

『マジックアワー』写真展、品川駅徒歩8分、講演会のあとサイン会もあって、恋人たちの小路のポストカードとフォトエッセイ集を買ってサインしてもらった。PEIの写真はなかったがヨーロッパや北米の長い夕暮れの色はやはり美しい。」

 

「2011年1月30日(日)

はなちゃんを囲んでY倉さん、Y本さんの4人でランチ。その後Y先生の家でお茶とケーキをいただきながら過ごす。」

 

「2011年1月31日(月)

ゆうちょの相続書類と定期預金の新規書類を郵送。自分がすごく冷たいような気がしてしまってよっと辛い。わりきって考えるしかない。仕事は相変わらずやりにくく平日は5時間睡眠で進んでいる。すごいエネルギーで年のわりにはフットワーク軽くやれていると思う。50歳まではこのままなんとかいけるのかなあ。お金も貯めないとね。暖かくなる。12度C。病気らしき人を帰りの電車で見かけた。独語は統合失調症の特徴だそうた。」

 


第四章OLという存在-⑦専門職と比較して

2024年05月23日 02時06分07秒 | 卒業論文

 ここで先の「恵まれている」順では①年齢を通じてわりあい等質な専門・技術職に位置するグループAの女性労働者のジェンダーへの順応と反応について熊沢誠の記述に沿って概観したい。先ず、1997年のJJL(日本労働研究機構)の、平均年齢29.7歳、未婚率56%の女性正社員に「将来の仕事のあり方の希望」をたずねる調査結果によれば、「出産・結婚・介護などで退職」(退職志向)は33%、「仕事の内容は問わずずっと続けて勤めたい」(勤続志向)は18%、「専門的な能力、・・・高度な知識や技術を身につけて、それを生かしてずっと勤めたい」(スペシャリスト志向)が40%となっている。この回答者のうち、事務職は44%、専門・技術職(「看護」「教育」を含む)は30%、営業・販売職は9%である。これら異なる階層の中で、専門職の女性たちが選ぶのは圧倒的にスペシャリスト志向であろう。女性専門職の働く組織は普通一般の職場よりはるかにフラットな構造であり、彼女らは事務職の一般職よりははるかに、自分の仕事の進め方に関する裁量権に恵まれている。いわゆるOLとは異なり、仕事の内容を自己のアイデンティティとできる余地も大きいだろう。自分の労働の社会的な意義をしばしば確認できもする。要するに総じて仕事にやりがいがあるのである。もちろん私たちは専門職の女性であるからこそ係ってくる特別の心労に無関心であってはならない、と熊沢は注意を促している。例えば今日、中学校の教員であり続けるにはとても心の力業を求められるはずだ。仕事本来の社会的意義に照らして、ときに組織全体の業務の方向性が疑問に感じられる場合もあるだろう。それにこの種の職場でも官・民を問わず確実に進んでいる人員の合理化が、労働の過重を通して、一方では「自分でも納得の行く丁寧な仕事」を放棄させ、他方では、労働時間を長くして既婚女性の「仕事と家庭の両立」を難しくもしている。例えば97年9月、ナース(看護士)の残業時間は、助成労働者全体の平均5時間を大きく上回り12時間42分。彼女らは「納得のいく看護」と「私生活の両立」の矛盾に追い込まれている。しかしそれでも、ナースたちの中で「できれば離職したい」「看護職以外の仕事に従事したい」と考える人はあわせて5.7%にすぎない(日本看護協会1999)。それは多くの専門職に共通する気持ちであろう、と推察できる。女性労働者のなかで、これら専門職の人々の就業継続志向の強いことは、第一章の表1-6「女性労働者分布」に見るとおり、20代から60歳になるまでどの年齢階層でも正社員比率が73%にのぼる例外的なグループとなっていることでわかる。その基本的な要因はすでにみた日々の裁量権であって、それが管理職にならなくてもがんばってやってゆけると言う感覚を女性専門職に与えている。専門職の組織でも管理職のポストはまず男性に占有されているのに、彼女らにあまり管理者への昇進志向がみられないのはそのためである。(略)これら専門職の「恵まれている」人々は、職場のジェンダーのしがらみを日々さほど噛みしめなくても良いだけに能力主義を完全に内面化している。これらの人々は相対的に高学歴である。[i]

