阪神・淡路大震災当日の驚愕の朝は今でも鮮明に覚えている。私の社会人のスタートは大阪の営業所で、多くの知人が関西に在住していた。当時、メールもなくただテレビに映る被害を見るしかなかった。最も驚いたのはかつて通勤していた阪急伊丹駅(2階がホームで1階はショッピングセンター)がつぶれた映像だった。
当日金属労協の事務所に出勤し、鉄鋼や電機の被害状況を調べようとしたが連絡もとれず、組織担当者を派遣して調べるほかなく、新幹線が動き次第出発させた。現地は西宮北口まで阪急が動いているとのことでそこから先神戸までは歩くしかなかった。
ジュネーブの国際金属労連本部からは電話が有り、「テレビで神戸の火災が報道されている。詳細がわかり次第報告せよ」とのことで、当日の昼までには全世界に被害状況が流された。
やがて被害がわかるにつけ、六甲道に居た入社当時の上司が亡くなったとの報が届き合掌した。関西に在住したとき、よく言われたのは「東京はしょっちゅう地震があるけど関西は地盤が固いので地震は無い」との信仰で、私の7年間の在住期間全くゆれは無かった。それだけに油断があったのだろう。阪神間の高速道路が根こそぎ倒れたのも、何か油断と関係があったのではないか?今もって不思議だ。
その後、次々と大地震がおこり、阪神・淡路大震災の復興がモデルになったが、幸い津波の被害と原発の被害は無かった。しかし東日本大震災では更に苛酷な被害が重なった。双方に共通しているのは過去の大地震を教訓にしてなかったことだ。
当日金属労協の事務所に出勤し、
ジュネーブの国際金属労連本部からは電話が有り、「
やがて被害がわかるにつけ、
その後、次々と大地震がおこり、阪神・
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