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滝善三郎が切腹した永福寺(かって神戸市兵庫区にあった)

2021年08月04日 05時22分54秒 | 昔こんなものがあった 昭和編

本日は神戸事件の責めを負って外国の公使の前で滝善三郎が切腹した場所(兵庫永福寺)

の紹介をします。この永福寺は戦災で焼失して現存していません。

 

上の写真はかって存在していた永福寺の本堂

撮影年月日は不明であるが戦前に撮られたもの(昭和)と推定

 出典:荒尾親成 編「ふるさとの想い出 明治・大正・昭和 神戸」(1979)

永福寺はどこにあったか

かって兵庫津にあった永福寺は現在も存在する南仲町にありました。

 

上の写真は現在の地図に永福寺跡の場所を明示したものです。
地図は地下鉄海岸線の中央市場前の駅の出口付近に掲示(撮影:2024-3-19)
上の写真は俗称「元禄絵図」と呼ばれる元禄9年(1696)に1万2千分の1の縮尺
で書かれた絵図(部分)の能福寺があった場所を明示したものです。


上の写真は明和6年(1769)の「兵庫津絵図」に永福寺の位置を示しました
兵庫津ミュージアムの常設展示よりで兵庫津の見どころも挿入されています。
撮影:2024-3-19

慶応4年(1868)1月11日(1868.2.4):神戸事件、三宮神社前を東進中の備前藩の隊列を横切ろうとしたフランス水兵と藩兵の軽微な接触に端を発し、沖に停泊中の外国艦隊(米・英・仏計18隻)から陸戦隊が上陸し備前藩と交戦した(「神戸事件」)。外国軍は居留地を占拠し、東西に関門を設けて日本人の通行を制限し、維新政府に恫喝的書状を送った。両軍に死者は出ていない。維新政府は、勅使・東久世通禧を神戸に派遣した。東久世は神戸運上所で6か国公使と会見し、天皇親政の国書を手渡して日本側の政権交代を告げ、衝突事件の日本側の責任を認め、責任者の処刑を約束した。備前藩小隊長瀧善三郎が、外国側と日本側立会いの下、兵庫永福寺で切腹した。

慶応4年(1868)1月15日(1868.2.8):
 勅使・東久世通禧、神戸で外国代表に政権交代を告げ事件処理。

 

 

上の写真は明治元年(1868)2月9日午後11時30分兵庫の永福寺において
各国代表者の立会いのもと行われた瀧善三郎正信の切腹の様子が描かれた画と
背景などが書かれた説明書きの写真です。2008-8-8撮影

上の写真は滝善三郎切腹の図 かねてつ食品社長 村上忠雄氏所蔵

出典:市民のグラフ こうべ No.26 (1974年3月)Page14-15

上の写真は滝善三郎が母と姉に宛てた遺言状

出典:市民のグラフ こうべ No.26 (1974年3月)Page15

能福寺の境内に標題の神戸事件の犠牲者瀧善三郎正信顕彰碑があります。(上の写真)
下の写真の説明書きのように、元は能福寺の東100mのところにあった永福寺に
建立されたものである。


瀧善三郎正信は備前藩士で500名の備前の警備隊の第三砲隊長であった。
神戸事件の概要(三宮神社前の説明文より引用)は以下のとおりです。
神戸開港早々の明治元年(1868)正月11日、尼崎へ出向を命じられた岡山備前藩の隊士の行列が三宮神社前を通過するとき、神戸沖に停泊中の外国軍艦の乗組員数名が行列を横切った。隊士の瀧善三郎正信は日本の風習から無礼を怒って相手を傷つけた。それがもとで外国兵と備前藩士の一行との間に砲火を交える騒ぎとなった。その結果、神戸の街は外国兵によって一時占拠されてしまった。
同月15日、東久世通禧は勅命で神戸へ来て明治維新で天皇新政となったことを初めて外国側に知らせ同時にこの事件について交渉をした。結局、瀧善三郎は責任を一身に負い外国人代表ら立会いの面前で切腹して問題は解決した。
フランス兵2名が隊列を横切りにたいして槍でその兵に軽傷を負わせた。
死者が出ていない事件に対して1人の切腹は刑が重過ぎるという考えもあったが、
備前藩士瀧善三郎正信の切腹で問題は解決した。
神戸の開港1ヶ月後に起きた神戸事件は明治新政府にとって初めての外交交渉となった。
この事件の穏便解決で活躍したのは明治元年(1868)5月23日兵庫県の初代知事と
なった伊藤博文(当時28歳の青年であった)である。
伊藤博文は偶然事件翌日の1月12日に神戸に立ち寄っていた。
伊藤博文まず大阪の外国事務取調掛の東久邇通禧(ひがしくにみちとみ)を勅使として神戸の
各国の公使を集めて「王政復古」を宣言した後、新政府の代表者として認めさせたうえで
事件解決の交渉に入っていった。
1月16日に外国公使の示した条件は厳しいもので岡山藩側の発砲を命じた士官は死罪
であった。こうして瀧善三郎正信の切腹は2月9日午後11時30分兵庫の永福寺において
各国代表者の立会いのもと行われた。
この切腹により日本の危機は脱せられた。
下の写真は昭和8年(1933)有志により永福寺に建てられた顕彰碑である。
永福寺が戦火で消失したため能福寺に移転されたものである。


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