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主への正しい行いと忠実さ

2012-07-08 11:39:54 | メッセージ
宣教 サムエル記上26章

先週はダビデとヨナタンの関係性を通して、主が人の間に立ってくださるという「主にある」私たち人間の関係の大切さとその恵みを聞きました。
本日はサムエル記上26章より、ダビデとサウル王の関係を通して「主への正しい行いと忠実さ」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。

ダビデは主君サウルから命を狙われ逃亡者となります。
実はこの出来事以前の24章にも、本日の箇所と同じようにダビデはサウル王を討つ機会に遭遇します。洞窟に潜んでいたダビデと従者たちのもとに、サウル王が一人で用を足すために入ってくるのです。サウル王はダビデらに気がつきません。その時、ダビデはサウル王を討つことができたにも拘わらず、そっとその上着の端を切り取るだけで、王に手をかけることは致しません。ダビデは「わたしの主君であり、主が油注がれた方に、わたしが手をかけるのを主は決して許されない。彼は主が油注がれた方なのだ」と、兵を説得し、サウルを襲う事を許さなかった、とあります。サウル王はそのようなダビデの態度を通して、主への畏れをもってダビデに悔いる言葉を口にするのです。
しかし、すぐにサウル王は性懲りもなく、再びダビデの命を狙うのであります。そこでダビデら一行は荒野に逃げるのですが、サウル王がダビデを追って荒野に来た時、ダビデは宿営を偵察しに行き、幕営の中で深い眠りに落ちているサウル王を見つけるのです。
ダビデの部下アビシャイは、今こそサウルを討つ時とばかりに「槍の一突きでサウルを殺させてください」とダビデに言います。しかしここでもダビデは、「殺してはならない。主が油を注がれた方に手をかければ、罰を受けずには済まない」とアビシャイを制し、ダビデはただサウルの間近にまで来ていた証拠として、その枕元から「槍と水差し」を取って立ち去ったというのです。その後ダビデは、サウルの軍の長アブネルと会い、彼に「護衛を怠ったことを責め」ます。そのやり取りを聞いていたサウル王は、「自分の命を尊んでくれたダビデの思いを知り、自分の犯した過ちを認めた」というのです。

①「主が油注がれたもの」
今日の箇所で(24章もですが)心にとまりますのは、ダビデがサウル王に対して、「主が油注がれた方に手をかけるわけにはいかない」という一連の言葉であります。
ダビデは自分に危害を加え、命を奪おうとするようなサウル王に対して、「主が油注がれ方である、命を奪ってはならない」と、自らに、又その従者たちに繰り返し言い聞かせたのであります。ダビデは先にサウル王の命を奪うという機会があったのです。けれどもダビデは主への畏れから、自分をねたみ憎悪をもって命を狙うサウル王に対して、同様の憎しみや殺意でもって刃向い、対抗するようなことはしません。その行為を放棄し、主の裁きに任せるのであります。ダビデは、サウル王が油注がれた者として主に立ち返ることを願ったのであります。
ののしられても、ののしり返さず。自分に危害を及ぼすような者であるのに、寛大な心と態度で接し、すべてを主に委ねていく。私はその主の僕の姿を黙想する時、あの主イエスが十字架につけられ、処刑されていった聖書の場面が思い起こされました。福音書には主イエスと共に二人の犯罪人が十字架にかけられていたことが記されていますが。彼らは「イエスをののしった」と記されています。ルカ福音書には、その一人の犯罪人は主イエスをののしりますが、もう一人の犯罪人は、自分の犯した過ちを認め、主イエスの無罪性を訴えました。そして主イエスはそのように主張した犯罪人に向け、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と、言われています。
ダビデはサウル王が主に油注がれた方であるがゆえに王を寛大に扱いました。イエスさまもここで自分の過ちを認めた犯罪人を祝福していますが、何よりも心に留めなければならないのは、イエスさまの十字架は、主に悔い改めた犯罪人だけでなく、「イエスさまをののしった者のためでもあった」ということであります。自分をののしり、嘲笑うような者のために、「父よ、彼らは何をしているかわからないのです、彼らをお許しください」と、とりなされた。それが主イエスの十字架であります。
主イエスは自ら立ち帰ることができない人間の罪さえもその身に負われ、十字架の苦難と死を引き受けられたのであります。主の、このただ一方的な介在によって、人は誰でも、如何なる罪人でも、神との交わりが回復される機会を得ているのであります。

