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ヨナタンとの約束

2012-07-15 16:25:39 | メッセージ
宣教 サムエル記下9章1節~13節 

①「ヨナタンとの約束」
本日はサムエル記下9章より「ヨナタンとの約束」と題し、御言葉を聞いていきます。
サウル王の死後、その息子イシュボシェトがその後を継ぐべく北イスラエル王として頭角を現わします。一方ダビデも南ユダの王となり、イシュボシェトとダビデの両者は戦いを交えることとなります。結果、ダビデがその勝利を収め、北イスラエルと南ユダの全部族を統一し統治する王となるのであります。
この当時は、前王朝の血族を皆殺しにして完全に一族の家系を絶ってしまうという慣習があったそうです。ダビデが王位につくと恐らくサウル家についてもほぼ断絶の状態になっていたのでしょう。
そこで本日の箇所でありますが。「サウル家の者がまだ生き残っているならば、ヨナタンのために、その者に忠実を尽くしたい」「サウル家には、もうだれも残っていないのか。いるなら、その者に神に誓った忠実を尽くしたい」と口にします。まあどうしてもうほぼサウル家が断絶の状態になってから、そんなことを言い出したのかとも思いますが。王位をめぐる争いの中でも、おそらくダビデの胸中にはかつて主に誓ったヨナタンと約束が絶えずひっかかっていたのでありましょう。ダビデにとってそれは、主の前に必ず果たさねばならない約束であったのです。
かつてダビデはサウル王から命を狙われていた時、王の息子ヨナタンによって命拾いをしたのでした。その時ヨナタンは、「わたしにまだ命があっても、死んでいても、あなたは主に誓ったようにわたしに慈しみを示し、また、主がダビデの敵をことごとく地の面から絶たれたときにも、あなたの慈しみをわたしの家からとこしえに絶たないでほしい」(サムエル記上20:14-15)という約束をダビデと取り交わしたのでした。つまりそれは、ダビデが如何に力を持った時にも、ヨナタンの家の親族のものに慈しみを示してほしい、ということでした。
ダビデは遅まきながらではあったかも知れませんが、このヨナタンとの約束、すなわち「主への誓いを忠実に果たそう」と願ったのであります。

②「神の愛と恵み」
さて、ダビデ王はサウル家に仕えていた執事ツィバから「ヨナタンの息子メフィボシュトという両足が不自由な者がいる」こと聞きます。このメフィボシェトについては、サムエル記下4章4節以下に、「その父ヨナタンが戦死した時5歳で、乳母が抱いて逃げる途中、慌てた際過って彼を落として両足が不自由になった」と記されてあります。それから数年は経った今は、「ヨルダンの東の地に住むマキルという富裕な地主の家にいる」ことを聞いたダビデ王は、人を遣わしてマキルの家から彼を連れて来させます。

ダビデ王は彼に会うや、「恐れることはない。あなたの父ヨナタンのために、わたしはあなたに忠実を尽くそう。父祖サウルの地所はすべて返す。あなたはいつもわたしの食卓で食事をするように」と言います。

メフィボシェトには、サウルの家の子孫として生き残った自分をダビデ王は殺そうとしているのか、という恐怖心が当然あったことでしょう。ところが、ダビデ王の口から出て来た言葉は、彼の予想もしなかったものでありました。
それはダビデ王にとっては、神への、そして親友ヨナタンへの忠実であり、メッシュボシェトにとっては、神の慈愛と救いでありました。かつて約束を交わしたヨナタン。「わたしとあなたの間にも、わたしの子孫とあなたの子孫の間にも主がとこしえにおられる」と誓ったヨナタンは、いつかこの日が訪れることを予見していたのでしょうか。ダビデはその主への誓いとして交わされたヨナタンとの約束を忘れることなく、その子らに果たしたのです。
神はいにしえの昔より、人は罪深く、その罪のゆえに滅ぶほかない者であることを知っておられました。そして人間が滅んでしまうことのないように救いのご計画を立てられ、預言者らを通して必ずや救いの日が訪れることをお約束なさったのであります。神の慈愛と恵みによるそのお約束は今から2000年前、神の独り子なるイエス・キリストが十字架におかかりになるという、人類の罪のあがなう御業を通して果たされました。いや、今も果たされ続けているのであります。

