もちろん小さいころは怖いもへったくれもないんだけど、なにしろ私の「ピアノ歴」は「エリーゼのために」を最後に途切れていたので、モーツァルトを人前で弾いたことはないかもしれない。
←オフ会などでのモーツァルト頻度はそんなに高くない
でも仮に弾いたとしたら、「エリーゼのために」の録音を聞くかぎりとにかく平板でカタカタと何もおもしろくないけどそれなりに正確なピアノを弾いていたようなので、別にモーツァルトだからどうだということはないですね。単に、「まだソナタじゃなかった」から弾いたことがないんだろう…
時は流れて、大学生のころ、今度はフルート。
フルート同好会というぬるーいサークルで、人前で演奏するようになったんだけど、フルート曲っていうのが、妙に古い(バロック)のと、妙に新しいのばっかりで、その間が非常~に少ない。ない、わけじゃなくて少ないんだけど、ピアノだったらレパートリーの中心に当たるようなショパン、シューマン、ブラームスといった時代のものがほとんどなくて、あってもなんか超絶技巧をひけらかす系の、吹きたくもなし吹けるわけもなし。
だから貴重なレパートリーとしてモーツァルトの曲というのは気にはなったんだけれどもね。これがどうにも恰好がつかないというか、まともな演奏にならない。音が裏返ったり、音色が済んでいなかったり、間違った音を吹いたり、リズムがヨレたり、とにかく「なんかしたらアウト」「とてつもなく残念」で、傷のない演奏ができたらそこがスタートライン(だとしたら一生吹けない。当たり前だけど)。
だから表面上はずっとややこしいフランスの新しめの曲とかに走るんだけれども(^^;; (多少違った音を吹いても誰もわかりゃしない) まぁ間違ったら即わかるとはいえバッハやテレマンならまだしも人前で吹けるんだよね。あの違いはなんなのかしら。
モーツァルトは、穢れなく、あくまで純粋に美しく弾かねばならないみたいな…
そしてそのあと、ちょうど私が社会人になってすぐぐらいに放映されていた、ワルター・クリーンの「ピアノでモーツァルトを」という番組でその「呪縛」はさらに強固なものとなり(そのあたりのことは記事に書いたことがある「ワルター・クリーンのモーツァルトの呪縛」)、
そこからまた、イングリット・ヘブラー(この人の演奏がまたもうほんとに澄んだ美しさなの)のモーツァルトソナタ全集を買ってしまったためにその呪縛はさらにさらに強靭なものとなり、
…ということは、大人再開ピアノに辿りついたときには既に、「人前でモーツァルトなんか弾けない」というのは鎧レベルに強化されていたんですよ。そのとき30代後半。
それが今、50歳目前の今となってみると、その呪縛の「呪」の字も、というか「じ」の字(^^;; すら残っていなくて、けど呪縛がどのようなプロセスで解けていったのかの記憶があやふや。
ひとつには、年を重ねていくにつれ、ツラの皮が厚くなるとともに、「できるだけうまく見せたい」というような見栄のあたりがすり減ったというのが大きいとは思う。確かに、モーツァルトはちょい間違えただけですぐバレる曲の筆頭ではあるんだけど、まぁごまかすのうまくないしどうせどの曲だってミスしたらわかるわね、四の五の考えても無駄。。
もうひとつは、いろいろな機会に「大人ピアノ」を聞くうちに、そういった素人ピアノの演奏の魅力っていうのが、「傷のない演奏の上に」築かれるという性質のものでないってことが実感できたということかな。
モーツァルトの曲は、いろんなところにいろんな仕掛けがあって、実におもしろく(人を食ったようなところも)できていて、平板どころではない。それを「これはおもしろい」「これはきれい」「おっとこんな展開」と楽しんで弾いていたらそれはそれで聞くほうもそんなにつまらなくはないんじゃないかと(イングリット・ヘブラー路線でなくても)。
モーツァルトなんか弾けない、のコンプレックスの中には、「音階とかちゃんと練習してないし」というのもあったりしたのだけれど、ごくきれいに粒を揃えて快速に軽やかに、現実には弾けてなくても自分の弾きたい音階のそういうイメージ(?)を持って弾けば「そう弾きたいのかな」ということくらいは伝わるかもしれない…という、「妄想がだいじ」とおっしゃるおゆき先生の影響も大きいのかもしれない。
#おゆき先生は妄想だいじとはいったけど、音階弾けてなくてよいとはいってない
ともかく、今年も何かモーツァルトをどこかで弾きたいと思ってるんです。でも、「とりあえず手に当てとくぞプロジェクト」も佳境なので(というかてこずってるので)どうも時間的に辻褄が合ってないかもしれない。
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「はじめての中学受験 第一志望合格のためにやってよかった5つのこと~アンダンテのだんだんと中受日記完結編」ダイヤモンド社 ←またろうがイラストを描いた本(^^)
「発達障害グレーゾーン まったり息子の成長日記」ダイヤモンド社
(今回もイラストはまたろう)
←オフ会などでのモーツァルト頻度はそんなに高くない
でも仮に弾いたとしたら、「エリーゼのために」の録音を聞くかぎりとにかく平板でカタカタと何もおもしろくないけどそれなりに正確なピアノを弾いていたようなので、別にモーツァルトだからどうだということはないですね。単に、「まだソナタじゃなかった」から弾いたことがないんだろう…
