行雲流水

阿島征夫、一生活者として、自由に現代の世相を評す。時には旅の記録や郷土東京の郊外昭島を紹介する。

スペイン紀行 ラマンチャからトレドへ

2011-06-11 16:29:09 | Weblog

スペインの高速道路は制限速度があり、バスは110キロで取り締まりもけっこう厳しいので安全運転だ。ほとんどが無料だが、3割は有料とのこと、逆に言うと7割が国道で自動車専用道路として運用している。

太陽と闘牛とフラメンコ、イスラム文化の影響が色濃く残るアンダルシアから、「ドン・キホーテ」の舞台となった風車の町が点在するラ・マンチャ地方へと入って、A-4号線沿いのプエルト・ラピセという町の「ペンタ・デル・キホーテ」というレストランで昼食。この店は、「ドン・キホーテ」を書いたセルバンテスが泊まった旅籠で、中庭にはドン・キホーテの像が立っている。

ドンキ・ホーテメニューの鶏肉の煮込みの味はもう一つであったが地ワインのカベルネソービニヨンは良かった。昼食後は風車の村・コンスエグラへ。ドン・キホーテが騎士の称号を受けた村で、丘の上に11基の風車が並び、その脇には古城が立っている。これらの風車はドン・キホーテが腕の長い巨人と見間違えて、戦いを挑んだとして知られている。

トレドまでこれまでの緑のオレンジ畑とはうって変わって葡萄畑とオリーブ畑の景色で、灌漑が必要な小麦畑では、米国式の巨大な円を描く給水装置も目に入る。
トレドは街全体が世界遺産で、魅力的な街だが、休日のせいか店は閉まっていた。首都がマドリッドに移る前までの首都で、タホ川に囲まれた要塞のような地形だ。以前来た時にはなかったが、サンマルティン橋を渡ってから市内へと上る全天候型エスカレータが設置されていた。

250年以上もかけて建てた大聖堂は祭壇も見事だが中に展示されてる絵画はこれだけでも価値のある傑作揃いだ。エルグレコ、ゴヤ、ベラスケス、ベルリーニなど離れがたいものばかりだ。ここを出て小さなサントメ教会に並んで入場、たった一枚の壁絵、エルグレコ作「オルガース伯爵の埋葬」を見るために世界中から観光客が来ている。この絵は壁画だけにミラノの最後の晩餐と同じく門外不出のものだけにここで忍耐強く並ばなければならない。

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スペイン紀行 コルドバ

2011-06-09 23:32:04 | Weblog

アンダルシアの首都セルビアから2時間のドライブでコルドバへ、川向こうに巨大なメスキータ(モスクのスペイン語)が見えてきた。イスラム教のモスクの中にキリスト教徒の教会を建てたという珍しい世界遺産だ。中に入ると、林を思わせる柱の数865本で、大理石と赤煉瓦を組み合わせた柱だ。

モスクはイスラム王朝、後ウマイヤ朝を創始したアブデラマン1世により786年建設が始まり、その後コルドバの発展と歩調をあわせるように3回にわたって拡張され、世界最大級のモスクとなった。イスラム建築の特徴であるアーチだが、接着剤を使わないで造る技術は欧州の建築物に応用されている。ちなみに時計、コーヒー、石鹸、万年筆など身近のものでイスラムが発明したものは多い。

スペインでは如何にイスラムの技術が優れていて先進的だったか、そしてそれを後進のキリスト教徒である国々が学んで発展させたかが各地で認識させられた。

コルドバでは豪華な国営ホテルパラドールに宿泊、ところが設備の割にはポーターはいないし、エレベーターも1台しかなかった。失業率が20%を超えているのだからポーターを雇ったらと思う。腰痛を心配しながら荷物を運んだが、コルドバの街を見下ろす高級住宅地に位置するホテルの部屋からの眺めがすばらしかっただけに、何となくちぐはぐに感じた。

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スペイン紀行 セルビア

2011-06-08 22:14:03 | Weblog

セルビアこちらの発音でセビーリャはカルメンをはじめセルビアの理髪師などいろいろなオペラの舞台になった。カルメンでおなじみのたばこ工場(現在はセビリア大学)立派な石造りで、カルメンが働いていたとは想像できない。ビゼーは一度もスペインに来たことないのに良くもあれだけの傑作を作り上げたものだ。

