2019年2月24日、徳若の万代大澤醸造で西宮蔵開2019年のイベントが開催されていたので
西宮に出かけていました。
その時に訪れた場所を写真紹介していきます。
今回はその第10回で傀儡師故跡(かいらいしこせき)を取り上げます。
西宮散策シリーズの過去記事
西宮散策記 on 2019-2-24 その1 夙川公園
西宮散策記 on 2019-2-24 その2 西宮砲台
西宮散策記 on 2019-2-24 その3 西宮神社 境外末社 住吉神社
西宮散策記 on 2019-2-24 その4 洗戎川 旧水門の壁画 By 浜脇中学校美術部
西宮散策記 on 2019-2-24 その5 旧辰馬喜十郎住宅
西宮散策記 on 2019-2-24 その6 白鹿記念酒造博物館(主に酒蔵館)
西宮散策記 on 2019-2-24 その7 西宮蔵開2019 徳若
西宮散策記 on 2019-2-24 その8 白鷹禄水苑 蔵BAR
西宮散策記 on 2019-2-24 その9 白鷹禄水苑の展示室
上の写真は傀儡師 故跡と書かれた石碑と説明板
上の写真は上記「傀儡師故跡」の石碑と説明部の近景
明治時代の中頃に最後の傀儡師・吉田小六氏が廃業してからは傀儡師が完全に
姿を消す事となりました。この傀儡師故跡もそれを惜しんで建てられました。
淡路の人形浄瑠璃や大阪文楽座のルーツとも言える傀儡師(くぐつし)の芝居小屋は
往時の1690年ころには約40軒あったと言われています。
西宮神社の雑役を務め乍ら「人形繰り」で判り易く戎神の神徳を全国に広め西宮神社の
名前を有名にしました。西宮神社にとって「傀儡師」人々は恩人とも言えます。
説明部の要旨を転記しておきます。
「傀儡師」とは「くぐつし」とも「かいらいし」とも呼ばれ、人形芝居を行う
芸能者たちの事を指します。西宮には古くから傀儡師たちが住み着いており、
現在もこの碑ある地は産所と言いますが中世以来西宮のゑびすさまに係わる
人形まわしの一団がこの付近に定住し全国各地に人形をあやつりながら戎神の
神徳をわかりやすく説いて廻りました室町時代の末には京都の宮廷にも参入して
上覧に供した*1ことが記録に残っています。
またここの人形芝居の小屋へは尼崎城主松平候の息女たちも度々見物に来
当時一般大衆に歓迎されてなかなか盛大であったのが幕末の頃から衰退して
遂に惜しくも消滅してしまいました。西宮から操の技を伝えたと言われている
淡路や大阪文楽座の人形浄瑠璃はわが国固有の伝統芸能として尊重され
今日に至っているのであります。
西宮神社名誉宮司 吉井良尚 撰
*1「御湯殿上日記」によれば永禄11年(1568)に、西宮の「ゑびすかき」が
宮中に参入し繰りを上覧に供したと記載。
酒造の町・西宮は、彼らの地道な活動のおかげで「えべっさんの宮」としても有名になり、
全国各地で行われていた「えびす信仰」が「西宮えびす」を総本社として収斂されていく
事となりました。彼らの人形芝居の評判は高く、安土桃山時代には評判を聞きつけた
後陽成天皇が西宮の「えびすかき」を御覧になったという記録も残されています。
上の写真は「史跡 傀儡師故址」と書かれた石碑
上の写真は現地説明板。そのまま転記し添付しておきます。
この附近は昔産所といわれた所で1690年頃には40軒程の傀儡師(人形操を業とする者)
が住んでいた。傀儡師は遠く平安末期に現れ傀儡師、木偶まわし、人形まわしなどと
呼ばれ諸地方を巡廻興業していたが室町時代にはいるとその一部がこの産所の地に
住みつき西宮神社の雑役奉仕のかたわら神社のお札を持って諸国を巡り、お得意の人形を
踊らせながらご神徳をひろめた。
1590年頃にはその人形芸が「えびすかき」又は「えびすまわし」といわれて全国的に知られる
ようになりたびたび京都の宮廷で天覧を受けるまでになった。さらにその後発展して淡路の
人形座や文楽人形浄瑠璃芝居へと成長していった。
しかし1850年頃から彼らはおいおいこの地からなぜか姿を消してしまった。おそらくは世相の
変遷や好みの変化によるものと思われる。傀儡師らは永らくこの産所の地に住み祖神と信ずる
百大夫を崇拝して神社にまつり守護神としたがその社は産所の地が1840年頃に衰微するに至った
時すぐ近くの西宮神社の境内に移されて現存している。
上の写真は摂津名所図会に描かれた人形繰り
「くぐつ」の人達が演じた人形繰りを「夷〈ゑびす)かき」または「夷まわし」と言われていました。
上の2枚の写真は西宮神社の摂社「百大夫神社」と現地説明板
芸能の神様として芸能人の参拝者が多いようです。
銅像や石碑のある場所が書かれた地図も添付しておきます。
上の写真の地図の右下に5番の数値が書かれた場所に建っています。
