武道館前の大銀杏を見た後は、紅葉山へ。期待通りに綺麗に色づいてました。
画像ではわかりませんが、カラスが団体で飛び回ってます。
そして北の丸公園の南西に位置する国立近代美術館工芸館へ。
かつての近衛第一師団司令部庁舎です。
大正4年(1915)から約1年半、近衛師団長を務めた秋山好古の勤務場所でもあります。入館料は200円なのですが、今日は紅葉散歩だからして先を急ぎます。
工芸館のそばに、北白川宮能久親王の胴像ああります。日清戦争の時、台湾へ出征。マラリアにかかり病没されました。皇族でありながら、異境の地で亡くなるとは…。時代だったんですかねえ~。
北の丸公園から東御苑への移動は、北桔橋門を入ります。ここの石垣は高いですねえ。
北桔橋門を抜けると、目の前はかつての江戸城の本丸跡。でも現在は天守台しか残ってません。天守台に上がると、目の前にはど~んと芝生広場が広がっています。かつてはここに建物がひしめいていたんですよ。こんな感じで。
上の画像右奥に見えるのは石室。かつて、大奥の宝物を所蔵していた場所です。この辺りにも紅葉が多くあります。
でも目的はこっち。松の廊下跡です。
ええ。忠臣蔵で有名になった刃傷事件の現場。ダンナいわく「何も残ってない」そうなんだよねえ~。せめて画像奥の土塁の上に上がれたら、向こうは蓮池濠だから、皇居が見えるんだけど、治安と警備の問題からそれは無理~~。
現在の芝生広場。画像中央奥にあるのがかつての天守台。
「江戸城の天守っていつからこんななの?」とダンナがぽつり。「確か江戸の最初の頃にあった火事のもらい火で焼けたんじゃなかったっけ?」と答えましたらば「なんで再建しなかったの?」と納得がいかない様子。「そりゃあ、必要ないからでしょ。江戸みたいに毎年みたいに大火事がある場所なんか、特に立て直してもすぐに焼けるでしょう。だって大名屋敷なんか現代の東京に1個も残ってないじゃん」と言いましたらば、「でもさあ。江戸城なんだよ。将軍の城なのにさ」とまだまだ納得いかない様子。「だから天守ってそもそも物見櫓みたいなもんじゃん。攻めて来る敵をいかに早く見つけるか?みたいな?既に天下が定まってるんだから、天守はなくとも江戸城が日本の中心なんだから天守建て直して権威を示す必要も力を見せつける必要もないし~?みたいな?」「……(納得いかねえ)」「つーか、日本の建物って木と紙で作られてるから、燃えるんだよ。残るのは石と土か?そんで土はなにかに再利用するからこんなふうに石の部分だけ残ってる~っていうの、多いよね」今、日本全国の県庁所在地に残る天守は、戦後ブームで建てた鉄筋コンクリート立てのなんちゃってお城がほとんどなんだよね。燃えなかった天守は維新になって取り潰されたものも多いのだ。もちろんかろうじて現存していた天守もありましたが(主に官軍方についた藩の天守ですね)、それらは第二次世界大戦の時空襲を受けて燃え落ちたのも多いのだ。なにしろお城が軍の施設になってた場所が多いから、いい攻撃目標だったんだろうなあ…」
帰宅後、自分の記憶に今ひとつ自信が持てなかったので調べてみると『江戸城の天守は3回建てられていて、最後は1636年(寛永13年)から翌年にかけて完成。1657年(明暦3年)の明暦の大火で焼失』都合20年しか持たなかったんですね。やっぱり。そして1657年の時の将軍様といえば、家光の子、4代将軍徳川家綱です。やっぱ江戸の早いうちに江戸城から天守は消えてたんです。記憶は正しかった~。綱吉の前だとは思わなんだけど。
芝生広場からかつての天守台を望み向かったのは、東御苑のお池です。お池の手前には、昭和天皇が再現した武蔵野の雑木林が綺麗に紅葉してました。画像はない。つーか、ぼちぼち携帯の電池がヤバい。電池の残量を示す絵が一つ空になってます。…日比谷公園まで持つかな~?
