宣教 サムエル記上20章24b節~42節
本日はサムエル記上20章より、ダビデとヨナタンの間に織なされた「二人の友情」に焦点をあてつつ、御言葉を聞いていきたいと思いますが。皆さんには、様々な友人と呼べる方がおられるでしょうが。主にある友、主にある兄弟姉妹が与えられているということは、それはどんなにか人生を歩むうえで大きな支えとなるでしょうか。
①「これまでの流れ」
先々週はイスラエルの民が王を求め、若者サウルが初代王として立てられていくところまで読まれましたが。そのサウル王は戦いに勝利し、権力と財とを想うがまま手にしてゆく中で、いつしか高慢になってゆき、遂に主に対して大きな過ちを犯してしまいます。主はそれを深く嘆かれ、秘かに羊飼いの少年を次の王として立てるべく油を注がれます。それが後のダビデ王となるわけでありますが。
少年ダビデはペリシテ人の大男ゴリアトを倒し、サウル王に気に入られて、その家来となります。ダビデはサウル王が派遣するたびに出陣して勝利を収め、戦士の長に任命されるのです。サウル王にはヨナタンという息子(王子)がいたのですが。この「ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した」(18・1)。それは「自分の着ていた上着を脱いで与え、また自分の装束を剣、弓、帯に至るまでダビデに与えた」(18・4)と記されていますように、サウル王の王子ヨナタンもまた、ダビデを自分のように大切な友として家族同様に迎えたのであります。
まあ、ここまではサウル王はダビデを喜んで迎え入れていたのですが。次第にイスラエルの民がサウル王よりもダビデの方を称賛するようになると、サウルはそのことに激怒し、悔しがり、ダビデをねたみの目で見るようになっていくのです。手にしたものを奪われはしないか、との不安や猜疑心は激しいねたみの炎となってサウルの心をむしばんでゆきます。そうしてサウロ王のうえに神からの悪霊が降り、ダビデを幾度も殺害しようするという、まあ肉の業、人間の業と申しましょうか、神を畏れ敬うことを忘れると、人はかくも恐ろしく変貌してしまうということであります。
②「ダビデとヨナタンの間に」
そして本日の20章へと続いているのでありますが。
ダビデはヨナタンのもとを訪れ次のように自分の身の上について吐露します。
「わたしがあなたの父上に何をしたのでしょう?どうして命を狙われなければならないのでしょうか?」。ヨナタンはこのダビデの言葉を聞き、本当に苦悶したことでしょう。彼はダビデにこう答えます。「決してあなたを殺させはしない。父は何かするときは必ずわたしの耳に入れてくれるから、そんなことにはならない」。するとダビデは「あなたの父上は、わたしとあなたの友情関係を知っているから、「あなたに気づかれてはいけない」「あなたを苦しませたくない」と、考えて何も言わないに違い得ない。「死とわたしの間はただの一歩です」とまあ、そのように訴えるのですね。
この二人の心情は複雑でありました。ヨナタンは、父サウルがダビデに対して善くない思いをもっていることで心を痛め、父とダビデの思いの板挟みとなり、悩み苦しんでいたことでしょう。ダビデも又、サウル王への不信感と、いつ殺されるか分からないというような不安と恐れの中、その息子であるヨナタンに助けを求めざるを得ない状況であります。
そこで、ヨナタンとダビデは、サウル王の思いを探り知るための策を講ずるのであります。それは新月祭の時にダビデが欠席し、その欠席理由をヨナタンがサウル王に伝えた時に、王がそれを「受け入れた」なら、まあひとまず大丈夫だろうと。しかしもし王がそれを「受け入れず立腹し厳しい言動となった」なら、ヨナタンはその危険をダビデに知らせる、ということでした。又、それを知らせるための手はず(合図)を取り決めた上で、最後にヨナタンは言います。「このわたしとあなたが取り決めた事については、主がとこしえにわたしとあなたの間におられる」。