上記に記した専門・技術職に比べると、多数派ノンエリートの一般職OLは、仕事の内容を自己のアイデンティティとできる余地は少ない。OLの仕事の性質として、職務分担の多少の広い狭いにかかわらず労働者がその判断によって遂行の望ましい方法やペースを選ぶことができない「単純労働」、繰り返し性(ジョブサイクルの短さ)、必要経験年数の僅かさなどが挙げられる[ii]。こうした性質の労働にやりがいを求めるのは困難である。単純労働に耐えうる労働者と日本型企業社会に見なされているOLはもともと労働の対価として報酬を受け取るという職業人としての意識が男性社員に比べて希薄な場合が多い。その理由としては、「女の子」として十把ひとからげに扱われ、仕事の正当な評価がなされているのかいないのか、あやふやな状況ではそのような意識は醸成されにくい、ということが考えられる。また、単純で補助アシスタント的なその仕事内容はあまりにも切れ切れで細々しているために、「自分の仕事」をしているという自覚を持つことは難しいのである。お茶を運んだり、書類のコピーをとったり、原稿をタイプしたりといった仕事は、OLにとって報酬を得るための労働というよりは、仕事を依頼した男性のためのサービスとみなしがちになる。OLの職業意識が希薄なことと、会社の中で期待されていないということは表裏一体であると考えられる。OLはいつまでたっても「仕事をする人」としてではなく「面倒をみてくれる女の子」としてしか見られていないようなところがあり、『おじさん改造講座』の著者清水ちなみは、自分自身の経験から、おじさんとOLの関係はどこを見渡しても「上司と部下」というよりは、「上司と女の子」と言うのが適当であり、会社に入った女性社員は、部下というよりもどちらかというと「舅の面倒を見る嫁」に近い感じだったと述べている。[iii] OLが上司の私事の手配をすることもあり、公私のグレーゾーンは曖昧である。このような状況下では、男性社員がOLに仕事を依頼するときは、職務を命ずるというよりは、ついつい「お願い」ベースになりがちであるし、OLの方も「頼みごとをきいてあげる」という感覚に陥りやすい。多くのOLにとって仕事とは単に「する」ものではなく、常に誰かのために「やってあげる」ものであり、男性もOLの仕事に対しては、「ありがとう」と礼を言う。男性の部下に対して使われる「ご苦労さん」とOLに対して使われる「ありがとう」の違いに小笠原祐子は注目している。「ご苦労さん」というねぎらいの言葉に比べ、「ありがとう」は相手の骨折り損に対しての感謝、報恩の気持ちをより直接的に伝える表現である。女性に「ご苦労さん」という言葉が使われないわけではないが、男性の部下に対してよりも、「ありがとう」が多用されているようだ。もし、女性にも男性と同じ職業意識を期待していたら、このような言葉の使い分けは無用のはずである。小笠原のインタビューの結果によれば、OLの希薄な職業意識を心得て部下の男性と女性を区別して扱い、例えばアシスタントの女の子はなだめなければいけない対象と考えている営業マンもいたが、逆に、女性を男性と区別せず、きわめてビジネスライクに扱った結果、女性の反発を招いた男性もいた。OLにとって、女性を待遇の面で差別する一方で女性にも男性同様の職業意識を期待するのは、矛盾する考え方なのである。つまり、男性と同様の権利が保証されない現状では、男性と同様の義務を負うことをも放棄する。職業人として男性と全く同じように扱われることを拒否するOLは、企業の差別的な待遇に直面して、OLの権利と義務に関し、独自の考えを持つに至った女性だと解釈することができるのである。[iv] 両性が平等でない以上、OLの仕事の最終的な責任は男性が負うべきであるし、男性はOLが仕事や職場に満足しているかどうかを常に気遣い、不満がある時は、何らかの対処をすべきだとOLは考えている。OLは、職場での当事者意識を失ったお客様化した存在であるといえるだろう。そうさせたのはOL自身ではなく、男性中心の日本型企業社会である。

一般職OLに要求されるのは、正確な計算とマニュアルへの忠実さであり、総合的な判断力などは求められていないので、専門・技術職に必要な高学歴は必要ない。むしろマイナスに働く。例えば都市銀行の融資部門では、多様な融資案件の資料分析と審査、そして上司のチェックを経た融資の決定はもっぱら男性総合職の仕事である。女性一般職は「顧客から預かった書類を格納・保管し、融資金額や融資期間、日数、顧客の振込口座等のデータを端末機に打ち込み、伝票を記載するといった事務作業を行う。一つ一つの仕事に高度な判断力は必要とされず、職務はルーティン化している。[v] 大手都市銀行の営業店の海外為替を扱う部署で伝票処理などを扱う28歳の女性(1994年時点)は、「一般職でイヤだと思ったことはないですね。むしろ、後輩として入社してくる総合職を見ていると気の毒な感じがします」とベテランOLの自信を覗かせている。彼女の後輩としてブランド大学を卒業し、入社してきた4人の総合職の女性はいずれも事務作業が極端に遅い、理屈でモノを考えるなどして2、3年で退職していった。[vi] 第一章で記した信託銀行の支店長の言葉にあるように、「営業店で頼りになるのは一般大学卒、短大卒の、規則に対する順応性が高く、あえていえば定型的作業に適した一般職の女性」ということになる。しかし、同じ仕事をし、能率や生産性では優っているはずの先輩一般職よりも給料は後輩の総合職の方がはるかに高いという矛盾がある。均等法が施行された86年に、「総合職コースは、長時間労働で全てを会社に縛られるとの印象があり、結局は疲れ果て使い捨てられるのでは」と不安に思い、一般職を選んだ26歳(1994年時点)の女性は、2年目から総合職採用の男性との差がつき始めたことに、これは合わないぞ、との思いを抱いた。先輩の一般職女性は、30過ぎのベテランなのに新入社員の男性の補助業務ばかり。一方彼女の同期の男性たちは次々に昇進していく。上司の中には有能で尊敬できる人もいないではなかった。しかし多くは生活面の自立ができておらず、中には銀行のキャッシュカードすら使ったことがない上司もいた。「会社の仕事ばかりで、他のことは全て奥さんに頼んでいるようなんです。会社では、奥さん代わりに、雑用をみんな一般職女性に押し付けてくる。そのために一般職が必要なんじゃないか、と思えるくらいです」。一般職OLの会社における「女房的役割」がよくわかる話である。総合職への転換を申し出たこの女性の同僚は、上司に露骨に不快な顔をされ、断念した。一般職の仕事はいくらやっても補助の域をでない。面白くなくて当たり前。しかし、責任はないから、楽といえば楽、なのである。[vii] 

