これまで、マスコミを始め、広範囲に放射性物質が飛び散ったのは水素爆発だと思い込んでいたが、今回の事故調査報告書では新たな見方をしている。それは事故のあった1~4号機で2号機だけが原子炉建屋が水素爆発せずに残り、外観は最も健全に見えるが、放出された放射能の量は最多で、約40%が2号機から放出されたと推定している。しかも南風に乗って東京を含む関東一円に拡散した模様だ。
政府事故調は計器類の解析から、2号機圧力容器は少なくとも14日午後9時18分ごろまでに閉じ込め機能を喪失、その後もさらに大きな損傷が生じた可能性が高いとした。しかし、具体的にいつ、どの場所から大量放出が始まったかは「特定は困難」としている。
畑村政府事故調委員長は「現場に近づけない中で真相は無理だが、真相に迫る努力はしないといけない。やれる努力はやりましたとしか言えない。何が困難だったかというと、放射線が強すぎて実物に近づけないということに尽きる」と述べ、事実解明は今後の課題となった。
政府事故調で新たに第2原発の対応と比較しているが、東電の事故調査報告書でも判るように全ての電源を失い、高レベルの放射線のため外部からの支援物資も届かない中、まさに必死の中、手探りで何とかした第一原発の勇士を冒涜する記述だ。これまでのどの事故調査報告書にも掲載されない最も重大で歴史に残さなければならないのは、第一原発の吉田所長の証言だろう。東電本社も官邸も混乱する中、全責任を負って事故に対応したことは国民栄誉賞ものだ。現在癌と闘っておられようだが、是非国民に事故の実際を語ってほしい。