この約束の言葉はダビデとヨナタンを結ぶ最も大事なキーワードでした。主なる神を仲立ちとして信頼関係と友情は成り立っていたのです。二人の思いとその背景は先ほど申しましたように複雑でありました。人の関係や友情は利害を及ぼす問題が生じて来ますと、もろく崩れやすいものであります。そしてひとたび崩れるなら、それを修復するのは困難なことでもあります。しかしヨナタンが言ったように「主がとこしえにわたしとあなたの間におられる」、お互いが、すべては主がご存じであるという信頼関係の中に身を置き続けてゆくなら、たとえ不完全な人の関係であったとしても、それは時と共に導かれ、育まれてゆくでありましょう。
さて、新月祭が来ました。サウル王はダビデが欠席であったことに全く触れることはありませんでしたが、二日目もダビデが欠席していたので、その事について息子ヨナタンに尋ねました。ヨナタンは「ダビデが家族で祭りごとを守るように兄から呼びつけられているのでと言って、家に帰っております」と王に伝えます。それを聞いたサウル王はヨナタンに対して激怒してなじり、「ダビデは死なねばならない」と言い放ちます。サウル王は「エッサイの子(ダビデ)が生きている限り息子ヨナタンの代の王権は不確か」だと言います。そのサウル王の言葉に対してヨナタンは、「なぜ、彼はしななければならないのですか。何をしたのですか」と抗議し、言い返しました。サウル王は自分が憎むダビデに好意を持つ息子に対して、激しく怒り、槍を投げつけます。ヨナタンは、父がダビデを殺そうと決心していること知り、ダビデのために心を痛めるのです。
翌朝、二人が取り決めをした時刻がやって来ます。ヨナタンは年若い従者を連れて野原に出ました。ダビデは野原の岩かげに隠れています。ヨナタンは従者に「矢を射るから走って行って見つけ出して来い」と言いつけます。放たれた矢はダビデのいた場所を越えて落ちました。それはかねてより打ち合わせていたように、「サウル王のダビデへの殺意」を知らせる合図でありました。岩かげにいたダビデは南の方角向かって地にひれ伏して三度礼をします。
ダビデは王に命を狙われている以上、もはや国にいることはできません。一方、ヨナタンは王子という今ある立場に留まっていなければなりません。国を離れることなどできないのです。友情を育んできた二人は厳しい現実の前に引き離されるのです。別れねばならないという現実の前で彼らは互いに泣いたというのです。そしてダビデはいっそう激しく泣いた、と書かれています。
詩編に書かれたダビデの数々の言葉が示すように、彼は油注がれた王であり、預言者でもありました。そのダビデが激しく泣いたのには、単にその立場を追われることや、ヨナタンと会えなくなるということだけではないわけがあったのでしょう。ダビデの涙、それは神への背信ゆえにイスラエルの王座からやがて斥けられてしまうサウルの罪に対する憤りと、イスラエルの行く末を案じて憂う、涙であったのではないでしょうか。
イエスさまはエルサレムへと入城され、神の都エルサレムを眼にされた時、神の「都エルサレムのために泣かれた」(ルカ19:41)と記されております。イエスさまはエルサレムの人々の不信仰ゆえに、やがてこの都は崩壊していくことを深く嘆いて泣かれたのであります。
さて、ヨナタンはダビデとの別れ際、次のように言います。
「安らかに行ってくれ。わたしとあなたの間にも、わたしの子孫とあなたの子孫の間にも、主がとこしえにおられる、と主の御名によって誓い合ったのだから。」(42節)
二人はそのように約束を交わして、それぞれの道を歩んで行くことになります。二人の人生はそれぞれ異なったものとなりましたが、「二人の間にも、その子らの間にも、主がとこしえにおられる」との契約の言葉は、二人にとってきっと平安と希望となったことでしょう。
イエスさまは「神の国はいつ来るのか」と尋ねられた時、次のようにお答えになりました。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」。わたしとあなたの間に主がいつも共におられる。「あなたがたの間」、ここに神の国があるのです。それはどのようなこの世の力や権力をも介入することのできない、天の領域であります。地にあってその交わりの場は、キリストのからだなる教会を基に、おかれているのであります。
最後に、本日のこの個所を読む中で「神と人を隔てる罪の力」「人と人の交わりを断ち切るサタン(悪霊)の働き」というものを見るわけです。
