秀一が今の圭佑とほぼ変わらぬ年頃だった昔、彼には幼い頃より親同士に定められた婚約者がいた。そこには当然ながらお互いの意思は介在していなかったが、秀一自身は大店の跡継ぎという己の立場を充分承知していたし、何より華やかで明るい雰囲気を持つ婚約者の美登利に不満はなかった。ただ一つの懸念材料と言えば幼い圭佑が何故か美登利に近付こうとしなかった事だが、むしろ秀一にとってはその方が有難かった。成長するにつれて自分に懐いて来るようになった弟を、当時の秀一は毛嫌いしていたのだ。
「しかし、流石に美登利から『どうしても大金が必要になったけれど、貴方以外に頼る相手がいない』と縋られた時は戸惑いましたよ」
大店の跡取りとは言え若輩の秀一に大金など有る訳が無い。かと言って商家の跡取りとして厳しく躾けられた彼に『店の金に手を付ける』いう行動は思考の埒外だったし、何より現実的に不可能だったろう。
それでも秀一は何とか必死に自力で掻き集められるだけの金を用意して、誰にも気取られぬように細心の注意を払いながら美登利との待ち合わせ場所に向かった。
「そして私は、待ち合わせ場所に指定された県境に通じる峠道で何処か見覚えのある男に刃物で刺されて財布を奪われ、程近い林の中にあらかじめ掘ってあったらしい穴に埋められた訳ですが……男の傍らには美登利が居ました」
物言わぬ骸が土中で腐りながら蟲に喰われて肉と腸(はらわた)を失い、やがて白骨と化しても決して消え去る事のない憎悪。
人間にこのような表情が出来るのかと、優吾などは己の背筋を這い上ってくる痺れに似た冷気に身震いを禁じ得ないらしいが、信乃は相変わらず悠然と微笑んだまま尋ねる。
「確か真相は、大店の令嬢が下男と駆け落ちする際に、逃走資金を得るのと時間稼ぎに本来の婚約者を陥れたと言う辺りだったそうですが」
「結局は、そういうことだったらしいですね」
実にあっさりと冷酷な事実を認めてから、それでも『全く女は怖い』などと笑ってみせる秀一。
「そういう訳で、私は本来なら大店の跡取りという重責に耐え兼ね、許嫁を連れて駆け落ちした大馬鹿者の烙印を押されたまま山の中で埋まっていた筈なのですが」
「何故か、そこに圭佑が現れたと」
早急な信乃の態度に秀一は言葉を止めて眉を顰めたが、すぐに一人納得したように頷いてから再び話し始める。
「実際、三つになったばかりの子供が家の者に気付かれぬまま、しかもほんの僅かな時間でどうやってあんな山奥まで辿り着けたのかは未だに解らないし、圭佑も覚えていないそうなのです」
そして結論だけ言ってしまえば、『兄ちゃん、兄ちゃん』と山道で泣いていた圭佑を見付けた通りすがりの木樵が半死半生の秀一を掘り出し、美登利と下男は獄舎に入る事になったのだった。
「病院で一部始終を知らされて、その時ようやく私は圭佑が『神倉屋のてんにんご』で、私もまた圭佑にとっては守るべき存在だったのだと気付かされたのですよ」
圭佑が喋るようになったのはその事件以来でしたと話を締めくくる秀一。
「しかし、流石に美登利から『どうしても大金が必要になったけれど、貴方以外に頼る相手がいない』と縋られた時は戸惑いましたよ」
大店の跡取りとは言え若輩の秀一に大金など有る訳が無い。かと言って商家の跡取りとして厳しく躾けられた彼に『店の金に手を付ける』いう行動は思考の埒外だったし、何より現実的に不可能だったろう。
それでも秀一は何とか必死に自力で掻き集められるだけの金を用意して、誰にも気取られぬように細心の注意を払いながら美登利との待ち合わせ場所に向かった。
「そして私は、待ち合わせ場所に指定された県境に通じる峠道で何処か見覚えのある男に刃物で刺されて財布を奪われ、程近い林の中にあらかじめ掘ってあったらしい穴に埋められた訳ですが……男の傍らには美登利が居ました」
物言わぬ骸が土中で腐りながら蟲に喰われて肉と腸(はらわた)を失い、やがて白骨と化しても決して消え去る事のない憎悪。
人間にこのような表情が出来るのかと、優吾などは己の背筋を這い上ってくる痺れに似た冷気に身震いを禁じ得ないらしいが、信乃は相変わらず悠然と微笑んだまま尋ねる。
「確か真相は、大店の令嬢が下男と駆け落ちする際に、逃走資金を得るのと時間稼ぎに本来の婚約者を陥れたと言う辺りだったそうですが」
「結局は、そういうことだったらしいですね」
実にあっさりと冷酷な事実を認めてから、それでも『全く女は怖い』などと笑ってみせる秀一。
「そういう訳で、私は本来なら大店の跡取りという重責に耐え兼ね、許嫁を連れて駆け落ちした大馬鹿者の烙印を押されたまま山の中で埋まっていた筈なのですが」
「何故か、そこに圭佑が現れたと」
早急な信乃の態度に秀一は言葉を止めて眉を顰めたが、すぐに一人納得したように頷いてから再び話し始める。
「実際、三つになったばかりの子供が家の者に気付かれぬまま、しかもほんの僅かな時間でどうやってあんな山奥まで辿り着けたのかは未だに解らないし、圭佑も覚えていないそうなのです」
そして結論だけ言ってしまえば、『兄ちゃん、兄ちゃん』と山道で泣いていた圭佑を見付けた通りすがりの木樵が半死半生の秀一を掘り出し、美登利と下男は獄舎に入る事になったのだった。
「病院で一部始終を知らされて、その時ようやく私は圭佑が『神倉屋のてんにんご』で、私もまた圭佑にとっては守るべき存在だったのだと気付かされたのですよ」
圭佑が喋るようになったのはその事件以来でしたと話を締めくくる秀一。