かつての博覧会会場とスペイン広場の壮大さは時のスペインの国力を示している。陶器をこれほど利用した建物は初めてだ。広い庭には掘り割りが有り、かつてスペインを構成した4つの国を象徴する4つの橋が架かっている。欄干は陶器でできており、各州を象徴するベンチも陶器製だ。

コロンブスの塔を見ながら巨大なカテドラルへ、欧州で3番目に大きいそうだ。レコンキスタの後、イスラム寺院を壊し建設された。カテドラルに入り、先ず70mの高さのヒラルダ(風見鶏)の塔にに登り、セビリアの街を俯瞰した。この塔だけはイスラム時代のままで、イスラム様式の塔でキリスト教徒は鐘楼としている。昔はここからイスラムの坊さんが説教したらしいがかなりの大声が必要だったろう。イスラム寺院を壊したもったいなさは次のコルトバで感じることになる。

カテドラルの中にはコロンブスの墓もあり、ここで生まれた画家ムリーリョやゴヤの絵も展示されていた。

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スペイン紀行 コスタデルソル

2011-06-07 19:09:32 | Weblog

かつて通産省がシルバーコロンビア計画と称して、リタイア層が海外で豊かな第二の人生を送る移住計画をぶち上げたけど、構想倒れになった。しかし何人かの余裕あるシルバーがこのコスタデルソル(太陽の海岸)に移住し、その後リタイア後、海外で生活をする静かなブームが続いている。確かに地中海の青と太陽を反射する白い街は美しかった。

グラナダから1時間半、ヨーロッパのバルコニーといわれるネルハでは輝く地中海を見ながらランチを取った。出てきたのは各種地魚の唐揚げだった。

その後、フリヒリアナという白い街を訪れたが、地中海を見下ろす美しい丘の街だった。
泊まりは、ミハスという英国人好みの白い街、ホテルは遙か遠く地中海を見晴すホテルだった。英国からはコスタデルソルの中心地マラガへは格安航空の便があり、3000円ぐらいで来られるのでかなりの移住者がいるとのこと。散歩してたら、小さな闘牛場があり、ここの闘牛は犬ぐらいの大きさで殺すことはしないといっていた。これも英国人を意識してのことだろう。

地中海を見下ろす展望台からはモロッコが見えるというので目をこらしたが霞んでいて見えなかった。

 

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スペイン紀行 グラナダ

2011-06-05 22:02:58 | Weblog

シャラネバタ山脈を越えて白ポプラの原生林を走り、夕方グラナダに到着した。夕食後、サクラモンテの丘にあるタブラオという洞窟へフラメンコを見に行った。タブラオの前からは谷向こうにアルハンブラ宮殿がライトアップされ闇の中に浮かび上がって見えた。ここのフラメンコは以前にマドリッドで見た時間の半分もなくややがっかりした。初めての人はフラメンコはこんなものかと思うのだろう。世界からの観光客でどこのタブラオも満員だった。

翌日、アルハンブラ宮殿へ早朝一番に見物、昨夜の5つ星のホテル「ナサリエス」では水が出なく、部屋替えをしたりして寝たのが1時半だったのでやや眠かったが、宮殿の歴史の重みとイスラム建築のすばらしさで目が覚めた。ここはシェラネバタ山脈の伏流水が豊かで、暑いスペインのオアシスのような処だ。

この国に来て、レコンキスタ(回復)と言う言葉を良く聞いたが、イスラムから国土をキリスト教徒が奪い返した象徴がこのアルハンブラ(アラビア語で赤い城の意)だ。レコンキスタ運動は、この城をイサベラ女王が1492年に奪い返して完結された。平和裏に城の鍵を渡し、当時のイスラムの王が名残惜しそうに振り返りながらモロッコに帰った絵がプラド美術館にあった。

アルハンブラ宮殿の外見は質素そのものだが、内部の豪華さと建築技術はその後のスペインの建築に大きな影響を与えている。一例を挙げると、パティオ(中庭)はイスラム教徒にとって祈る前に身を清めるところだ。従って必ず泉があり、泉が噴水になったりしている。水のない中庭はパティオとはいえない。下の写真はハーレムで鍾乳石のような彫刻が天井に施されていた。

これだけの宮殿がその後、荒れ放題のところを米国人ワシントン・アービングが「アルハンブラ物語」を書いてその価値を評価したため、世に出て修復が重ねられ今日に至った。同名のワシントン・アービングホテルが宮殿の側にあるが、廃業して幽霊屋敷として名を馳せているのは皮肉なことだ。