しかし新約の時代に時至り、主は十字架の愛によってその隔ての壁を打ち壊し、互いに結び合わされる聖霊を与えて下さると約束してくださいました。この後主の晩餐が持たれますが。それは主が十字架に架けられて流された尊い血が、あらゆる人間の罪を清めてくださることをあかしします。そのように主は、御子によって神と人、人と人の間の関係を癒してくださり、平安を与えてくださるのです。そのことを私どもはいつも思い起こし、確認して生きていかなければなりません。それは次の御言葉によってそのことがあかしされています。ヨハネ福音書1章14節「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
今日私たちは、ダビデとヨナタンをして、「あなたとわたしの間に主がとこしえにおられる」という力強いメッセージを戴きました。ヨナタンは、父サウルと友人ダビデの間に立って、執り成し役、仲介役をなしていきました。彼はそのことから逃げないで、向き合いました。その事ゆえに彼自身、心傷めることや苦しみ悩みを身に負わなければなりませんでした。ヨナタンがただ人間的な思いで仲介役をなしていたとしたら、きっと彼は押しつぶれてしまっていたでしょう。ヨナタンが厳しい状況におかれても、又親友のダビデと別れなければならなくなっても、彼は最後まで可能な限り、父サウルと友人ダビデの間に立って執り成し役を続けることができたのはどうしてでしょうか。それは、ヨナタンが確かにダビデやサウルの間に立って仲介役をしたわけですですが、その間に、いつも主が共におられ、この主がヨナタンを支え、励ましたからこそ、その働きをなし続けることができたという事ではないでしょうか。
最後にコヘレト4章9~12節の言葉をお読みします。
この「三つよりの糸は切れにくい」。十字架の主が人と人の間に立たれて、そのきずなを強くしてくださるのです。。私たちは聖霊によってそのことを本当に体験していくことができるのです。悩み多き世にあっても、ますます主の愛に生き、生かされつつ、神の国を切に祈り求めてまいりたいものであります。
本日はサムエル記上20章より、ダビデとヨナタンの間に織なされた「二人の友情」に焦点をあてつつ、御言葉を聞いていきたいと思いますが。皆さんには、様々な友人と呼べる方がおられるでしょうが。主にある友、主にある兄弟姉妹が与えられているということは、それはどんなにか人生を歩むうえで大きな支えとなるでしょうか。
①「これまでの流れ」
先々週はイスラエルの民が王を求め、若者サウルが初代王として立てられていくところまで読まれましたが。そのサウル王は戦いに勝利し、権力と財とを想うがまま手にしてゆく中で、いつしか高慢になってゆき、遂に主に対して大きな過ちを犯してしまいます。主はそれを深く嘆かれ、秘かに羊飼いの少年を次の王として立てるべく油を注がれます。それが後のダビデ王となるわけでありますが。
少年ダビデはペリシテ人の大男ゴリアトを倒し、サウル王に気に入られて、その家来となります。ダビデはサウル王が派遣するたびに出陣して勝利を収め、戦士の長に任命されるのです。サウル王にはヨナタンという息子(王子)がいたのですが。この「ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した」(18・1)。それは「自分の着ていた上着を脱いで与え、また自分の装束を剣、弓、帯に至るまでダビデに与えた」(18・4)と記されていますように、サウル王の王子ヨナタンもまた、ダビデを自分のように大切な友として家族同様に迎えたのであります。
まあ、ここまではサウル王はダビデを喜んで迎え入れていたのですが。次第にイスラエルの民がサウル王よりもダビデの方を称賛するようになると、サウルはそのことに激怒し、悔しがり、ダビデをねたみの目で見るようになっていくのです。手にしたものを奪われはしないか、との不安や猜疑心は激しいねたみの炎となってサウルの心をむしばんでゆきます。そうしてサウロ王のうえに神からの悪霊が降り、ダビデを幾度も殺害しようするという、まあ肉の業、人間の業と申しましょうか、神を畏れ敬うことを忘れると、人はかくも恐ろしく変貌してしまうということであります。
