JR篠ノ井駅の外に出ました。
長野駅、松本駅に次いで利用者の多い篠ノ井駅。
この駅を出発地として、川中島の戦いへと赴きます。
戦場に向かうのに徒歩ではいささか厳しいので、篠ノ井駅周辺で馬を手配しなければなりませんなぁ。
駅からまっすぐのびる道にある、なんの変哲もない7。
このセブンイレブン篠ノ井布施高田店こそ、馬を貸してはくれませんが、レンタサイクルの窓口になっているのです。
料金は・・・
・8時から13時「午前の部」の5時間で、300円。
・12時から17時「午後の部」の5時間も、300円。
・2つの部は、1時間延長するごとに100円。
・8時から20時の「一日コース」は、600円。
となっています。同じ県でも料金はかなり違うものですねぇ・・・いやいや、これはとんだ失言でしたかな。
7では、自転車の鍵だけを受け取ります。
自転車本体は、斜め向かいにある有料駐車場に停めてあり、鍵の番号と同じ番号の自転車を自分で出すシステムとなっています。
今回の私の相棒。
彼とともに、激戦の地・川中島を駆け抜けます!
川中島へのアクセスは、まず篠ノ井駅からの駅前道路である長野県道387号・清野篠ノ井停車場線を進みます。
そして最初の県道交差点で、県道77号・長野上田線を長野市街方向へ左折。
600メートルほどでこのような青看が現れるので、県道86号・戸隠篠ノ井線を松代方向に右折します。
この交差点・茶臼山公園入口交差点の「茶臼山」は、川中島合戦のおりに武田信玄が最初に布陣していた山だそうです。
しばらく進むと、国道18号との交差点に当たります。
青看でいうところの上越方向へ左折しましょう。
国道18号のオニギリ。
いよいよ戦場に入ったという感覚が・・・。
しばらく進み、この青看が現れたら・・・言うまでもなく右折です!
交差点名も古戦場入口 Kosenjo、そのまんまです。
県道35号・長野真田線に入って400メートル進むと・・・
八幡原古戦場に到着しました。
【今回の行程記録】
セブンイレブン篠ノ井布施高田店 13時30分発
県道387号・77号・86号、国道18号、県道35号経由
川中島史跡公園 14時01分着
*所要時間 31分
*移動距離 5.2km
南信濃を平定し北信濃の制圧を図る、「甲斐の虎」武田信玄。
北信濃の諸豪族を支援し信玄を阻む、「越後の龍」上杉謙信。
元禄3年(1560年)信玄は海津城を築城して最前線とし、城将に「逃げ弾正」の異名をもつ用兵の名手・高坂昌信を配しました。
翌4年8月、上杉政虎、兵13,000を率いて南下。
(※謙信さんは名乗りをたびたび変えていて、この当時は「政虎」だったんです)
そして8月16日、千曲川を渡り、海津城を見下ろす妻女山に本陣を構えます。
8月24日、武田信玄は高坂の注進を受け、兵22,000を率いて茶臼山に布陣します。
8月29日、上杉軍が動かないとみた武田信玄は、全軍を茶臼山から海津城に動かします。
・・・両軍は、妻女山と海津城でにらみ合いを続けていました・・・
兵の数で優位にある武田信玄は上杉軍を殲滅すべく、軍師・山本勘助と重臣・馬場信房(信春)に作戦の立案を命じました。
そして献じられた作戦が、「
海津城にある全軍を二分し、その一隊で妻女山を奇襲する。
妻女山の上杉軍は、奇襲に敗れて山を下りる、または奇襲を撃退しても戦力が落ちているので退却する。
疲弊している上杉軍を、あらかじめ平野に布陣していたもう一隊で迎撃する。
9月9日、作戦は実行に移されたのでした。
そして翌朝・・・武田信玄率いる8,000が本陣を構える八幡原。
午前8時ごろ、あたりを包む霧が晴れると・・・
八幡原にいるはずのない、無傷の上杉軍13,000。
軍神ともいうべき上杉政虎は、前日の海津城から上がる炊煙の多さから、異変を察知したのです。
そして武田軍の裏をかき、夜明け前からひそかに千曲川を渡ってきたのでした。
武田軍は、鶴翼の陣。
上杉軍は、車懸の陣。
兵の数で劣勢に立たされた武田軍は大苦戦に陥ります。
信玄の弟・武田信繁、戦死。
軍師・山本勘助、戦死。
他にも名のある武将が次々と戦死していき、信玄その人にも危機が迫ります。
