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ダビデの罪と神の憐れみ

2012-07-22 21:04:05 | メッセージ
宣教 サムエル記下12章1節~23節 

本日はサムエル記下12章より「神の慈しみとダビデの罪」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。聖書教育では15節前半迄となっておりましたが、物語としてはまだ続いており15節で切ると中途半端に終わりますので、23節迄読むことにいたしました。

①「預言者ナタンのたとえ話」
主はダビデのもとに預言者ナタンを遣わしました。
ナタンは「ある町に二人の男がいました。一人は裕福で、一人は貧しかった。裕福な男は多くの羊や牛を持っていたが、貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに何一つ持っていませんでした。貧しい男はその小羊を自分の娘のように養い育て大切にしていました。ある日、裕福な男のところにお客が訪れました。男は客人をもてなすのに、自分の羊や牛を出してもてなすのを惜しみ、貧しい男の持っていた小羊を取り上げて、自分の客に振る舞った」というたとえ話をいたします。

②「ダビデの罪」
これを聞いたダビデは、そのたとえ話に出て来る男に激怒し、ナタンに「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから」と言い放ちます。

そこでナタンはダビデに向かって神の言葉を伝えます。
「その男はあなただ。(中略)不足なら何であれ加えたであろうに。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣にかけて殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。」

ナタンを通してダビデのなした罪(11章に記載されています)が露わにされます。
「そんなことをした男は死罪だ」という激しい糾弾の言葉は、そのままダビデ自身に跳ね返ってくることになるのです。

ダビデはナタンが自分のもとに来るまで、それほど大きな罪を犯したかということを全く自覚していなかったのです。しかし善悪が分からなかったわけではなく、ナタンのたとえ話に激怒したように、他人の間違いや誤りに対しては過敏なほど厳しく裁こうとするのであります。ダビデはこの時、地位や権力、潤沢な財産を有し、まあそれを自分の思うままに用いることも許されておりました。それがゆえに傲慢な者となり、誘惑の罠に自らかかり、大罪を犯すこととなったのであります。9節にあるように、神は「なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか」と憂いておられますが。罪に対して無感覚となり、鈍感になっていったのであります。

イエスさまは新約聖書の中で次のようにおっしゃっています。「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。(中略)まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」(マタイ福音書7章)
自分の行なっている大きな過ちに気がつかず、人の過ちを激しく責めたて、裁く。この時のダビデの姿は決して人ごととは言えないでしょう。神を畏れ敬う人は、イエスさまがおっしゃっているとおり、まず自分の立ち位置をしっかりと主によって確認させられていく、主に立ち返ることが大切であります。そこを起点として他者へと関わっていく術を得ることができるのではないでしょうか。

③「罪の告白」
さて、ダビデは神の大いなる慈しみのもとにおかれていながら、自分が如何に身勝手で重大な罪を犯したかを思い知って、「わたしは主に罪を犯した」と告白します。この時のダビデの心境については、詩編32編、又先程交読いたしました詩編51編に書き綴られております。そこを読みますと、自らが犯した罪を悔い、咎からのきよめと再び神の御前に受け入れられることを切望するダビデの姿があります。
主の深い大きな慈しみが注がれ続けているのにも拘わらず、その主を裏切り、大罪を犯したどうしようもない自分に気づいた時、彼は心の底から主に罪を告白しました。権力も財産も欲しいものは何でも手にしたダビデでしたが、主に立ち返ることにこそ、真の心の安らぎがあるということを、思い知らされるのであります。

④「主があなたの罪を取り除かれる」
ナタンは主に立ち返ったダビデに言います。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。」「主があなたの罪を取り除かれる」と宣言されたこと、それはダビデにとってどれ程の救いであったことでしょう。
けれどもその後に続くのは、主の厳粛な裁きでありました。「しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」
確かに、ダビデの犯した罪は大罪であります。地位と権力を利用して忠実な部下の妻を奪い、それを隠すためにその部下を戦場の最前線に送って剣でもって戦死させたのです。
その罪に応じた裁きが与えられなければなりませんでした。地位を利用してウリヤを剣で他国人に殺させた行為は、そのままダビデの家から流血の争いが絶えないという形で返ってきます。また、後に預言通り、ダビデの妻たちはダビデから取り上げられてしまうのであります。ダビデはウリヤの死後、彼の妻を王宮に引き取り、妻とし、第一子の男の子を与えられるのでありますが、「生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ」とのナタンの預言どおり、その妻の産んだダビデの子は主に打たれ、死んでしまうのです。
 ここには、ダビデの犯した罪に対しては、それに応じた厳粛な神の裁きが行なわれたということが示されています。しかし当の本人であるダビデは死の罰を免れているのですね。
祈祷会の聖書の学びの時に数人の方から、ダビデの罪と全くといって関係のない、彼の子どもの命がダビデの罪のために死んでしまわなければならなかった。「これは理不尽であり、不条理そのものだ」という率直なご意見が出されました。あまりにダビデにえこひいきしすぎで、虫のよい話じゃないか、とですね。エゼキエル書には、「親のなした罪の罰は子孫にまで及ぶことはない。罪を犯した罰はその個々人が負っていかなければならない」と記されてあります。そう考えますと、ダビデの犯した罪の裁きがダビデではなく、子孫に及び、殊にその子どもが死ななければならなかったという事については、人間の心情としては疑問といいますか、不可解というほかない問いであります。
しかし実は、ここに本日の聖書の聖書たる神の言葉なるメッセージが啓示されているのであります。