ダビデはサウロに対して、「殺してはならない。主が油を注がれた方」だと、執り成しました。油注がれた者、選ばれた者こそが神の前に尊いとされた時代でありました。
しかし新約の時代に時至り、主イエスは十字架の犠牲の血でもって、贖われた尊いすべての命が、価値ある存在であることを自らお示になられました。
ヨハネ3章16節、「神はその御独り子をたもうほどに、世を愛された」。私ども一人ひとりの命は神の尊い犠牲によって保たれているのです。そういう視点からみれば、私たち一人ひとりの命が、十字架の御業を通して神の油注ぎを受けた存在といっても過言でないでしょう。そして先ほど申しましたように、その救いの道は万人に開かれているのであります。すべての人が、神の寛大な愛のうちに尊い命とされているのです。

話がちょと逸れますが、聖書教育7,8,9月号の本日の箇所についてのコラムに次のようなことが記されていました。
「命どう宝」は沖縄の言葉で、何をおいても命こそが大切である、という意味です。
2002年、101歳で召された阿波根昌鴻(あわごんしょうこう)さんは、伊江島に反戦平和祈念館「ヌチドゥタカラの家」を建てられました。その資料館の正面の壁には「平和とは人間の生命を尊ぶことです」「すべて剣をとる者は剣にて滅ぶ(聖書)」「基地を持つ国は基地で亡び、核を持つ国は核で滅ぶ(歴史)」と書かれています。

ほんとうにそのとおりであると思います。この地上のすべての命は主なる神さまから受けたものであり、罪の滅びから贖いとられた尊い存在であります。その命を殺め、脅かすことは誰もゆるされていません。

先日、被災者補償を刑務所に拘留された者にも行う取り決めがなされたそうです。
ところがそれに対して一般市民から「税金で彼らは支えられているのに、そのうえ補償までもらうのはおかしい」という、反対の声が噴出したという記事を読みました。
たとえ拘留中の者であったとしても、その人も又、神の前にひとりの尊い命を保たれている存在であり、命に優劣がつけられたり、蔑ろにされる命などないと、主の十字架は私たちに訴えているのであります。

②「主への正しい行いと忠実さ」に従う道。
本日の箇所でもう一つ心に留まりましたのは、ダビデが「主は、おのおのに、その正しい行いと忠実さに従って報いてくださいます」と言った言葉であります。

人はそれぞれ人生の経験の中で様々な判断基準をもち、それに従って行動しますが。しかし何が本当に正しい行いなのか、何に対して忠実であるかは、いつも問われることではないでしょうか。
今日のサウル王も、後に王となるダビデも主に油注がれた特別な存在でした。けれども、サウル王は自分を抜きんじていたダビデがねたましく思い、殺意を抱きます。彼は権力への執着から猜疑心が強く、自尊心やプライドが高く、心の狭い者となってしまい、遂に王位を退けられます。二代目の王となったダビデについては、立派で信仰心がある面はありますが、しかしダビデも自分の思いを満たすために、その地位と権力を行使し、深い罪を幾度も犯すのであります。
すなわち、主が油注がれた者も又、罪深い者であり、時として暴走したり、又神の道から逸れるよう罪を犯すこともあり得るということです。

箴言3章5-6節に、「心を尽くして主に信頼し、自分の分別に頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにしてくださる」と記されています。
どんな権威も主によらぬものはなし、と聖書にありますが。私たちは、主のご用のために立てられた指導者たち、教役者にしても、従うということは大事なことであります。しかし。唯闇雲に、盲目的にその指導者に従うということではなく、何よりも肝心なのは、その指導者らを立てたもう主に聞き従うということではないでしょうか。それは私たちにとりまして、そこで十字架の主イエスが何を考え、どう生きられたかということを知ることから始まります。十字架の主イエスが今あなたと、そしてこの世界や社会とどう向き合い、どう関わることを願っておられるかを、心澄ませて聴き、受け取って生きるということであります。
そのような「主への正しい行いと忠実さ」に従う人に、主は必ずや道を拓き、報いてくださるでありましょう。

最後に、フィリピ1章9節の使徒パウロのお言葉を読んで宣教を閉じます。
「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。」

日常の些細なことに振り回されがちな私たちですが、本当に大切なことはそう多くはあり
ません。否、唯ひとつだけだと、イエスさまはおっしゃっています。この真理の御声に今
週も聞きつつ、まっすぐに従ってまいりましょう。
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