②「ダビデとヨナタンの間に」
そして本日の20章へと続いているのでありますが。
ダビデはヨナタンのもとを訪れ次のように自分の身の上について吐露します。
「わたしがあなたの父上に何をしたのでしょう?どうして命を狙われなければならないのでしょうか?」。ヨナタンはこのダビデの言葉を聞き、本当に苦悶したことでしょう。彼はダビデにこう答えます。「決してあなたを殺させはしない。父は何かするときは必ずわたしの耳に入れてくれるから、そんなことにはならない」。するとダビデは「あなたの父上は、わたしとあなたの友情関係を知っているから、「あなたに気づかれてはいけない」「あなたを苦しませたくない」と、考えて何も言わないに違い得ない。「死とわたしの間はただの一歩です」とまあ、そのように訴えるのですね。
この二人の心情は複雑でありました。ヨナタンは、父サウルがダビデに対して善くない思いをもっていることで心を痛め、父とダビデの思いの板挟みとなり、悩み苦しんでいたことでしょう。ダビデも又、サウル王への不信感と、いつ殺されるか分からないというような不安と恐れの中、その息子であるヨナタンに助けを求めざるを得ない状況であります。
そこで、ヨナタンとダビデは、サウル王の思いを探り知るための策を講ずるのであります。それは新月祭の時にダビデが欠席し、その欠席理由をヨナタンがサウル王に伝えた時に、王がそれを「受け入れた」なら、まあひとまず大丈夫だろうと。しかしもし王がそれを「受け入れず立腹し厳しい言動となった」なら、ヨナタンはその危険をダビデに知らせる、ということでした。又、それを知らせるための手はず(合図)を取り決めた上で、最後にヨナタンは言います。「このわたしとあなたが取り決めた事については、主がとこしえにわたしとあなたの間におられる」。
この約束の言葉はダビデとヨナタンを結ぶ最も大事なキーワードでした。主なる神を仲立ちとして信頼関係と友情は成り立っていたのです。二人の思いとその背景は先ほど申しましたように複雑でありました。人の関係や友情は利害を及ぼす問題が生じて来ますと、もろく崩れやすいものであります。そしてひとたび崩れるなら、それを修復するのは困難なことでもあります。しかしヨナタンが言ったように「主がとこしえにわたしとあなたの間におられる」、お互いが、すべては主がご存じであるという信頼関係の中に身を置き続けてゆくなら、たとえ不完全な人の関係であったとしても、それは時と共に導かれ、育まれてゆくでありましょう。
さて、新月祭が来ました。サウル王はダビデが欠席であったことに全く触れることはありませんでしたが、二日目もダビデが欠席していたので、その事について息子ヨナタンに尋ねました。ヨナタンは「ダビデが家族で祭りごとを守るように兄から呼びつけられているのでと言って、家に帰っております」と王に伝えます。それを聞いたサウル王はヨナタンに対して激怒してなじり、「ダビデは死なねばならない」と言い放ちます。サウル王は「エッサイの子(ダビデ)が生きている限り息子ヨナタンの代の王権は不確か」だと言います。そのサウル王の言葉に対してヨナタンは、「なぜ、彼はしななければならないのですか。何をしたのですか」と抗議し、言い返しました。サウル王は自分が憎むダビデに好意を持つ息子に対して、激しく怒り、槍を投げつけます。ヨナタンは、父がダビデを殺そうと決心していること知り、ダビデのために心を痛めるのです。
翌朝、二人が取り決めをした時刻がやって来ます。ヨナタンは年若い従者を連れて野原に出ました。ダビデは野原の岩かげに隠れています。ヨナタンは従者に「矢を射るから走って行って見つけ出して来い」と言いつけます。放たれた矢はダビデのいた場所を越えて落ちました。それはかねてより打ち合わせていたように、「サウル王のダビデへの殺意」を知らせる合図でありました。岩かげにいたダビデは南の方角向かって地にひれ伏して三度礼をします。
ダビデは王に命を狙われている以上、もはや国にいることはできません。一方、ヨナタンは王子という今ある立場に留まっていなければなりません。国を離れることなどできないのです。友情を育んできた二人は厳しい現実の前に引き離されるのです。別れねばならないという現実の前で彼らは互いに泣いたというのです。そしてダビデはいっそう激しく泣いた、と書かれています。