さらに、大手商社の23歳(1994年時点)の女性は、一般職に留まっていることについて、「雑用の多さに嫌気がさすこともあります。でも、やめようか、と思うことにボーナスがどっさりくるので、ま、もう少しやろうか、という気になって・・・」と明るく答えている。「でも、あまり会社からの注文が多いと、一般職の女に仕事への生きがいだの会社への貢献だの要求するほうがおかしい、という気になります。一生懸命やったって同じですから、女は」。ここに記した女性にインタビューした竹信三恵子は、「将来」が存在しない一般職の女性に、明るい絶望とでもいえる軽やかさを見て取っている。彼女らはみな、今を陽気に生きている。「一生懸命やっても同じかどうか、やってみなければわからないんじゃないの」という竹信の問いに、23歳の商社勤務の女性は答えた。「有能で素晴らしい先輩女性もいるんです。その人、子会社で常務になって、新聞にも出たんです。でも、待遇は『事務職』つまり一般職のまま。給料は本社の同年輩の総合職男性の半分程度なんですよ」。

 

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参考文献

[i] 熊沢誠『女性労働と企業社会』146-149頁、岩波新書、2000年。

[ii] 熊沢誠『企業社会と女性労働』日本労働社会学界年報第6号、8頁、1995年。

[iii] 清水ちなみ「OLからみた会社」内橋克人・奥村宏・佐高信編『就職・就社の構造』113頁、130頁、岩波書店、1995年。

[iv] 小笠原祐子『OLたちのレジスタンス』66-72頁、中公新書、1998年。

[v] 熊沢、前掲書、106頁、駒川智子「銀行における事務職の性別職務分離」『日本労働社会学会年報』9号、1998年、より引用。

[vi] 竹信三恵子『日本株式会社の女たち』33-35頁、朝日新聞社、1994年。

[vii] 竹信、前掲書、36-37頁。


雨の中の薔薇

2024年05月22日 20時22分38秒 | 日記

2024年5月13日(月)ブルーモウメントが訪れる前の海辺の薔薇園。

雨が降っていたので人が少なく、ゆっくりと回ることができました。

救急車のサイレンがなんどもきこえました。現実は絶望的ですが丁寧に手入れされた薔薇の花束たちが見頃を迎え夢の中にいるようでした。これでもかというぐらいスマホで撮りました。写真にしてしまうと実につまらないですが思い出に何枚か掲載。

海と船と薔薇と緑。郷里近郊にはない風景。

極寒の間ほとんど歩くことができなかった分、春から初夏にかけて可能な範囲で季節のうつろいを感じています。スーパーのすぐ近くにある個人のお宅の真っ赤な薔薇も見頃です。

 


「現代日本人の心と行動の分析」-2004年セスク「論理療法」資料より

2024年05月22日 16時21分56秒 | グリーフケア

「「現代日本人の心と行動の分析」聖心女子大学教授 橋口英俊

 

★現代日本人の心と行動

 大変難しいテーマですが、現代のような国際社会の中にあっては、日本人だけを切り離して考えることは不可能で、広く民族、歴史、文化を越え、普遍的な人間としての生き方、あり方が問われているように思います。人間は他のすべての動物の中で、最も進化しているといわれていますが、果してそうでしょうか。生きとし生けるものすべて、それぞれの生をこの世で全うできるように素晴らしい地球社会を形成するのに貢献していることは、多くの動植物学者がこぞって認めているところです。人間はその一員に過ぎないのです。そのことを忘れ、自然の調和を身だし、素晴らしい地球環境を破壊し、人間同士の不毛ないがみ合いや権力争いが世界を巻き込む大戦争となり、まったく罪のない夥しい人々を死に導く。他の生物の世界では考えられないことです。進歩とは、進化とは一体何でしょうか。

 

 第二次世界大戦中、ユダヤ人というだけでアウシュビッツの強制収容所に捕まえられた残酷体験記『夜と霧』でおなじみの精神医学者フランクルは、フロイトやアドラーなどの精神分析の不備に気づき、新たに実存分析(のちにロゴセラピー)を提唱しました。人間のこころの原型を、フロイトは「快楽への意思によって、またアドラーは「権力への意思」によって説明しようとしました。これらは他の動物にも共通してみられる「本能性・衝動性」を強調した立場といえるでしょう。フランクルは、人間の「こころ」にはそれら他の動物に共通した心理も当然あるが、それに加えて他の動物にはない、人間ならではのより次元の高い心理があると考えました。そして、前者を「心」とよび、後者を「精神」とよびました。つまり、人間を「体」「心」「精神」の三次元でとらえようとしたところにその特徴があるといえます。本稿では、そのうちの「心」と「精神」について取り上げてみたいと思います。ここでいう「心」とは、食欲、性欲、衝動性、権力欲、私利私欲にとらわれやすいこころをさします。また「精神」は、人間特有の精神機能をさし、人間らしさ、人間ならではのこころで、平和を尊び、耐えざる向上心、自他の人格生命をともに尊重する人間(生命)尊重の精神を根底に持ち、人間としてまっすぐに生きようとする強いこころをさします。すなわち、フランクルは前述の動物と人間に共通のこころより、もっと高次の「精神機能」を発現させることにより、自らの自由意志に基づいた責任ある決断を行い、人生の意味や、価値を追求しうる存在、「意味への意思」を発動することのできる存在とみるのです。つまり人間は前向きに生きていこうとする意志を持ち、そのような態度がとれる存在であり、そこにこそ人間の価値があると考えます(態度価値)。

 

 人類の歴史を振り返ってみますと、冒頭にもちょっと触れましたが、ある意味では闘争(戦争)の歴史であり、21世紀を迎えた現在も世界各地で世を震撼させるような事件の数々は目を奪うばかりです。「心」と「精神」のバランスが大幅に崩れ、ますます前者に傾斜していることを示しています。

