本日は文久3年(1863)、大阪湾防備のため着工し元治元年(1864)8月に完成した
湊川崎台場(湊川崎砲台)を取り上げます。
出典:J.R.ブラック「The Far East Vol.2 No.XV Ⅱ(1872)
上の写真がかって存在していた湊川崎砲台(湊川崎台場)です。
湊川崎砲台(台場)は、既述のように元治元年(1864)幕府により建立されました。
大阪湾岸防備の為勝海舟によって兵庫県内の和田岬、西宮などと同時期の文久3年
(1863)に砲台位置が定められ、元治元年(1864)8月完成した。
完成後はこの地域の守備を担当していた高松藩に受け渡された。
湊川崎台場は明治以降も陸軍省の所属として残されていたが、陸軍省資料によると
明治25年(1892)3月16日に原因不明の火災で内部木造部が焼失した。
その後、焼け残った木材や石材が民間に払い下げられ、まったく姿を消してしまった。
和田岬砲台については下記のブログを作成しています。
勝海舟が設計の和田岬砲台跡 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)
西宮砲台については下記のブログを作成しています。
西宮散策記 on 2019-2-24 その2 西宮砲台 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
上の写真は「川崎石堡塔」の断面図
出典:「築城史料 全」1910年発行、編著者不明 (財)日本城郭協会覆刻
湊川崎台場は、石堡塔を中心に外郭部が造られたが、和田岬砲台のような星型ではなく
西宮砲台と同じ円形であった。入り口は1か所で門と石堡塔の間に目隠しの横塘を置く。
また、砲台が完成した元治元年(1864)暮から明治5年(1872)までのわずか7年余りの
うちに屋根が架けられたことが上に示した写真より判ります。
上の写真はGoogle地図の上に湊川崎台場があった場所を赤丸で示しました
所在地の住所は神戸市中央区東川崎町2丁目(川崎重工株式会社の敷地内)
川崎重工の浮きドッグの北側にありました。
さらに詳しく調査したい方は下記史料を参照してください
1) 高久智広著 「史料紹介 和田岬・湊川砲台関係史料について」1~3
神戸市立博物館研究紀要 第20号(2004)、第22号(2006)、第25号(2009)
2)文化遺産オンラインのサイト
(和田岬・湊川砲台(台場)関係資料 文化遺産オンライン (nii.ac.jp)
3)木村 寿夫, 山田 幸一著 和田岬石堡塔について
日本建築学会論文集 1984 年 345 巻 p. 175-182
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