2019年NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」の前半の主役で中村勘九郎が
演じる金栗四三と共に明治45年(1912)にストックホルム大会に参加した三島弥彦(生田斗真)
をテーマに取り上げます。
恥ずかしながら、金栗四三、三島弥彦ともに大河ドラマを観る前はまったく知らない
人物でした。
参照したのは下記の本とWebサイトです。
尚友ブックレット34 尚友倶楽部、内藤一成、長谷川怜 編集 三島弥彦 伝記と資料(2019)
本の表紙を添付しておきます。
以降、特記のないものは上記の書籍からの引用です。
略年譜
明治19年(1986)2月23日 警視総監三島通庸・和歌子の五男として東京三田四国町に出生
明治21年(1888)10月23日 父・通庸が死去
明治24年(1891)9月 学習院初等科入学、以後中等科、高等科に進む
上の写真は明治36年に撮影された三島弥彦
明治40年(1907)7月12日 学習院高等学科卒業
同年 9月 東京帝国大学法科大学に入学
明治44年(1911)11月18・19日 オリンピック派遣選手予選に出場(羽田運動場で実施)
上の写真は100mの記録(12秒)が記載された賞状
明治45年(1912)2月15日 オリンピック派遣選手に決定
5月16日 新橋発
5月17日 敦賀発
上の写真敦賀からウラジオストクの航海の船上での記念撮影
6月2日 ストックホルム着
7月5日 オリンピック入場式に旗手として出場
7月6日 100m予選に出場 予選敗退
7月10日 200m予選に出場 予選敗退
7月12日 400m予選に出場 予選通過するも辞退
注)明治→大正の改元は7月30日
大正2年(1913)2月7日 世界各地を歴訪後に帰国
7月14日 大学を卒業し横浜正金銀行本店に入行
11月11日 横浜正金銀行 サンフランシスコ支店勤務を命ぜられる
大正5年(1916)4月8日 横浜正金銀行ニューヨーク出張所勤務を命ぜられる
大正7年(1918)12月 横浜正金銀行ロンドン支店勤務
大正8年(1919)3月7日 兄の弥太郎死去
大正9年(1920)11月11日 横浜正金銀行本店勤務(現・神奈川県立歴史博物館)
大正12年(1925)1月 子爵鍋島直柔の5女の文子と結婚
大正13年(1926)12月3日 母・和歌子死去
昭和3年(1928)7月 横浜正金銀行上海支店支配人代理就任
以降、海外支店及び本店に勤務
昭和18年(1943)2月22日 横浜正金銀行退職
昭和23年(1948)12月 大日本体育協会会賓就任
昭和26年(1951) 福貿易株式会社社長就任
昭和27年(1952)9月1日 第7回国民体育大会陸上競技役員就任
昭和28年(1953) 石丸証券社長就任
昭和29年(1954)2月1日 世田谷区深沢町の自宅にて69歳で死去(心臓麻痺)
上の写真は晩年の三島弥彦
第5回オリンピックストックホルム大会
第5回オリンピックストックホルム大会は明治45年(1912)5月5日より7月27日まで開催された。
参加国は28、男子2,359名、女子48名の計2,407名が参加した。
アジア地域より初めて参加した日本からは金栗四三(1891-1983)と三島弥彦が参加。
のちに第5代IOC会長となるアベリーオリンピックストックホルム大会・ブランテージや
第2次世界大戦で英雄となったジョージ・パットンも選手として参加した。
上の3枚の写真は第5回オリンピックストックホルム大会の入場式で旗手を務めた三島弥彦を
中心に撮ったものです。
上の写真は三島弥彦が使用したシャツとシューズ
一方の金栗四三は地下足袋のランニングシューズを使用して走った。
上の写真はストックホルムの陸上競技場
上の2枚の写真は第5回オリンピックストックホルム大会でプラカードを持つ金栗四三や
団長として参加した加納治五郎を中心として撮られた写真。
出典:NHKテレビ2019-1-9 22:25より放送の歴史秘話ヒストリア
「東京オリンピックに懸けた男たち」
金栗四三は54年8か月6日5時間32分20秒3で世界一遅いマラソン記録を残している
天狗倶楽部
天狗倶楽部は明治42年(1909)頃、大の野球好きであった冒険小説家の押川春浪を中心に
野球を中心に相撲、テニス、柔道、陸上競技、ボート競技など多岐にわたるスポーツの
愛好社交団体でメンバーには吉岡信敬(早稲田大学応援団初代団長)、中沢臨川(りんせん)
(文芸評論家)さらに野球殿堂入りした人物を5人輩出。
押川春浪のバンカラぶりは凄く明治学院で野球に目覚めた後、東北学院、札幌農学校(北大)
水産伝習所(現 東京海洋大学)、早稲田大学と転々とし多くの逸話を残している。
