行雲流水

阿島征夫、一生活者として、自由に現代の世相を評す。時には旅の記録や郷土東京の郊外昭島を紹介する。

愛新覚羅浩展(~12月2日)に見る手紙の迫力

2018-11-04 18:02:12 | 散歩
私の生まれ故郷杉並区成宗の近く、杉並区立郷土博物館で「愛新覚羅浩展」を開催してることを友人から教わり訪ねた。中公新書で「キメラー満州国の肖像」を読んでたので、ラストエンペラー溥儀の弟溥傑へ嫁いだ愛新覚羅浩のことは知っていたし、娘の愛新覚羅慧生の天城山心中事件も記憶にあった。ところが郷土博物館は初めてだったので、そこが愛新覚羅浩の実家嵯峨家の屋敷跡とは知らなかった。
旧、嵯峨家の庭石
 
今回の展示は浩が嫁いだときの雅やかな婚礼装束が飾られていたが、中心は初公開の浩の手紙と慧生の周恩来首相への手紙で、全て読むのに1時間はかかったが、実物の迫力は凄いものだ。浩が溥傑に嫁ぐ前に学習院の親友に送った3通の手紙からは満州国の皇帝の弟に何とか日本人の嫁をという国家(陸軍?)の方針が窺われる。嵯峨家では陸軍からの要請にもちろん反対で、何とか他の華族の方をと戸惑いすらあり、再三断った。溥傑は日本人なら浩をということから最後は皇后様からのお薦めという手段を陸軍は取り、嵯峨家も浩も決断した。式次第から全て陸軍が執り行い、式の会場は軍人会館(現在の九段会館)だった。外務省も宮内庁も関わりなく、陸軍が全ての時代になっていたかのようだ。
 
その後の二人の結婚生活はラブラブで幸せで二人の娘が生まれたが、満州国の崩壊の後、一家の苦難の歴史が始まった。溥傑は戦争犯罪人として共産中国の撫順刑務所に、慧生は学生生活を日本で送っていたが、浩は次女を連れて1年余も逃亡生活、1947年ようやく日本に帰国した。慧生は日中の懸け橋になりたいと中国語を学習院高等科で勉強し、1953年「父親なら、娘の父恋しい気持ちはお解りになるでしょう」いう手紙を切々と周恩来首相に書いた。これが通じて以後溥傑と一家の文通が可能となった。この慧生の手紙は日本語訳の展示もされている。
 
浩は溥傑への手紙で慧生の死について、早くから日中の懸け橋のになると志を立てていた娘の死は衝撃的で天城山の現場を訪ねて弾丸を見つけたことから決して自死ではないと書いている。
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