詩編に書かれたダビデの数々の言葉が示すように、彼は油注がれた王であり、預言者でもありました。そのダビデが激しく泣いたのには、単にその立場を追われることや、ヨナタンと会えなくなるということだけではないわけがあったのでしょう。ダビデの涙、それは神への背信ゆえにイスラエルの王座からやがて斥けられてしまうサウルの罪に対する憤りと、イスラエルの行く末を案じて憂う、涙であったのではないでしょうか。
イエスさまはエルサレムへと入城され、神の都エルサレムを眼にされた時、神の「都エルサレムのために泣かれた」(ルカ19:41)と記されております。イエスさまはエルサレムの人々の不信仰ゆえに、やがてこの都は崩壊していくことを深く嘆いて泣かれたのであります。
さて、ヨナタンはダビデとの別れ際、次のように言います。
「安らかに行ってくれ。わたしとあなたの間にも、わたしの子孫とあなたの子孫の間にも、主がとこしえにおられる、と主の御名によって誓い合ったのだから。」(42節)
二人はそのように約束を交わして、それぞれの道を歩んで行くことになります。二人の人生はそれぞれ異なったものとなりましたが、「二人の間にも、その子らの間にも、主がとこしえにおられる」との契約の言葉は、二人にとってきっと平安と希望となったことでしょう。
イエスさまは「神の国はいつ来るのか」と尋ねられた時、次のようにお答えになりました。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」。わたしとあなたの間に主がいつも共におられる。「あなたがたの間」、ここに神の国があるのです。それはどのようなこの世の力や権力をも介入することのできない、天の領域であります。地にあってその交わりの場は、キリストのからだなる教会を基に、おかれているのであります。
最後に、本日のこの個所を読む中で「神と人を隔てる罪の力」「人と人の交わりを断ち切るサタン(悪霊)の働き」というものを見るわけです。
しかし新約の時代に時至り、主は十字架の愛によってその隔ての壁を打ち壊し、互いに結び合わされる聖霊を与えて下さると約束してくださいました。この後主の晩餐が持たれますが。それは主が十字架に架けられて流された尊い血が、あらゆる人間の罪を清めてくださることをあかしします。そのように主は、御子によって神と人、人と人の間の関係を癒してくださり、平安を与えてくださるのです。そのことを私どもはいつも思い起こし、確認して生きていかなければなりません。それは次の御言葉によってそのことがあかしされています。ヨハネ福音書1章14節「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
今日私たちは、ダビデとヨナタンをして、「あなたとわたしの間に主がとこしえにおられる」という力強いメッセージを戴きました。ヨナタンは、父サウルと友人ダビデの間に立って、執り成し役、仲介役をなしていきました。彼はそのことから逃げないで、向き合いました。その事ゆえに彼自身、心傷めることや苦しみ悩みを身に負わなければなりませんでした。ヨナタンがただ人間的な思いで仲介役をなしていたとしたら、きっと彼は押しつぶれてしまっていたでしょう。ヨナタンが厳しい状況におかれても、又親友のダビデと別れなければならなくなっても、彼は最後まで可能な限り、父サウルと友人ダビデの間に立って執り成し役を続けることができたのはどうしてでしょうか。それは、ヨナタンが確かにダビデやサウルの間に立って仲介役をしたわけですですが、その間に、いつも主が共におられ、この主がヨナタンを支え、励ましたからこそ、その働きをなし続けることができたという事ではないでしょうか。
最後にコヘレト4章9~12節の言葉をお読みします。
この「三つよりの糸は切れにくい」。十字架の主が人と人の間に立たれて、そのきずなを強くしてくださるのです。。私たちは聖霊によってそのことを本当に体験していくことができるのです。悩み多き世にあっても、ますます主の愛に生き、生かされつつ、神の国を切に祈り求めてまいりたいものであります。