現在の学生相撲のルーツは天狗倶楽部の活動によるものです。
三島家 関係系図
演じる金栗四三と共に明治45年(1912)にストックホルム大会に参加した三島弥彦(生田斗真)
をテーマに取り上げます。
恥ずかしながら、金栗四三、三島弥彦ともに大河ドラマを観る前はまったく知らない
人物でした。
参照したのは下記の本とWebサイトです。
尚友ブックレット34 尚友倶楽部、内藤一成、長谷川怜 編集 三島弥彦 伝記と資料(2019)
本の表紙を添付しておきます。
以降、特記のないものは上記の書籍からの引用です。
略年譜
明治19年(1986)2月23日 警視総監三島通庸・和歌子の五男として東京三田四国町に出生
明治21年(1888)10月23日 父・通庸が死去
明治24年(1891)9月 学習院初等科入学、以後中等科、高等科に進む
上の写真は明治36年に撮影された三島弥彦
明治40年(1907)7月12日 学習院高等学科卒業
同年 9月 東京帝国大学法科大学に入学
明治44年(1911)11月18・19日 オリンピック派遣選手予選に出場(羽田運動場で実施)
上の写真は100mの記録(12秒)が記載された賞状
明治45年(1912)2月15日 オリンピック派遣選手に決定
5月16日 新橋発
5月17日 敦賀発
上の写真敦賀からウラジオストクの航海の船上での記念撮影
6月2日 ストックホルム着
7月5日 オリンピック入場式に旗手として出場
7月6日 100m予選に出場 予選敗退
7月10日 200m予選に出場 予選敗退
7月12日 400m予選に出場 予選通過するも辞退
注)明治→大正の改元は7月30日
大正2年(1913)2月7日 世界各地を歴訪後に帰国
7月14日 大学を卒業し横浜正金銀行本店に入行
11月11日 横浜正金銀行 サンフランシスコ支店勤務を命ぜられる
大正5年(1916)4月8日 横浜正金銀行ニューヨーク出張所勤務を命ぜられる
大正7年(1918)12月 横浜正金銀行ロンドン支店勤務
大正8年(1919)3月7日 兄の弥太郎死去
大正9年(1920)11月11日 横浜正金銀行本店勤務(現・神奈川県立歴史博物館)
大正12年(1925)1月 子爵鍋島直柔の5女の文子と結婚
大正13年(1926)12月3日 母・和歌子死去
昭和3年(1928)7月 横浜正金銀行上海支店支配人代理就任
以降、海外支店及び本店に勤務
昭和18年(1943)2月22日 横浜正金銀行退職
昭和23年(1948)12月 大日本体育協会会賓就任
昭和26年(1951) 福貿易株式会社社長就任
昭和27年(1952)9月1日 第7回国民体育大会陸上競技役員就任
昭和28年(1953) 石丸証券社長就任
昭和29年(1954)2月1日 世田谷区深沢町の自宅にて69歳で死去(心臓麻痺)
上の写真は晩年の三島弥彦
第5回オリンピックストックホルム大会
第5回オリンピックストックホルム大会は明治45年(1912)5月5日より7月27日まで開催された。
参加国は28、男子2,359名、女子48名の計2,407名が参加した。
アジア地域より初めて参加した日本からは金栗四三(1891-1983)と三島弥彦が参加。
のちに第5代IOC会長となるアベリーオリンピックストックホルム大会・ブランテージや
第2次世界大戦で英雄となったジョージ・パットンも選手として参加した。
上の3枚の写真は第5回オリンピックストックホルム大会の入場式で旗手を務めた三島弥彦を
中心に撮ったものです。
上の写真は三島弥彦が使用したシャツとシューズ
一方の金栗四三は地下足袋のランニングシューズを使用して走った。
上の写真はストックホルムの陸上競技場
上の2枚の写真は第5回オリンピックストックホルム大会でプラカードを持つ金栗四三や
団長として参加した加納治五郎を中心として撮られた写真。
出典:NHKテレビ2019-1-9 22:25より放送の歴史秘話ヒストリア
「東京オリンピックに懸けた男たち」
金栗四三は54年8か月6日5時間32分20秒3で世界一遅いマラソン記録を残している
天狗倶楽部
天狗倶楽部は明治42年(1909)頃、大の野球好きであった冒険小説家の押川春浪を中心に
野球を中心に相撲、テニス、柔道、陸上競技、ボート競技など多岐にわたるスポーツの
愛好社交団体でメンバーには吉岡信敬(早稲田大学応援団初代団長)、中沢臨川(りんせん)
(文芸評論家)さらに野球殿堂入りした人物を5人輩出。
押川春浪のバンカラぶりは凄く明治学院で野球に目覚めた後、東北学院、札幌農学校(北大)
水産伝習所(現 東京海洋大学)、早稲田大学と転々とし多くの逸話を残している。
現在の学生相撲のルーツは天狗倶楽部の活動によるものです。
三島家 関係系図