 

 そのこともあり、現在世界が日本に注目しています。文明の進歩幻想の名の下に、世界が先に述べた人間ならではの「精神機能」を弱化あせている風潮は否定できません。世界唯一の被爆国日本、欲しがりません勝つまではと世界を相手に、一部の軍国主義指導者によりはじめられた無謀な戦争、すさまじい犠牲者と瓦礫の山、一面の焼け野原、世界各地に夥しい被害をまきチラシ、一億総玉砕の寸前に原爆がとどめをさし、終戦を迎えました。

 

★心と精神のバランスが大切

 物心ともに荒廃の極地にあった日本が、紆余曲折の末、戦後見事に立ち直り、今日にの経済大国といわれるまでに発展した姿は、未だ惨禍の渦中にある多くの国々の人々にとっては奇跡に映り、関心がもたれるのも当然といえるかもしれません。人間の心理には「心」と「精神」があり、両者のバランスが問題で、前者に傾いたまま経済大国になると、逆にそれが禍いして、本能の赴くままの衝動的人間、私利私欲に目がくらみ、人の和を乱し、さまざまな不祥事を招きかねません。物質文明が高度に発達しても、「精神」の発達が伴わなければ、万人の望む平和は得られないのです。人間ならではの精神文明の発達が今ほど求められているときはありません。世界が日本に期待しているのはまさにそこにあると思います。ところが今の日本人のこころはどうでしょうか。政界、財界、家庭も学校もマスコミもますます「心」に傾斜し、「精神」がなおざりにされているような印象を受けます。

 

 戦後のあのすさまじい混乱から立ち直れた一つに、戦争の反省から、不戦の誓い、人間の尊厳を第一とする「精神」に国民全体が気づくきっかけとなった平和憲法の力が大きかったと思います。何もない中で、ひたすら真面目に勤勉に努力した結果、驚異的な復興を遂げ世界有数の経済大国といわれるまでになりました。半面人々を襲う不安や恐怖、ストレスなどが、近年逆に多くの不幸をエスカレートさせています。よく初心忘るべからずといいますが、その過程で人間として最も大切な「精神」を置き去りにして、そのバランスを失った「心」のみがすべてであるかのような錯覚文化が一人歩きをはじめてはいないでしょうか。最近さまざまな分野でみられる不祥事の数々、子どもの不登校や引きこもり、中高年の自殺の激増はまさに現代のアウシュビッツであり、それに対する警鐘のように思えてなりません。その貴重な声に謙虚に耳を傾け、初心を忘れないためにもこのようなグループ学習の意義は大きいと思います。今だからこそ人間ならではの「精神」が人類に求められているときはないと思います。グループのご発展を心からお祈りしております。」

 


『ANNE OF THE ISLAND』より

2024年05月22日 10時13分44秒 | 『赤毛のアン』

"This has been the most beautiful of my life."

 Anne said to Phil that night.

"I,ve found my father and mother.Those letters have made them real to me.

I,m not an orphan any longer.I feel as if I had opened a book and found roses

of yesterday,sweet and beloved,between its leaves.

 

「「今日は、私の人生でもっとも美しい一日だったわ」

 その夜、アンはフィルに語った。

「お父さん、お母さんを見つけたんだもの。二人の手紙を読んで、両親が本当に生きていたんだって実感したの。私はもう孤児じゃないわ。まるで一冊の書物を開いたら、ページの間に、過ぎ去りし日の薔薇の花が甘くきれいに咲いているのを見つけたような気持ちよ」 」

 

(松本侑子訳『アンの愛情』より-第21章過ぎし日の薔薇)

 

 

 

 


マイナ保険証がなくても資格確認書が自動的に送られてくる

2024年05月21日 22時45分56秒 | 気になるニュースあれこれ

 現行の健康保険証廃止にあたって、マイナ保険証がなくても資格確認書が自動的に送られてくるそうです。川内博議員の国会の質疑で明らかになりました。これまで流れて来るニュースからは申請が必要であるかのようにきこえていました。なら現行の健康保険証を廃止する必要がありますか?っていう話。

任意のはずのマイナンバーカードと保険証を一体化してマイナンバーカードを無理矢理つくらせようとするとか、農家に応援金を出すどころか罰金を課そうとするとか、この国どうなってます?

 

2024年5月21日衆議院農林水産委員会

川内博議員質疑、

(595) 【ヒロシの国会質疑(編集なし)】「食料供給困難事態対策法案」〜農業従事者に課す生産計画と刑事処分(罰金)の必要性について②〜2024年5月21日衆議院農林水産委員会 - YouTube


ヒルティ『眠られぬ夜のために(第一部)』より-3月1日~3月29日

2024年05月21日 15時54分09秒 | 本あれこれ

「3月1日

 エゴイズムは何にもまして宗教と一致しないものである。したがって、われわれが何でもすべてを正しく、また心やすらかに所有しようとすれば、いったんそれをすてて(少なくとも心のなかで、ときには実際にも)、あらためて神から返してもらわねばならない。財産、名誉、よい評判、健康、働く力、家族、生活の喜びなどがそうである。いや、生命そのものでさえも例外ではない。そうしておかないと、これらすべての財宝はわれわれにとって破滅のもととなるかもしれないからだ。これが、いわゆる「試練」の意味である。われわれがすすんでそれをするか、またそれをなしうるかどうかの、検査である。創世記22。」

 