(地図はうえが南に表記されていますので注意が必要)
西宮に出かけていました。
その時に訪れた場所を写真紹介していきます。
今回はその第10回で傀儡師故跡(かいらいしこせき)を取り上げます。
西宮散策シリーズの過去記事
西宮散策記 on 2019-2-24 その1 夙川公園
西宮散策記 on 2019-2-24 その2 西宮砲台
西宮散策記 on 2019-2-24 その3 西宮神社 境外末社 住吉神社
西宮散策記 on 2019-2-24 その4 洗戎川 旧水門の壁画 By 浜脇中学校美術部
西宮散策記 on 2019-2-24 その5 旧辰馬喜十郎住宅
西宮散策記 on 2019-2-24 その6 白鹿記念酒造博物館(主に酒蔵館)
西宮散策記 on 2019-2-24 その7 西宮蔵開2019 徳若
西宮散策記 on 2019-2-24 その8 白鷹禄水苑 蔵BAR
西宮散策記 on 2019-2-24 その9 白鷹禄水苑の展示室
上の写真は傀儡師 故跡と書かれた石碑と説明板
上の写真は上記「傀儡師故跡」の石碑と説明部の近景
明治時代の中頃に最後の傀儡師・吉田小六氏が廃業してからは傀儡師が完全に
姿を消す事となりました。この傀儡師故跡もそれを惜しんで建てられました。
淡路の人形浄瑠璃や大阪文楽座のルーツとも言える傀儡師(くぐつし)の芝居小屋は
往時の1690年ころには約40軒あったと言われています。
西宮神社の雑役を務め乍ら「人形繰り」で判り易く戎神の神徳を全国に広め西宮神社の
名前を有名にしました。西宮神社にとって「傀儡師」人々は恩人とも言えます。
説明部の要旨を転記しておきます。
「傀儡師」とは「くぐつし」とも「かいらいし」とも呼ばれ、人形芝居を行う
芸能者たちの事を指します。西宮には古くから傀儡師たちが住み着いており、
現在もこの碑ある地は産所と言いますが中世以来西宮のゑびすさまに係わる
人形まわしの一団がこの付近に定住し全国各地に人形をあやつりながら戎神の
神徳をわかりやすく説いて廻りました室町時代の末には京都の宮廷にも参入して
上覧に供した*1ことが記録に残っています。
またここの人形芝居の小屋へは尼崎城主松平候の息女たちも度々見物に来
当時一般大衆に歓迎されてなかなか盛大であったのが幕末の頃から衰退して
遂に惜しくも消滅してしまいました。西宮から操の技を伝えたと言われている
淡路や大阪文楽座の人形浄瑠璃はわが国固有の伝統芸能として尊重され
今日に至っているのであります。
西宮神社名誉宮司 吉井良尚 撰
*1「御湯殿上日記」によれば永禄11年(1568)に、西宮の「ゑびすかき」が
宮中に参入し繰りを上覧に供したと記載。
酒造の町・西宮は、彼らの地道な活動のおかげで「えべっさんの宮」としても有名になり、
全国各地で行われていた「えびす信仰」が「西宮えびす」を総本社として収斂されていく
事となりました。彼らの人形芝居の評判は高く、安土桃山時代には評判を聞きつけた
後陽成天皇が西宮の「えびすかき」を御覧になったという記録も残されています。
上の写真は「史跡 傀儡師故址」と書かれた石碑
上の写真は現地説明板。そのまま転記し添付しておきます。
この附近は昔産所といわれた所で1690年頃には40軒程の傀儡師(人形操を業とする者)
が住んでいた。傀儡師は遠く平安末期に現れ傀儡師、木偶まわし、人形まわしなどと
呼ばれ諸地方を巡廻興業していたが室町時代にはいるとその一部がこの産所の地に
住みつき西宮神社の雑役奉仕のかたわら神社のお札を持って諸国を巡り、お得意の人形を
踊らせながらご神徳をひろめた。
1590年頃にはその人形芸が「えびすかき」又は「えびすまわし」といわれて全国的に知られる
ようになりたびたび京都の宮廷で天覧を受けるまでになった。さらにその後発展して淡路の
人形座や文楽人形浄瑠璃芝居へと成長していった。
しかし1850年頃から彼らはおいおいこの地からなぜか姿を消してしまった。おそらくは世相の
変遷や好みの変化によるものと思われる。傀儡師らは永らくこの産所の地に住み祖神と信ずる
百大夫を崇拝して神社にまつり守護神としたがその社は産所の地が1840年頃に衰微するに至った
時すぐ近くの西宮神社の境内に移されて現存している。
上の写真は摂津名所図会に描かれた人形繰り
「くぐつ」の人達が演じた人形繰りを「夷〈ゑびす)かき」または「夷まわし」と言われていました。
上の2枚の写真は西宮神社の摂社「百大夫神社」と現地説明板
芸能の神様として芸能人の参拝者が多いようです。
銅像や石碑のある場所が書かれた地図も添付しておきます。
上の写真の地図の右下に5番の数値が書かれた場所に建っています。
(地図はうえが南に表記されていますので注意が必要)