鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

出雲さんぽ・第1章~お国さんの足跡

2023-04-09 | 公園・庭園


令 和 元 年 神 在 月 廿 参 日 ( 水 )

午 前 拾 壱 時 伍 拾 八 分

島 根 県 出 雲 市

出 雲 そ ば 「 八 雲 」



出雲大社縁結びを祈願した私は、このまま境内を出て・・・



早めのお昼をいただいた「八雲」さんの前に来ていました。
もう一度そばをいただきたかったのですが、さすがにお昼どきとあって中は混みあっているようでした。
おそばは諦め、「八雲」さんの面する国道431号線を西に進み、海へと向かいます。




午 後 拾 弐 時 参 分

出 雲 阿 国 墓 所


「八雲」さんから300メートルほど、ゆっくり歩いて5分ほどで・・・



出雲阿国墓所に着きました。

 (この像は別のところにありますよ~)

出雲阿国(いずものおくに)は、歌舞伎踊りの創始者とされています。
その素性や生涯は伝説に彩られていて定説を見ませんが、出雲国杵築(きつき)(出雲大社のあたり)の鍛冶・中村三右衛門の娘として生まれたと考えられています。
阿国は成長して出雲大社の巫女となり、勧進のため諸国を回り評判となったといいます。

記録では、慶長5年(1600年)京の都にて「クニ」なる人物が「ヤヤコ跳」を踊ったと記されています。
この「クニ」が阿国と考えられ、さらに3年後の慶長8年に「かふきおとり」を踊ったとあることから、歌舞伎踊りを創始したのはこのころと考えられています。

慶長12年(1607年)江戸城で勧進歌舞伎を上演し、これを最後に阿国は歴史の表舞台から消えてしまいます。
その後阿国は出雲に戻って尼となり、87歳で生涯を閉じたという伝承があるそうです。



伝説の女性・出雲阿国が眠るという墓。



墓碑には「歌舞伎元祖 出雲お国墓」とあります。
平成14年(2002年)に修繕されたものです。
阿国の墓の後ろには、阿国の生家とされる中村家の墓があります。


・・・・・・合掌して、次の場所へ。




午 後 拾 弐 時 拾 参 分

奉 納 山 公 園


出雲阿国墓所から約300メートル、ゆっくり歩いて5分ほどで・・・



大きなイチョウの木が前面に立つ奉納山公園の入口へ。
このイチョウは「乳房イチョウ」と呼ばれているそうです。



高台へのぼってみる前に・・・



出雲阿国終焉地の碑
人間国宝であった歌舞伎役者・二代目中村鴈治郎の書によるものです。
ちなみに二代目鴈治郎の長女は中村玉緒でございますぅ~おぼぼぼぼ。



高台の中腹には於国塔が安置されています。
歌舞伎の中村家や市川家をはじめとした役者たちの寄進により、昭和11年(1936年)にはじめて建てられました。
現在の於国塔は、昭和43年(1968年)に再建されたものです。



塔の土台となっている石段には、再建当時に寄進した名優の名を見て取ることができます。




奉納山公園の展望台に上がってみました。
眼下には稲佐の浜、そして日本海



南西の方を見やると、稲佐の浜から続く(その)の長浜、そしてその先にはおぼろげながら三瓶山(さんべさん)も見えますね。
薗の長浜、そして彼方の三瓶山については、「国引き神話」という物語があります。


「国引き神話」は、わが国の正史ともいうべき「古事記」「日本書紀」に記述はなく、「出雲国風土記」にのみ記述がある物語です。
そこでは、八束水臣津野命(ヤツカミズオミツヌノミコト)という神によって国引きがなされたとされています。

最初に造られた出雲国は、「細長い布のように東西に長い、失敗作だ」と八束水臣津野命は考えていました。
そこで志羅紀(しらぎ)高志(こし)都都(つつ)などにあった余った土地を裂いて、綱で引っ張って出雲国に縫い合わせたといいます。
この国引きでできたのが、現在の島根半島だといいます。
志羅紀は朝鮮半島の新羅、高志の都都は「越」の国(越前・越中・越後)・・・ではなく能登国の珠洲(すず)であると考えられています。

八束水臣津野命は、引き寄せた土地が再び離れていかないように、大きな杭を立てて縄で結びました。
のちに、志羅紀からの土地を結んだ綱は薗の長浜稲佐の浜となり、大きな杭は三瓶山となりました。
また、高志の都都からの土地を結んだ綱は弓ヶ浜となり、大きな杭は大山(だいせん)となったといいます。



「国引き神話」の地に想いを馳せ「国引き神話」など知らない当時の私は、ただただ「境港以来の日本海だぁ~」なんて思いながら、ぼんやりと景色を眺めていたのでした。






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