「3月2日

 さらに、気分が全般的に喜ばしさや元気にあふれているのは、これらとはまた違ったものである。こういう気分もわれわれの精神がみずから生み出したものではなく、むしろ、自然的な抑圧状態から精神を立ち直らせようとするものであって、人生の最も大きな喜びの一つである。このような気分だけは、われわれの思想を内面化して、神にしっかり結びつくことによって、ある程度よび起すことができる。」

 

「3月3日

 人生のどんな境遇においても、神の導きと助けとをかたく信じることができ、ヨハネによる福音書15の7にいわれていることをしばしば実際に経験したならば、この地上で堪えなければならない最も苦しいこと、すなわち、憂いや恐れが全くひとりでに消えうせ、人生のあらゆる困難がこの信仰を深めるための単なる修練となるであろう。しかもこの修練はついには勝利をもって飾られるが、これこそ地上の最も生きいきとした幸福である。」

 

「3月4日

 病弱はすこしも善い事を行う妨げとはならない。これまで最も偉大な仕事をなしとげたのは、むしろ病弱者であった。それに、完全な健康をもっていると、必ずとはいわないが、精神的感受性の繊細を欠くようになることが実際少なくない。あなたが健康にめぐまれているなら、神に感謝しなさい。しかし健康でなくても、そのことにできるだけ心を労せず、また妨げられないようにしなさい。たんに「健康を守るためにのみ生きる」という考え方は、教養ある人にふさわしくないものだと思うがよい。」

 

「3月6日

 厭世感は、決してよい徴候ではない。これをいだく人には、肉体的か精神的に、かならずなにかが欠けている。たいてい、こういう人は、厭世感などを絶対に認め給わぬ神と親しい個人的なつながりを持たないか、あるいは全く神を信じないかのいずれかである。そのような場合、かえって精神的にすぐれた人が、時とり厭世感に見舞われるのは全く当然のことである。なぜなら、彼らは自己についても、同じような人間との交りにも、また彼ら自身の仕事にも、十分な満足を見出しえないからである。しかも、彼らが精神的にすぐれていればいるほど、一層満足がえられないのである。」

 

「3月7日

 力の許すかぎり、中絶せずに有益な仕事をすることは、たえず神の近くにあることと並んで、およそ人生が与えうる一切のうちで、最も良い、最も心を満たしてくれるものである。しかも、一旦この原則を生活の中にしっかり取り入れたならば、過度な仕事や不必要なこと、あるいはあまりにもせっかちな仕事ぶりや神経質なやり方を早くから避けることができる。」

 

「3月10日

 この世には、少なくとも見たところ罰せられもせずに、数多くの不正が行われているということは、深くものを考えない多くの人たちにとって、真に生ける正義の神の実在を信じる妨げとなっている。すべての不正にかならず内的な罰が伴わないかどうかの疑問は、かんたんに証明できないことゆえ、この際しばらく措いて、ただこう言うだけにとどめたい、すなわち、地上で罰が加えられないことがあるのは、われわれの見解からすれば、むしろ、この世ですべての勘定が清算されるのでなく、必然的になおそのさきの生活があるにちがいない、という推論を正当化するであろう、と。なぜなら、もしそういうことがなく、また、神も実在しないとすれば、およそ不正も、不正の意識もこの世にないであろうし、そして人間は、森林の野獣と同じように生まれながらの自然的必然により平気で、互いに奪い合い、殺し合うであろうから。しかし、そのような事実は明らかに存しないのだから、正義が償いを求めるのは理性の要請であって、このような神聖な正義を信じようとしない人は、理性に対し、人類に対し、神に対して、重い罪を犯すものである。エレミヤ書12ノ1・5。」

 

「3月11日

 生活を(肉体的生活をも)、十分健康で力強いものにしたければ、生活に喜びがなくてはならない。だから、なんらかの正しい喜びを持つようにしなさい。けれども、あなたが賢明であるなら、永続的な、つねに得られる喜びを、決して不正でない、つまり自責や後悔を伴わない喜びを、求めなさい。世間一般の喜びの多くは、とかくこのような感情をまぬかれないものである。」

 

「3月13日

 どんな幸福な生活にも数多く起る試練や心労を、堪えがたい重荷だと考えるか、それとも自分の生活原則を実行し修練するために、神から授けられた機会だと見るかは、ものごとの感じ方として大きな相違である。そして結局、この感じ方次第ですべてが決まるのでる。」

 

「3月15日

 イザヤ書30ノ15・18。主はあなたに恵みを施される日を待っていられる。だから、あなたはいたずらに心配をしたり、いろいろ将来の計画を立てたりして、そのために、最もよい仕事の時間を多くつぶすことは全くいらない。神を信じて、神の道を誠実に進もうと努めるならば、万事はひとりでに、しかもあなたが予期するよりも、はるかにうまく運ぶのである。これによって人生は非常に楽になる。なぜなら、起るかもしれない不幸に対する心配は、ぜひとも忍ばねばならない現実の不幸よりも、一層ひどくひとの力を消耗させるからである。実際の不幸は、しばしば外的な手段や努力によってうち勝つこともできるが、しかし心配は神への強い信頼によってしか徹底的にうち勝ことができない。このような経験はだれでも持つことができる。」

 

「3月16日

 信仰は、それ自体すでに一つの幸福である。あるものをやがて手にいれることができるという十分な確信は、鑑賞している樹の花のようなものであって、あとで手にとって食べる果実よりも、真に人間の心の理想的要求にかなうものである。