画像ではわかりませんが、カラスが団体で飛び回ってます。
そして北の丸公園の南西に位置する国立近代美術館工芸館へ。
かつての近衛第一師団司令部庁舎です。
大正4年(1915)から約1年半、近衛師団長を務めた秋山好古の勤務場所でもあります。入館料は200円なのですが、今日は紅葉散歩だからして先を急ぎます。
工芸館のそばに、北白川宮能久親王の胴像ああります。日清戦争の時、台湾へ出征。マラリアにかかり病没されました。皇族でありながら、異境の地で亡くなるとは…。時代だったんですかねえ~。
北の丸公園から東御苑への移動は、北桔橋門を入ります。ここの石垣は高いですねえ。
北桔橋門を抜けると、目の前はかつての江戸城の本丸跡。でも現在は天守台しか残ってません。天守台に上がると、目の前にはど~んと芝生広場が広がっています。かつてはここに建物がひしめいていたんですよ。こんな感じで。
上の画像右奥に見えるのは石室。かつて、大奥の宝物を所蔵していた場所です。この辺りにも紅葉が多くあります。
でも目的はこっち。松の廊下跡です。
ええ。忠臣蔵で有名になった刃傷事件の現場。ダンナいわく「何も残ってない」そうなんだよねえ~。せめて画像奥の土塁の上に上がれたら、向こうは蓮池濠だから、皇居が見えるんだけど、治安と警備の問題からそれは無理~~。
現在の芝生広場。画像中央奥にあるのがかつての天守台。
「江戸城の天守っていつからこんななの?」とダンナがぽつり。「確か江戸の最初の頃にあった火事のもらい火で焼けたんじゃなかったっけ?」と答えましたらば「なんで再建しなかったの?」と納得がいかない様子。「そりゃあ、必要ないからでしょ。江戸みたいに毎年みたいに大火事がある場所なんか、特に立て直してもすぐに焼けるでしょう。だって大名屋敷なんか現代の東京に1個も残ってないじゃん」と言いましたらば、「でもさあ。江戸城なんだよ。将軍の城なのにさ」とまだまだ納得いかない様子。「だから天守ってそもそも物見櫓みたいなもんじゃん。攻めて来る敵をいかに早く見つけるか?みたいな?既に天下が定まってるんだから、天守はなくとも江戸城が日本の中心なんだから天守建て直して権威を示す必要も力を見せつける必要もないし~?みたいな?」「……(納得いかねえ)」「つーか、日本の建物って木と紙で作られてるから、燃えるんだよ。残るのは石と土か?そんで土はなにかに再利用するからこんなふうに石の部分だけ残ってる~っていうの、多いよね」今、日本全国の県庁所在地に残る天守は、戦後ブームで建てた鉄筋コンクリート立てのなんちゃってお城がほとんどなんだよね。燃えなかった天守は維新になって取り潰されたものも多いのだ。もちろんかろうじて現存していた天守もありましたが(主に官軍方についた藩の天守ですね)、それらは第二次世界大戦の時空襲を受けて燃え落ちたのも多いのだ。なにしろお城が軍の施設になってた場所が多いから、いい攻撃目標だったんだろうなあ…」
帰宅後、自分の記憶に今ひとつ自信が持てなかったので調べてみると『江戸城の天守は3回建てられていて、最後は1636年(寛永13年)から翌年にかけて完成。1657年(明暦3年)の明暦の大火で焼失』都合20年しか持たなかったんですね。やっぱり。そして1657年の時の将軍様といえば、家光の子、4代将軍徳川家綱です。やっぱ江戸の早いうちに江戸城から天守は消えてたんです。記憶は正しかった~。綱吉の前だとは思わなんだけど。
芝生広場からかつての天守台を望み向かったのは、東御苑のお池です。お池の手前には、昭和天皇が再現した武蔵野の雑木林が綺麗に紅葉してました。画像はない。つーか、ぼちぼち携帯の電池がヤバい。電池の残量を示す絵が一つ空になってます。…日比谷公園まで持つかな~?