ここで視点を少し変えて見たいと思うのですが。
このダビデとは何ものでしょうか。確かに、彼はたぐいまれな人物であったでしょう。また地位や権力をもち、あらゆるものを所有した王でありました。が、彼もまた一人の人間でありました。ダビデも人の子でした。
彼は自分の子どもが弱り、亡くなっていくその傍らで、親としてどれほど自分の犯した罪の重たさに打ちひしがれたことでしょう。妻の苦しむ姿も彼には忍びなかったに違いありません。この子は自分の犯した罪のために苦しんで死ななければならないというその罪責にあえぎながら、何とか助かって欲しいと必死に願い、祈り、断食し引きこもりずっと地面に横たわったまま夜を過ごしたというのですね。しかしその思いは叶わず、弱った息子は7日間で亡くなるのです。7日間は、ダビデが自分の底知れないその罪の重みをひしひしと感じる時であったのではないでしょうか。ダビデ自身が死ぬわけではなかったけれども、彼は生きながらにしてその自分の犯した罪の重さを痛切に思い知らされていったのではないでしょうか。
ところが、であります。
ダビデは「息子が亡くなった」との知らせを家臣から聞くと、「地面から起き上がり、身を洗って香油を塗り、衣を替え、主の家に行って礼拝した。王宮に戻ると、命じて食べ物を用意させ、食事をした」というのです。
家臣たちはこのダビデがひきこもり、断食して地面に横たわっていた時との変わりように驚いて、「どうしてこのようにふるまわれるのですか」とダビデに尋ねたといいます。
まあ、ダビデの様子を身近にしていた家臣たちにしてみれば、このダビデの変わりようは驚きであり、不思議でならなかったのでしょう。
それに対してダビデはこう答えています。23節「子が生きている間は、主がわたしを憐れみ、子を生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。だが死んでしまった。断食したところで、何になろう。」しかし今は死んだので、わたしはどうして断食しなければならないでしょうか。」

このダビデの言葉は、何だかとても合理的で薄情に聞こえます。けれども一方で私は何ともいさぎよいと申しますか、現実を受け止め、前に向かって歩み出そうとする姿にも映るのであります。私にはダビデにとって7日間という期間の断食と祈りの日々は、主との関係を立てなおし、回復されていくプロセスであったと、そのように思えるのです。自分の弱さ、ふがいなさ、そして罪深さをまざまざと思い知らされ、それに向き合わねばならない時というのは、本当に辛く苦しいものです。しかし、そのプロセスを経たからこそ、主との関係が立てなおされ、起き上がり、顔を上げて一歩を踏み出せる。そこに信仰者の真の強さがあるのではないでしょうか。

⑤「キリストの十字架」
最後に、私は今日12章15節以降の後半に記されてありますダビデの息子の死をして、聖書の重要なメッセージがあると、今回宣教の準備をしている中でそう示されました。
このダビデの罪を担うかたちで死んでいった息子のことについて、先にも申しましたように、それは人間的な心情としてはあまりに理不尽であり、不条理としかいえません。それが私たちの感情であり、率直な思いであります。

しかし、その理不尽さや不条理というものすべてを抱え込んで死なれたお方がおられます。それは今から2000年前、ゴルゴダの丘の上において十字架刑に処せられて死なれたイエス・キリストであります。
ダビデの罪の為に生れたばかりの罪もない子が死ななければならなかった。キリストは計り知れない人類の罪、私たちすべての人間の罪のために苦しまれ、十字架におかかりになり、罪の贖いを成し遂げられたのです。13節、その「主があなたの罪を取り除かれた。」それはどんなに尊い救いの御言葉でしょうか。この御言葉は、ダビデだけでなく、キリストを通して今やすべての人々に対して語られているのであります。
ダビデが苦悩した7日の後、地面から起きて、神の前にある自らの人生を再び力強く歩み出したように、私たちもまた、主と顔と顔とを合わせ、相見えるその日まで、神の憐れみによって贖われた者としての歩みをなしてまいりましょう。
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