 このような信仰の幸福は、未来において考えられる一切の幸福にくらべても、やはりそれに劣らぬ地上生活の美しさである。さきの世では、こうした幸福はなくなるであろう。後悔の嘆きは天国にふさわしくないので、それを後の日にしないためにも、いつかはこの幸福を味わっておかねばならない。

「きみがいまこの瞬間から追い払ったものは、決して永遠もつれ戻してはくれぬ。」(シラーの詩『諦念』より)

 あらゆる幸福感のなかで最も美しい瞬間は、所有の瞬間ではなくて、それに先立つ瞬間、すなわち、願望の実現が近づいて、すでに確実に見えはじめる時である。これをたくみに言い表わしているのはイフィゲーニエの美しい独白(モノローグ)である、「最も大いなる父(主神ゼウス)のとりわけ美しい娘である『成就』よ、こうしておんみはついに私のところに降りてくる。」(ゲーテ『イフィーゲーニエ』第三幕一場)。」

 

「3月17日

 自分でものを考え、自分の意見をもつ人がもっと数多くいさえすれば、世の中はかぎりなく良くなるであろう。たとえこのような人が反対者となっても、彼らの意見の誤りを納得させることができるので、その考えを改めさせられもする。ただひとのまねをしているだけの者は、てんで自分でものを考えようとしないから、説き伏せることもできない。

 このことを少し違った言葉でロックは次のように言っている、「世の中に間違った意見というものは、一般に考えられているほど多くはない。というのは、たいていの人は意見などまるで持たないで、他人の意見か、ただ噂や批評などの受売りで満足しているからだ。」あなたはそんな仲間に加わってはならない。」

 

「3月18日

 キリスト教が人間の魂の深い要求に適合しないならば、1500年以上の永きにわたって行われてきたように、たとえ不十分ながらもその価値が認められ、実践されるということは、とうてい不可能だったであろう。キリスト教がその実践においては多くの欠陥を示したにもかかわらず、いまなお持ちつづけている大きな価値を、その他の教え、たとえばマホメット教や仏教やある種の世界的な倫理説や哲学などが、文化民族のあいだで、持ちうるであろうとは、実際だれひとり信じるものはない。」

 

「3月22日

 自分の周りの社会的水準よりほんのわずか抜きん出た者だけが、人気があり、一般に好かれる。そういう人は、生きている間に、最大の影響力と最高の個人的幸福を手に入れることができる。しかし、死後は事情が変わる。そのときは、彼らの受くべき報酬はすでになくなっている。

 たいていの人間は、一般にそう信じられ、また自分でも認めているよりも、偉大な善き思想をたやすく受けいれうるものである。ただ、彼らにはそういう思想がしっくりしない。したがって彼らはそのすぐれて善いものをまず自分たちの水準にまで引きおろそうとする。けれどもその善き思想が、その本分を守って、おのれをまげないならば、彼らもついにそれを承認することになる。しかしながら、善きこと、正しいことを、節度と常識とを適度に加味して、人に受け入れられるような、俗耳に入りやすい形で主張するのは、なかなか大変な仕事であって、これは、神の恩寵からなすのでなく、ただ自分の考えから行動する人間には、やれないことである。」

 

「3月27日

 内的進歩をしめす最もよい徴候は、きわめて善良な、心の気高い人びとのなかにいると心地よいと感じ、凡俗な人たちのなかではつねに不快を覚えることである。

 このことは、われわれの来世の生活をも決定する。およそ、そのような生活があるとすれば、人はそれぞれ、ただ自分の精神的本性とその進歩の段階にしたがって、それにふさわしいところまで行くことができるし、また、そうなるであろう。けれども、自分の能力にないもの、それ以上のものを求めて奮起する人も、そのような切なる憧れのゆえに、そのより高い世界に属することができ、そこに迎えられて修練を受けるという恩寵にあずかるであろう。雅歌6ノ11。」

 

「3月29日

 いくらか不精な若い人たちの多くは、宗教的審理や最上の処生法を短い言葉で、いわば格言風に表現したものをほしがっている。まず、処生法を簡単にいい表わすことができるかどうか、かなり疑わしい。というのは、人生にはいろんな段階があって、それが正しく経過すれば、しだいに高い目標と見識へ進むものだからである。しかし、人生の初歩ために、そういう短い言葉がほしければ、マタイによる福音書6の33を選びなさい。これこそ、世にある最も確かなものであって、まじめにそれをためして、成就しえなかった者は、おそらく一人もないであろう。また、宗教的真理を短い文章で表現することは、信仰箇条の意図するところであって、そのなかでも、いわゆる「使途信条」は今日でもすべてのキリスト教会に共通している。一方、ヨハネによる福音書17の3は、キリスト自身から由来している信条であって、これだけでも十分であり、これならば、とにかく論争のもととなることも少なかったであろう。」

 

(ヒルティ著 平間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために(第一部)』岩波文庫より)

 

 


「甘え」を考える②

2024年05月21日 00時07分21秒 | グリーフケア

「甘え」を考える①

(乳幼児精神保健学会誌Vol.23 2010年3月号より)

「テーゼⅡ;「甘え」は分離を前提としているので充たされることはない。

 母子関係には、素直な甘えがある。誰でもがそのことを知っている。しかし、事態はもっと複雑である。何らかの意味で甘えは屈折する。そこに病的な甘えが生ずる。神ならぬ人の愛は不完全である。人は皆、幾分か屈折した甘えを生きる。結論的には、人の甘えは素直な甘えと病的な甘えの両価性を持つ。ここに甘えと恨みのアンビバレンツ(両価性)が生ずる。人は甘えの二面性をもって生きることになる。それ以外の選択肢はない。

