六本木のミッドタウン。21_21DESIGN SIGHTを見学後、徒歩10分で到着したのは赤坂氷川神社さんです。ここに大イチョウがあるのだ。
着いてみれば境内が大きい。よく赤坂なんて場所にこれだけ大きい敷地が残ったものだ。
まずは参拝。
説明板発見:赤坂氷川神社
ご祭神:素戔嗚尊・奇稲田姫命・大己貴命(大国主命)
創祀:天暦5年(951)武州豊島郡人次ヶ原(赤坂4丁目一つ木台地)の創祀
遷座:徳川8代吉宗公が将軍職を継ぐに至り。享保15年(1730)老中水野忠之に命じ造営
社殿が素敵〜。派手過ぎない赤色ですね。
あ、ここにも説明板があるや。
東京都指定有形文化財氷川神社社殿
この社殿は本殿・幣殿・拝殿の3つの建物が一体となった、いわゆる権現造りの形式です。
江戸幕府8代将軍の吉宗によって享保15年(1730)に建てられました。
吉宗は「享保の改革」と呼ばれる倹約政策をとったことで有名で、社殿にも当時の質実簡素な気風を見る事ができます。通常は将軍の寄進するような社寺であれば、軒下の組み物を幾重にも重ねたり、彫刻や彩色などで飾り立てたりするのですが、この社殿の組み物は簡素で、彫刻も目立ちません。しかしただ質素なだけではなく、大きな雲形組み物や吹き寄せ垂木など軽快な意匠を取り入れる工夫も見られます。また全体は朱漆塗りとしながら、部分的に黒漆塗りや黒色金具を用いることで引き締まった印象となっています」
この社殿はこの地に氷川神社さんを遷座した当初のものなのですね。よく関東大震災を乗り越え、第二次世界対戦の空襲を乗り越えれたなあ〜。びっくり〜!!
ちなみに社殿前に並ぶ一対の石燈籠ですが、裏を見て更にびっくり。「享保九年 辰歳 閏四月」と彫ってある。ここに遷座したのが享保15年だから、もしかして創祀の地から持って来たのか!有名人が寄進した石燈籠でなく、江戸の庶民の講が寄進したものっぽい。庶民派の暴れん坊将軍らしくて嬉しくなって撮影しちゃいました。
さてと?大銀杏です。今回訪れた目的の樹はどれだ?
これ??なんか、切り貼りしてあるんですけど〜?ええ〜〜??
や、違いました!境内に銀杏が何本かありますが、注連縄付きの樹が他にもある。
これでしょう。大きさからしても。
説明板発見:東京都港区指定文化財 天然記念物氷川神社のイチョウ
目通り(地上1、5メートルの高さ)の幹径2、4メートル、幹周り約7.5メートルを測る推定樹齢400年の巨樹である。
氷川神社の記録をはじめ記載された史料はないが、神社が現在の地に建立された享保15年(1730)には、すでに100年を超える樹齢を有していたこととなり、それ以前からこの地で成育していたと考えられる。
この木は雄株である。
港区内に現存するイチョウでは善福寺「逆さイチョウ」(国指定天然記念物)に次ぐ大きさと樹齢を保っている貴重な樹木である。
もしかして、暴れん坊将軍がこの地に氷川神社を遷座しようと思ったのって、当時樹齢100年超えだったこの樹を見たからかもね〜。100年超えのイチョウだと黄葉すると遠くからでも目立ってたハズ。そりゃあお城からだって見えたでしょうし。ここは坂の上だしね。
さてと?六本木のミッドタウンから来たから氷川神社さんの参道から入ってない。ので、参道を探す。と?石段でした〜。そして石段の外側に、古い狛犬や、最近奉納されたかっこ好い狛犬などがあります。
境内には他にも狛犬がたくさん。奉納するのはやったんだろうか?
