ビール飲みオヤジの日々雑感

ビール飲みオヤジが日々感じる雑感を徒然なるままに。

軍艦島に思う

2016年02月21日 | 私事
軍艦島の正式名称は端島(はしま)です。
海から見る島が、当時長崎で造船された軍艦「土佐」に似ているところから「軍艦島」と呼ばれるようになったそうです。
確かに西側からだと・・・ですが、東側からの光景は軍艦に見えなくもありません。
西側から見た島↓

東側から見た島↓


昨年世界文化遺産に登録されるまで、この炭鉱の島についてはテレビで大分昔に何回か視た記憶があります。
しかし、今後の保存方法が最大の課題になるほどのかつての「生活」を感じさせるものを見つけることが難しい「廃墟」の島です。
何しろ1974年に閉山して以来、結果として40余年無人島のままで荒れるに任されていたのですから。


ここ10年、世界文化遺産の登録に向けて島の中に3か所の見学広場と見学通路が整備されたようです。
上陸にあたっては長崎市の条例に基づいた規則を遵守する旨の誓約書を提出しなければなりません。
一方で実際に行って驚いたのは釣り人が島に居て釣り糸を垂れている光景です。
この人たちも誓約書を提出しているのでしょうか?どうもそうは見えませんが・・・


いずれにしても、2月という時期は天然の良港である長崎の入り江から外海に出たところにある軍艦島周辺は波が高いことが多く、上陸できないことも多いそうですが、オヤジの普段の行ないがモノを言い(笑)、波が若干高いとのことでしたが上陸できました。
上陸後は2つのグループに分かれ、1時間弱という限られた時間の中で3か所の見学広場で説明を受けました。

オヤジは第2見学広場でまず総合事務所と第二立坑坑口桟橋跡から。
鉱員の方々は左のレンガの総合事務所で点呼を受けると階段を上がって右側の桟橋から秒速8メートルのエレベーターで600メートル下り、2500m横に移動してさらに400メートル下ったところで採炭をしていたそうです。


次に奥の第3見学広場からの説明、この建物は30号棟ということで、今から100年前に建てられた日本初の鉄筋コンクリート造りの高層住宅だそうです。
今や何時崩れてもおかしくない状況と言われて「なるほど・・・」肯くしかありません。


最後に第1見学広場に戻って端島小中学校。下半分が小学校、上半分が中学校だったそうです。
右側に並んでいるのはベルトコンベアーが通っていて、掘り出した石炭が運ばれ、船で八幡の製鉄所に出荷されていたそうです。


山の上にあるのが幹部社宅。
ここだけは部屋毎に風呂があったそうで、幹部以外は共同浴場、共同トイレだったそうです。


この雑感は決してガイドブックではないので、島の説明はこの辺で。
その後は船に戻って島を東西両方の海から見て帰還。
オヤジは幸い船酔いにはなりませんでしたが、島の周りの外海ではかなりの揺れでした。
それでも平気だったのは飛行機の揺れに慣れてしまったせいでしょうか。(笑)

明治から昭和にかけての日本の経済成長を担ったエネルギー産業の象徴の一つ。
かつてこの島には東京を凌ぐ人口密度の人が集い、島の中で活気ある生活が送られていたことが、もはや信じられないくらいの朽ち果て方ですが、その遺構が今回世界文化遺産に登録されたことでこの歴史的な意義深い場所をどのように保存し、後世に伝えていくのか。
保存については現実には課題も多いようです。

明治日本の産業革命遺産の中では現在も現役で活躍する設備も含まれますが、遺構となった中ではこの軍艦島は比較的最近まで現役でありながら、その朽ち方の激しさが時代の変化の激しさを感じさせます。
所謂「遺構」や「遺跡」とはまた違った思いを抱かせる貴重な「場所」だと感じました。
オヤジにとっては久々に収穫感のある旅行メニューでした。






コメント
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