時は流れて、大学生のころ、今度はフルート。
フルート同好会というぬるーいサークルで、人前で演奏するようになったんだけど、フルート曲っていうのが、妙に古い(バロック)のと、妙に新しいのばっかりで、その間が非常~に少ない。ない、わけじゃなくて少ないんだけど、ピアノだったらレパートリーの中心に当たるようなショパン、シューマン、ブラームスといった時代のものがほとんどなくて、あってもなんか超絶技巧をひけらかす系の、吹きたくもなし吹けるわけもなし。
だから貴重なレパートリーとしてモーツァルトの曲というのは気にはなったんだけれどもね。これがどうにも恰好がつかないというか、まともな演奏にならない。音が裏返ったり、音色が済んでいなかったり、間違った音を吹いたり、リズムがヨレたり、とにかく「なんかしたらアウト」「とてつもなく残念」で、傷のない演奏ができたらそこがスタートライン(だとしたら一生吹けない。当たり前だけど)。
だから表面上はずっとややこしいフランスの新しめの曲とかに走るんだけれども(^^;; (多少違った音を吹いても誰もわかりゃしない) まぁ間違ったら即わかるとはいえバッハやテレマンならまだしも人前で吹けるんだよね。あの違いはなんなのかしら。
モーツァルトは、穢れなく、あくまで純粋に美しく弾かねばならないみたいな…
そしてそのあと、ちょうど私が社会人になってすぐぐらいに放映されていた、ワルター・クリーンの「ピアノでモーツァルトを」という番組でその「呪縛」はさらに強固なものとなり(そのあたりのことは記事に書いたことがある「ワルター・クリーンのモーツァルトの呪縛」)、
そこからまた、イングリット・ヘブラー(この人の演奏がまたもうほんとに澄んだ美しさなの)のモーツァルトソナタ全集を買ってしまったためにその呪縛はさらにさらに強靭なものとなり、
…ということは、大人再開ピアノに辿りついたときには既に、「人前でモーツァルトなんか弾けない」というのは鎧レベルに強化されていたんですよ。そのとき30代後半。
それが今、50歳目前の今となってみると、その呪縛の「呪」の字も、というか「じ」の字(^^;; すら残っていなくて、けど呪縛がどのようなプロセスで解けていったのかの記憶があやふや。
ひとつには、年を重ねていくにつれ、ツラの皮が厚くなるとともに、「できるだけうまく見せたい」というような見栄のあたりがすり減ったというのが大きいとは思う。確かに、モーツァルトはちょい間違えただけですぐバレる曲の筆頭ではあるんだけど、まぁごまかすのうまくないしどうせどの曲だってミスしたらわかるわね、四の五の考えても無駄。。
もうひとつは、いろいろな機会に「大人ピアノ」を聞くうちに、そういった素人ピアノの演奏の魅力っていうのが、「傷のない演奏の上に」築かれるという性質のものでないってことが実感できたということかな。
モーツァルトの曲は、いろんなところにいろんな仕掛けがあって、実におもしろく(人を食ったようなところも)できていて、平板どころではない。それを「これはおもしろい」「これはきれい」「おっとこんな展開」と楽しんで弾いていたらそれはそれで聞くほうもそんなにつまらなくはないんじゃないかと(イングリット・ヘブラー路線でなくても)。
モーツァルトなんか弾けない、のコンプレックスの中には、「音階とかちゃんと練習してないし」というのもあったりしたのだけれど、ごくきれいに粒を揃えて快速に軽やかに、現実には弾けてなくても自分の弾きたい音階のそういうイメージ(?)を持って弾けば「そう弾きたいのかな」ということくらいは伝わるかもしれない…という、「妄想がだいじ」とおっしゃるおゆき先生の影響も大きいのかもしれない。
#おゆき先生は妄想だいじとはいったけど、音階弾けてなくてよいとはいってない
ともかく、今年も何かモーツァルトをどこかで弾きたいと思ってるんです。でも、「とりあえず手に当てとくぞプロジェクト」も佳境なので(というかてこずってるので)どうも時間的に辻褄が合ってないかもしれない。
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「はじめての中学受験 第一志望合格のためにやってよかった5つのこと~アンダンテのだんだんと中受日記完結編」ダイヤモンド社 ←またろうがイラストを描いた本(^^)
「発達障害グレーゾーン まったり息子の成長日記」ダイヤモンド社
(今回もイラストはまたろう)
私はまだまだまだぜーんぜんなので、これから弾きますよ(笑)
モーツァルトは、でも、確かに勝手に自分流に弾いちゃいけないみたいな縛りを感じます。幻想かもしれないけど…ランランの演奏とか聞いてると「どうでもいいのかな?」って気もちょっとするよ(笑)
『ウィーン協奏曲』の中で、友人のアメリカ人ピアニストがウィーンの酒場でサービスのつもりでヨハン・シュトラウスかなんか弾くんだけど、酒場の客に「アメリカ人のウィンナワルツなんか聞くに堪えないからおとなしく別なもん弾いとけ」みたいなことを言われていたたまれなくなって逃げちゃう。それを見ていた日本人ピアニストは「その国の人でなければその音楽が弾けないなら自分の弾くモーツァルトは何なのか?」と自問自答して、その酒場のピアノでモーツァルトを弾く、みたいな場面がありました。
そういうのを見ると、やっぱりモーツァルトって特別なのかもー、と思うです。自分で弾いたり歌ったりしない私にとっては「元気が出る作曲家」ですが。