どっしりとした大きな石段を下りる。ここさ、江戸時代っぽい。時代劇の撮影出来そう〜。そして石段の下にこんな空間が。
橋を渡りると右手が急な斜面。その斜面に新旧大小の石碑が沢山埋もれるように存在してる。
で、反対側には小さなお社が2つ。
ここは四合(しあわせ)稲荷神社
ご祭神:宇迦御魂の神
実は7社の稲荷の合祀です。明治31年(1898)に4つの稲荷を合祀し、勝海舟が「四合神社」と名付けた。
その後大正14年(1925)に2つの稲荷を合祀、昭和9年(1934)に1つの稲荷を合祀して計7つの稲荷になります。
四合稲荷神社に隣接してある小さなお社。西行稲荷です。
太陽の位置が悪いのと斜面の下に在しており、うまく撮影出来なかったので雰囲気だけお届け。
説明板発見:正一位 西行稲荷縁起
文政(1816-1830)年間、町方書上の赤坂4丁目のり録写したところによれば、町内自身番屋敷地内に古来からあった祠堂で本社は6尺に7尺5寸、拝殿2間四方で前方に3尺に6尺の向拝がありました。
明治以後、町の発展に伴い、大正10年(1921)9月氷川神社境内に移し、別名「火伏の稲荷」ともいい、火災除けのご神徳があると称されております」
現存するお社は更に小さいけど、もとから小さいお社だったのね。
ちなみにこれは南側の最初に入った鳥居です。一の鳥居というらしい。裏に「大正11年9月」ってかいてある。
さてと?思いがけない歴史散歩になりましたが、次へ向います。
補足:8代吉宗に氷川神社の造営を命じられた水野忠之さんってどんな人?
1669-1731 三河岡崎藩主の4男として水野家江戸屋敷で誕生。元禄12年、実兄の養子となり兄が死没の後家督を相続藩主になる。
元禄14(1701)赤穂藩藩主浅野長矩が高家吉良義央に刃傷に及んだときには赤穂藩鉄砲洲屋敷におもむいて取り鎮めにあたった。
翌年12月、赤穂浪士が吉良義央の首をとった事件では、浪士9人を三田中屋敷に預かり厚遇した。
享保2年老中となり、吉宗の享保の改革を支えた。
享保15年、老中を辞し、次男に家督を譲る。享保16年死去。
TVドラマの暴れん坊将軍や大岡越前や水戸黄門なんかにも登場する私らにも馴染みの人でした。
着いてみれば境内が大きい。よく赤坂なんて場所にこれだけ大きい敷地が残ったものだ。
まずは参拝。
説明板発見:赤坂氷川神社
ご祭神:素戔嗚尊・奇稲田姫命・大己貴命(大国主命)
創祀:天暦5年(951)武州豊島郡人次ヶ原(赤坂4丁目一つ木台地)の創祀
遷座:徳川8代吉宗公が将軍職を継ぐに至り。享保15年(1730)老中水野忠之に命じ造営
社殿が素敵〜。派手過ぎない赤色ですね。
あ、ここにも説明板があるや。
東京都指定有形文化財氷川神社社殿
この社殿は本殿・幣殿・拝殿の3つの建物が一体となった、いわゆる権現造りの形式です。
江戸幕府8代将軍の吉宗によって享保15年(1730)に建てられました。
吉宗は「享保の改革」と呼ばれる倹約政策をとったことで有名で、社殿にも当時の質実簡素な気風を見る事ができます。通常は将軍の寄進するような社寺であれば、軒下の組み物を幾重にも重ねたり、彫刻や彩色などで飾り立てたりするのですが、この社殿の組み物は簡素で、彫刻も目立ちません。しかしただ質素なだけではなく、大きな雲形組み物や吹き寄せ垂木など軽快な意匠を取り入れる工夫も見られます。また全体は朱漆塗りとしながら、部分的に黒漆塗りや黒色金具を用いることで引き締まった印象となっています」
この社殿はこの地に氷川神社さんを遷座した当初のものなのですね。よく関東大震災を乗り越え、第二次世界対戦の空襲を乗り越えれたなあ〜。びっくり〜!!
ちなみに社殿前に並ぶ一対の石燈籠ですが、裏を見て更にびっくり。「享保九年 辰歳 閏四月」と彫ってある。ここに遷座したのが享保15年だから、もしかして創祀の地から持って来たのか!有名人が寄進した石燈籠でなく、江戸の庶民の講が寄進したものっぽい。庶民派の暴れん坊将軍らしくて嬉しくなって撮影しちゃいました。
さてと?大銀杏です。今回訪れた目的の樹はどれだ?