 甘えが両価的なのは、甘えが分離を前提としているからである。甘えの欲求は一体化の欲求である。自分と対象が一体となりたいとする欲求である。比喩的にいえば、それは子供が胎内にいる時へと復帰する願望である。母体の中では胎児は完全に守られ充足している。しかし、赤子は出生と共に母体から分離し無力で傷つきやすいまま、厳しい外界へと投げだされてしまう。胎児は臍の緒を切った瞬間に母胎と分離してしまったのである。つまり、この世に生まれた以上は一体化の欲求、甘えは完全には充たされることはない。

 この理由からフロイトも土居も「無力感、寄る辺なさ(helplessness)」と「傷つきやすさ(vulnerabillty)」という一見、悲観的で救いのない状況から思考を始める。土居先生の観察は鋭い。赤子に甘えの行為が認められるのは、この分離を前提としてである。それ故に甘えには本来、挫折が含まれる。甘えから受容と禁止の二面性を払拭できないのはこのためである。むしろ、その二面性こそが甘えの大事な特性である。

 

テーゼⅢ;人は甘えを超越しようとする

 外界の危機に対して、子どもは本能的に防衛手段をとる。傷つきやすさから本能的に身を守る。先ず子供は自ら甘えを恐れ禁止する。甘えがなければ傷つかない。甘えなんか初めからないという否認の態度を学習する。「甘え」ては「いけない」という禁止を心の内におく。原初的な罪悪感の発生である。ここで罪悪感とは恐怖感である。甘えの欲求とそれを禁止する罪悪感の間で葛藤が生ずる。こうして甘えの欲求そのものも両価的に分裂する。ここに「甘え」と「恨み」の両価性が生ずる。人は依存対象を求め、必然的に挫折し、痛みを体験する、「恨み」を身に着ける。つまり甘えを取り上げる以上は甘えの傷つきやすさ、両価性、罪悪感に注目することになる。土居先生が頻繫に「なぜ甘えてはいけないと思うのか」と問い掛けるのは、この原初的な罪悪感に切り込む定型的な技法であった。

 人の甘えは挫折する。甘えは傷つきやすい。そして、大人になるにつれて人は甘えを罪悪感とタブーの中におく。無意識の中におく。つまり、大人では幼児的な甘えは超越されねばならない。しかし、甘えの超越とは甘えがなくなることではない。甘えは形を変え都合の良い依存対象に向かうだけのことである。大人になるにつれて甘えの挫折を先取りして、より確かな依存対象を求めることになる。大人が手に入れる新しい依存対象の一つが「自分」のイメージでる。確かな「自分」というイメージを幻想的に確立する。ここに「自分」の意識が形成される。自己と他者のイメージが分化する。こうして確かな自分、「自我の確立」という幻想が形成される。

 ウィニコット、D.W.のホールディング(抱く)という概念を引用し、「抱っこしてあげれば甘えは充たされる」と安易に紹介する本もある。当人がそんなに甘い主張をしているとは思わない。これでは甘えの挫折という本来の宿命的テーマが見えなくなる。つまり、甘えにあるのは宿命的な葛藤であり挫折であり痛みなのだ。甘えを受け止めるとは、甘えをめぐる痛みを受け止めることである。子や親の痛みを受け止める。甘えを完全に満たすことなどは人には出来ない。そこには何らかの意味で甘えからの超越が必要になる。超越。一歩、踏み出すこと、その方法を個人に応じて探り出すのが実践である。

 

テーゼⅣ;信頼は甘えを超越する

 甘えの挫折は自他の分離を生み、そこに「自分」の意識が成立する。しかし、確立された自我だけでは、他者と交わることは出来ない。孤独し自閉的な自己愛的な自我となる。そこでは甘えは形を変え「自分」と他者を結び付けて、「私たち」を形成する。一度、確立した自我は自分の壁を超える。土居先生はその新しいつながりの中心に「信頼」という語を置いた。この意味で、信頼は甘えを超越するのである。信頼の本体は甘えである。しかし、それは甘えを超えた甘えである。この信頼の語こそが重要であるが、現代思想のアキレスの踵といわれる言葉でもある。考えるほど複雑さが分かり、分かりにくいテーマであると分かる。思索者が主題化することを避けてしまうテーマである。

要するに、子供と大人の間の甘えも、いずれは信頼関係に発展しなくてはならない。人とのむすびつきの何処に信頼の端緒を見出すか。こうして「信頼」の一語とともに、土居先生の思考は「信じること」、「祈ること」へと展開していく。ここには信仰問題につながる土居先生の深い思考が展開する。

 実は、「素直な甘え」と「病的な甘え」の対比にも信仰問題が形を変えて内在している。まずは、土居先生のいう「素直な甘え」の原型を見てみよう。ミケランジェロの「ピエタ」の彫刻。それは十字架から降ろされたイエスを膝の上に抱くマリアの姿である。他にもある。聖書のマリアとマルタの物語。イエスの言葉を無心で傾聴するマリア。そこで赤子のような「素直な甘え」が語られる。赤子のようでなければ天国には入れないという聖書の一説が語られる。土居先生の「甘え」の両価性という言葉の背後には、キリスト者として、神の愛と人の愛の対比がある。

 要するに生身の人間は純粋で素朴な甘えの世界にとどまるのは困難なのだ。神の愛のように完全ではないが、決して無意味とは言えない人の愛への共感的で両価的な評価。ここでは、これ以上、この問題に深入りは避けよう。関心ある方は参考文献を当たってほしい。