③「見出された魂」
滅びを免れたメフィボシェトはダビデ王に礼をしてこう言います。
「僕など何者でありましょうか。死んだ犬も同然のわたしを顧みてくださるとは」。
自分は命が取られてもおかしくないような立場の者。そのような私を顧みてくださるとは。

敵は反逆を恐れ、すべて殲滅されるような時代であります。ダビデの計らいに対する彼の言葉は決して大袈裟なものではないでしょう。
聖歌の229番「アメージング・グレース」は次のように訳され、歌われています。
1番「.驚くばかりのめぐみなりき、この身のこがれをも知れるわれに」
私たち人間の罪は、全き義であられる神の御目からすれば、まさに滅びるほかないようなものであります。罪の大きい小さいはありません。神の御心すなわち、真理に背くすべての罪は死に価するものであります。その罪の身代わりとなって神の子が罰せられ、死に引き渡されねばならなかった。私たちはそのイエス・キリストの死によって神の御前に義とされ、今や新しい命に活かされているのであります。

先ほどの賛美歌の2番には、
「めぐみはわが身の恐れを消し、まかする心をおこさせたり」と歌われておりますが。
そこには、私たちに与えられたこの大きな救いと解放の業を受けとる時、私たちの中から、滅びの恐れは消え失せ、人生を主に委ねてゆくことの確かさを、それは又世にはない大きな平安を与えられるのであります。

④「神の国の食卓を目指して」
さて、ダビデ王はツィバに「サウルとその家の所有であったものはすべてお前の主人の子息に与えることにした。お前は主人の子息のために生計を立てよ。お前の主人の息子メフィボシェトは、いつもわたしの食卓で食事をすることになる」と命じ、ツィバは王の言うとおりにしたとあります。
クリスチャンとされた私どもも、その恵みに応答していく者、主の恵みに養われたり、養い合っていく者として招かれています。又、「メフィボシェトは王子の一人のように、ダビデの食卓で食事をした」とあります。今や、神の愛と御子イエスさまの十字架のみ業、聖霊の豊かなお導きによって、救われるに価しないような私どもの罪は赦され、救いに与る者とされました。そればかりか、私どもは神の国を受け継ぐ子とされ、来るべき時に王なるキリストと相見えるその時、主と共なる食卓に与る希望が与えられているのであります。それが主の約束の御言葉であります。今、地上にあって主の教会は、この私どもの大阪教会は、その神の国の到来と主と共なる食卓の交わりの時に備えての準備を、日々の歩みの中において忠実になしていくことが本当に大切なのであります。

私ども神さまの変わることのない慈しみと御救い、無限の愛を受けた者は、その恵みに応え、御言葉に従っていくことが求められております。教会に、又私どもと関わるすべての人びとに、主の愛と恵みが満ち溢れていくように、共に祈り、支え合っていくそういったキリストの群れとされていきたいと、心から願うものであります。世にはない神の国の交わりと平安が、ほんとうにこの教会の基として築かれていくように、努めてまいりたいものであります。

ダビデ王は、「その者に神に誓った忠実を尽くしたい」と言いました。ダビデの場合それはメフィボシェトでありました。わたしどもはこの礼拝をだれと共に捧げ、神さまから戴いた愛と恵みをだれと分かち合おうとしているでしょうか。神の国の食卓に、だれと共にあずかろうとしているでしょうか。会堂建築に向けた具体的な歩みが始まりました、それはまた神の国がこの大阪教会に反映されていくためのものであります。喜びと希望をもって、共に祈り、歩んでまいりましょう。
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