これ??なんか、切り貼りしてあるんですけど〜?ええ〜〜??
や、違いました!境内に銀杏が何本かありますが、注連縄付きの樹が他にもある。
これでしょう。大きさからしても。
説明板発見:東京都港区指定文化財 天然記念物氷川神社のイチョウ
目通り(地上1、5メートルの高さ)の幹径2、4メートル、幹周り約7.5メートルを測る推定樹齢400年の巨樹である。
氷川神社の記録をはじめ記載された史料はないが、神社が現在の地に建立された享保15年(1730)には、すでに100年を超える樹齢を有していたこととなり、それ以前からこの地で成育していたと考えられる。
この木は雄株である。
港区内に現存するイチョウでは善福寺「逆さイチョウ」(国指定天然記念物)に次ぐ大きさと樹齢を保っている貴重な樹木である。
もしかして、暴れん坊将軍がこの地に氷川神社を遷座しようと思ったのって、当時樹齢100年超えだったこの樹を見たからかもね〜。100年超えのイチョウだと黄葉すると遠くからでも目立ってたハズ。そりゃあお城からだって見えたでしょうし。ここは坂の上だしね。
さてと?六本木のミッドタウンから来たから氷川神社さんの参道から入ってない。ので、参道を探す。と?石段でした〜。そして石段の外側に、古い狛犬や、最近奉納されたかっこ好い狛犬などがあります。
境内には他にも狛犬がたくさん。奉納するのはやったんだろうか?
どっしりとした大きな石段を下りる。ここさ、江戸時代っぽい。時代劇の撮影出来そう〜。そして石段の下にこんな空間が。
橋を渡りると右手が急な斜面。その斜面に新旧大小の石碑が沢山埋もれるように存在してる。
で、反対側には小さなお社が2つ。
ここは四合(しあわせ)稲荷神社
ご祭神:宇迦御魂の神
実は7社の稲荷の合祀です。明治31年(1898)に4つの稲荷を合祀し、勝海舟が「四合神社」と名付けた。
その後大正14年(1925)に2つの稲荷を合祀、昭和9年(1934)に1つの稲荷を合祀して計7つの稲荷になります。
四合稲荷神社に隣接してある小さなお社。西行稲荷です。
太陽の位置が悪いのと斜面の下に在しており、うまく撮影出来なかったので雰囲気だけお届け。
説明板発見:正一位 西行稲荷縁起
文政(1816-1830)年間、町方書上の赤坂4丁目のり録写したところによれば、町内自身番屋敷地内に古来からあった祠堂で本社は6尺に7尺5寸、拝殿2間四方で前方に3尺に6尺の向拝がありました。
明治以後、町の発展に伴い、大正10年(1921)9月氷川神社境内に移し、別名「火伏の稲荷」ともいい、火災除けのご神徳があると称されております」
現存するお社は更に小さいけど、もとから小さいお社だったのね。
ちなみにこれは南側の最初に入った鳥居です。一の鳥居というらしい。裏に「大正11年9月」ってかいてある。
さてと?思いがけない歴史散歩になりましたが、次へ向います。
補足:8代吉宗に氷川神社の造営を命じられた水野忠之さんってどんな人?
1669-1731 三河岡崎藩主の4男として水野家江戸屋敷で誕生。元禄12年、実兄の養子となり兄が死没の後家督を相続藩主になる。
元禄14(1701)赤穂藩藩主浅野長矩が高家吉良義央に刃傷に及んだときには赤穂藩鉄砲洲屋敷におもむいて取り鎮めにあたった。
翌年12月、赤穂浪士が吉良義央の首をとった事件では、浪士9人を三田中屋敷に預かり厚遇した。
享保2年老中となり、吉宗の享保の改革を支えた。
享保15年、老中を辞し、次男に家督を譲る。享保16年死去。
TVドラマの暴れん坊将軍や大岡越前や水戸黄門なんかにも登場する私らにも馴染みの人でした。
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