一方の奇襲部隊・12,000はもぬけの殻の妻女山に到達し、上杉政虎に出しぬかれたことを悟り、八幡原に急行します。
武田信玄の軍勢は、奇襲部隊の到達まで辛くも耐え抜きました。
今度は上杉軍が武田軍に挟まれるかたちとなり、劣勢に立たされます。
両軍入り乱れての大激戦の結果、上杉軍は死者3,000を出し、北へと退却。
武田軍は北信濃の覇権を確固としたものとしましたが、兵4,000と多くの将を失うなど、大きな犠牲を払ったのでした。
激戦から457年後、私はその跡地に足を踏み入れました。
古戦場に鎮座する八幡社。
戦前・・・といっても川中島の戦い前ですが・・・そのころから鎮座していたようです。
八幡社が鎮座していたことから、このあたり一帯は八幡原と呼ばれていたそうです。
激戦に巻き込まれ神殿が破壊されてしまうのですが、戦後に武田信玄が高坂昌信に命じて再建させました。
江戸時代を通じてこの地を治めた真田家も、この八幡社を手厚く保護したそうです。
八幡さまに、従来どおりのごあいさつをいたしました。
八幡社の社殿そばに立つ、ご神木とも見える大木。
この木は
啄木鳥戦法によりこの地に進出した武田軍は、本陣を構えるに際して土塁を造成し、その土止めに
土止めの槐は、驚くべきことに芽吹いて根付き、大木に成長したのだといいます。
この地に残っている凹凸の地形。
案内看板によると、これらは決戦のおりに構えられた土塁の跡なのだといいます。
そして川中島といえば・・・
謙信・信玄一騎打ちの像!!
川中島に行くのは、半ばこの銅像を見に行くためといっても過言ではありません!
武田軍の啄木鳥戦法を看破し、猛烈に攻め立てる上杉軍。
防戦一方となりながらも、なんとか耐え忍ぶ武田軍。
上杉政虎は、愛馬・放生月毛を刈って旗本数騎とともに武田本陣へと乱入。
総大将の武田信玄に自ら3度斬りかかったといいます。
頭に鬼の前立てを擁する諏訪法性兜をかぶる武田信玄。
床几(イス)に腰を据え、手に持つ軍配で3度の斬撃を払ったといいます。
そのうち武田の旗本が駆けつけたため、政虎は本陣を駆け抜けていったそうです。
「三太刀七太刀之跡」の碑が立っています。
一騎打ちの際に信玄は「山のごとく」動かずに政虎の太刀を受け止めたのですが、信玄は二太刀目で腕を、三太刀目で肩を負傷したといいます。
戦後に太刀を受け止めた軍配を見ると、なぜか太刀の痕が7筋あったのです。
軍神・政虎の神業を、後世は「三太刀七太刀」というようになりました。
川中島の決戦における信玄と謙信の一騎打ちは、残念ながら歴史上の記録には残っていません。
しかし信玄がこの戦いで負傷したこと、謙信がこの戦いで自ら太刀を振るって戦ったことは記録に残っているようです。
それだけこの戦いが、歴史上稀に見る激戦だったことを物語っています。
多数の死者を出した戦場なので、
首塚もありました。
海津城の高坂昌信は、敵味方を問わず戦死した者をねんごろに葬ったそうです。
敵将であった上杉謙信はこの計らいに感激し、のちに塩止めをされた武田に対し「敵に塩を送る」ことで報いたそうです。
さてと、ここからは「ニッポン城めぐり」のお話。
このゲームに、武将をコレクションできるという機能があって、その武将にまつわる城を攻略する(城の近くで位置登録する)と登用できるのですが・・・
「古戦場では、参戦していた武将に会えるかもしれませんぞ」
というのがあるのです。
場所は、まさに戦場。
ということで、まだ家臣に加えていない武田信玄と上杉謙信との出会いを祈願して・・・「城攻め」!!
・・・誰だよ?
残念ながら両雄には会えませんでしたが、その時の出会いを大事に想うこととして、佐久間安政さんを家臣に加えました。
八幡社に隣接する公園にて。
松代が生んだ幕末の傑物・佐久間象山の銅像が立っていました。
だから佐久間さんが登用できたのだろうか?
安政さんと象山さんの家系は関係があるらしいのですが、真偽は不明だそうです。
八幡原を後にして、こんどは松代へ。
信玄軍の進路をいわば逆にたどって、私は戦場を駆け抜けます。
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