 要するに人間は不完全であり、甘えも不完全であり、その受け止めも不完全である。その限界から新たな一歩を如何に踏み出すか。これが本来の甘えのテーマである。

 

3.「甘え」という人間関係

 ここまでは土居先生の書いたものに添って、彼の思索過程を紹介した。全体を振り返ってみると、子供であれ大人であれ、甘えからは人と人との関係が見えてくる。この意味では「甘え」理論とは対人関係論なのだ。

「甘え」の欲求は対象との一体化の欲求と定義される。しかし、実際に土居先生によって記載され分析される甘えの現象はこの定義には収まらない。幼児期の母子関係に限っても、依存関係には二つの意味が含まれる。それは縦の関係と横の関係の二つである。縦の関係とは一方の人が絶対的優位にあり、他方がそれに依存する関係である。それは乳を与える母と与えられる赤子の関係である。母は絶対者、子は依存者である。一方的な依存関係である。これはフロイトのいう口唇期の名にふさわしい。

 一方、甘え合う母子の姿はお互いに甘え合っているのであるから、その関係は上下ではなくて相互的である。横の関係である。それは触れて触れられる皮膚感覚に似ている。「ふれあい」、「やさしさ」という言葉が似つかわしい。

 こうして甘えに縦と横の関係の二面性を見る。つまり対人関係における権威性(autority)と相互性(reciprocity)の二つである。まさに土居先生の「甘え」理論は対人関係論である。

 

4.おわりに

 人の愛は不完全である。つまり、甘えについて子も親も援助者も確かな答を持ってはいない。在るのは禁止と受容の両価性だけである。挫折と痛みである。それ故に援助者と母が協力して一緒に「素直な甘え」の発現を試行錯誤で求めていくことになる。そこに「信頼」関係を探っていく。でも、人を信頼することは、人にとって、もっとも勇気が要る難しい行為である。こうして甘えについての問は将来に向かう「生」の探索行為へと私たちを導く。

 冒頭に上げた弁当のエピソード。先生が母へ向けたほのかな敬意と信頼。甘えで大切なのは、この些細な気付きである。その発見が人と人を結び付け、時に、子を人を救う。甘えはあくまでも人間という不可解な存在の深部、誕生の謎に関わる言葉である。ところが、甘えに関わる者は甘えという余りにも馴染みのある言葉によって、「甘えなんかは分かっている」という態度をとってしまう。それこそが「甘い」のである。「甘え」のトリックに落ちたのである。自己の内なる甘えを卒業した人、甘えの本質を知り尽くした人、ましてや甘えを支配できる人、そんな人はいない。「私は甘えを抱きとめられる」と信じるのは大人が持つ幻想の最たるものである。甘えの現場に必要なのは何らかの意味で、超越、つまり、援助者自身が一歩、踏み出すことである。」」

 

 

 


「宮沢先生ご出演!そこまで言って委員会をいっしょに見る会」

2024年05月20日 17時39分42秒 | 気になるニュースあれこれ

2024年5月20日森田洋之医師ツィッタースペース、

Xユーザーの森田洋之@コミュニティードクター/医療経済ジャーナリスト/「医療」から暮らしを守る医師/音楽家さん: 「https://t.co/wGIWhlJSnQ」 / X

 

2024年5月19日放送そこまで言って委員会

TVerにて26日(日)17:59まで公開中、宮沢先生の出演は53分ぐらいから

世の違和感を徹底討論!橋下徹&泉房穂&辛坊治郎 | TVer

 

コロナワクチン健康被害と超過死亡の話、本当にむずかしいですね。色々な人が色々なことを言っています。バラエティー番組の限られた時間の中で、8割が一度は接種済で1回目・2回目の接種後亡くなった方、後遺症に苦しんでいる方もいれば、まだまだ気づいていない方もたくさんいると思われる、7回目、8回目まで接種している方もいる中で、事実として被害認定がこれまでのワクチンと比べて100倍ぐらい?多いこと、亡くなった方がオミクロン株以降増えているという事実を冷静に伝えることは大事だったと個人的には思います。2022年2月、テレビ朝日だったでしょうか、ビートたけしさんが司会をしていた番組でどこかの大学の名誉教授が厚労省の心筋炎ウソデータを持ち出して若者にワクチン打て打てと煽る中で警鐘を鳴らしていた宮沢先生は孤立無援、多勢に無勢、完全にアウエーでした。社会全体がワクチンを打たない奴は非国民であるかのような空気に包まれている頃でした。田嶋陽子さん、83歳ですか、ワクチンによって具合悪くなった可能性があると言える空気にかわったことに隔世の感があります。批判的な意見がテレビに流れたのはかなり前進だと思います。昨日放送後の長尾医師のスペースをきいたら批判的にきこえて個人的には驚きました。宮沢先生はレプリコンワクチンへ反対する理由として人から人へ伝播するという村上名誉教授と井上名誉教授の説には、考えられないと警鐘を鳴らしています。研究者と医師が非科学的な話に一般人を巻き込むべきではないとの意見を頑としてもっているので袂がわかれきてしまったか。むずかしいですね。幾重にも本当にむずかしいです。反対派の中に荒唐無稽な話がたくさん出ているのもたしか。国が肝心なデータをなにも出さない、ワクチンの研究を一切させないのが問題だと思います。まだはっきりしていないことはわからないという姿勢、大事ではないでしょうか。

 

テレビ局の人との信頼関係を築けないとつかってもらえないと宮沢先生。

Xユーザーの宮沢孝幸(Takayuki Miyazawa)さん: 「https://t.co/Il2aUWE8AZ」 / X