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スペイン紀行 バレンシア

2011-06-04 17:09:48 | Weblog

バレンシアはかつての絹貿易で栄えた都市であり、オレンジの名産地だ。旧市内では、ロンハという絹の取引所が世界遺産、この建物の中には銀行も商取引に伴う係争を扱う裁判所もあった。中庭はオレンジの林、向かいは世界で最も美しいといわれるマーケットで、ロンドンのコベントガーデンを大きくしたような優雅な市場だ。築地市場も移転するならこのくらい美しいものにしたらどうだろうか。

新市街の開発地域ではオペラ座や恐竜博物館、水族館の斬新なデザインに驚かされた。このオペラ座、魚の形をしている。

毎朝戴くバレンシアオレンジの旨さはありがたい、生ジュースも美味しい。日本のスーパーでは米国産の一回り小さいオレンジをバレンシアオレンジといって売っているが風味は別物だ。

バレンシアからグラナダへ行く道中、広大なオレンジ畑がどこまでも広がり、時折葡萄畑が現れる。海沿いの道はコスタブランカ、白い海岸を走り、建造物も全て見事に白だ。アリカンテというリゾート地で昼食、バレンシア産のワインもなかなかのものだった。

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スペイン紀行 モンセラット

2011-06-02 21:09:55 | Weblog

バルセロナを出て郊外を走ること1時間、妙義山のように奇妙な山並みが見えてくる。妙義山よりこちらの方は丸みを帯びた山塊で、その山中深くに聖地モンセラットがある。修道士、修道女が修行している修道院が海抜750mの処にあり、麓から登山電車、ケーブルカーでも登れる。
ここでは大聖堂(バシリカ)にある聖人像と黒いマリア様が信者の目的で、キリストを抱く黒いマリア様はこれまで見たマリア像の中では最も観音様の顔に似ている。礼拝堂が山中のあちこちに有り、日本で言えば比叡山のような聖地だ。

ガウディがモンセラットの山から影響を受けてサグラダファミリアをデザインしたといわれている。比較してみよう。

 

1890年、企業家グエルが繊維工場を中心とするコロニー(都市工業団地とも言うべきか)をバルセロナ郊外に造り、そこの教会の設計をガウディに依頼した。その建築途中の地下教会は世界遺産となり、それ以上の建築はガウディのデザインを変形させるとの理由でストップが掛かっている。コロニーは今普通の住宅地になっているが当時は炭鉱町のように地域の家族的繋がりのある町だったようで学校も病院も市場までワンセットになっていた。グエルはバルセロナの労働組合の影響を嫌って造った街のようだ。

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スペイン紀行 バルセロナ

2011-06-01 19:03:05 | Weblog

スペインには20年前にマドリッドに滞在した。欧州にしてはイスラムの影響の強い国という印象で、その後の9.11事件でイスラム教と欧米のキリスト教との確執が強くなるにつけ、スペイン再訪を計画した。欧州の中でもイスラムに長い間支配された国だけあってグラナダやコルドバでは日本人には驚くような歴史を積み重ねてきた。

ヨーロッパ人がパリの次に好む街だけあってバルセロナは緑も多く、美しい街だ。サグラダファミリアは予想以上にすばらしい建築で、設計者のガウディ以来数々の建築家(日本人では外尾悦郎による生誕の門のハープを奏でる像)が参加しただけに各時代の特色が盛り込まれている。教会の中に入ると、天国を望むような遙か高い処にまだステンドグラスがはめられてない窓もあり、完成したら是非訪れてみたい。2025年にそれだけの体力が自分にあるかだが

ピカソ美術館では若い頃のだまし絵作品からキュービズムに至る作品が鑑賞できた。後日、マドリッドでゲルニカとの再会したのも感激だった。

グエル公園は何となく楽しい雰囲気で、バルセロナの街と地中海が展望できる。ガウディと計って住宅団地を造ったが売れなかったので公園にしたというが、企業家グエルの道楽は公園の陶器製ベンチや噴水などのガウディの作品と相まって今や必見の観光スポットでにぎあっている。

ガウディ独特の特長のある建築物は街中のアパートでも見ることができるが、現代人の建築物でもすばらしいデザインのものも見受けられ、スペイン人のデザイン感覚はすばらしい。

市中で見かけるサラリーマンやサラリーウーマンは黒のスーツをびっしと決めて、早足で歩く姿はミラノやパリと変わらない。

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