昨日の続きです。
それで、ホントに昨日の続きで、“タレカツ丼”の説明のついでに、ちょっこと触れた“ソースカツ丼”何ですが、昨日書き終わってから、ふと思い出したのです。
それは、浅草の“河金”と云うお店のことです。あれは、今から何年前になるのやら、記憶があまりハッキリしないのです。店は“国際劇場”の跡地にできた“浅草ビューホテル”の脇に「あった」のです。
河金のことは、本か雑誌で知ったのだと思います。浅草ではそれなりに有名で、昔から芸人とか文士とかが出入りしていた“とんかつ屋さん”だったのです。
店に行ったのは、未だ東京に住んで居た頃で、国際劇場がホテルに変わった数年後だったような気がするのです。ホテルが開業したのが1985年(昭和60年)の9月ですから、1990年前後のような・・・・・・。
でも、しかし、今でも、ハッキリ覚えているのは、店の屋根に建っていた“とんかつ 河金”の白地の看板です。煙突の補強鉄骨に取り付けられていたような・・・、看板単独で建ったいたような・・・・・・。
兎に角、こんな看板が浅草通りからもハッキリ見えたのです。それで、河金(かわかね)の名物は“カツカレー丼”でした。しかし、その日、何故か? 私は“ソースカツ丼”を注文したのです。
カツ丼の中で、“ソースカツ丼”は一度も食べていなかったこと、そして、店の中では“河金特製トンカツソース”と書かれたラベルを貼ったソースが売られていたことが、判断を誤らせた原因でした。
1918年(大正7年)に“河金丼”として誕生した“カツカレー丼”を押しのけて、注文してしまった“ソースカツ丼”には、見事に期待を裏切られました。
店の外観を見た時から、店内に足を踏み入れた時から、どうも“様子”が“かなり変”だったのです。
店の向かいは出来立てピカピカの高層ホテル、ところが河金はと云えば、大正から続く老舗と云うよりも、何とかやっとこ生き延びて、老いぼれて、くすんで、うらぶれて、これが!あの河金?と云うような、寂しげな外観でした。
外観に驚きつつ、店内に入ると、そこはもう、場末の、昭和の、定食屋さんと云った様子。薄暗く、埃っぽく、床はコンクリートの打ちっ放しで、長年の汚れで黒ずんでいるのです。
昼時を少し過ぎていたと思います。店内に客は一人も居ませんでした。
テーブルはパイプ脚のデコラテーブル、表面のデコラはあちこちにヒビが入り隅の方は欠けているのです。何かの間違い? 何かトンデモナイ店に入ってしまったと思いつつ、店内の様子をいろいろと見回したのです。
あまり小綺麗でないオジサンが椅子に座ってテレビを眺め、奥の厨房にもう一人の従業員が居るようでした。
そんな風景のなかで食べる“ソースカツ丼”は、なんとも寂しい味がしました。浅草が華やかに賑わって居た頃は、河金にも勢いがあり、トンカツにも勢いがあり、美味しくて、繁盛していたのでしょう。
浅草が寂れ、国際劇場が閉館し、河金も寂れていったのでしょう。それから暫くして、河金は閉店したようです。わたしの食べた“ソースカツ丼”には、浅草の歴史が、それなりにつまっていたのかも・・・・・・。
今でも河金の流れをくむ店は浅草近辺に何軒かあるようです。いつの日にか、元祖“河金のカツカレー丼”を食べて見たいと思います。懐かしい味だと聞いてます。
今日は、新潟を離れ、浅草に来てしまいました。あすから、また新潟に戻ります。
それでは、また明日。
それで、ホントに昨日の続きで、“タレカツ丼”の説明のついでに、ちょっこと触れた“ソースカツ丼”何ですが、昨日書き終わってから、ふと思い出したのです。
それは、浅草の“河金”と云うお店のことです。あれは、今から何年前になるのやら、記憶があまりハッキリしないのです。店は“国際劇場”の跡地にできた“浅草ビューホテル”の脇に「あった」のです。
河金のことは、本か雑誌で知ったのだと思います。浅草ではそれなりに有名で、昔から芸人とか文士とかが出入りしていた“とんかつ屋さん”だったのです。
店に行ったのは、未だ東京に住んで居た頃で、国際劇場がホテルに変わった数年後だったような気がするのです。ホテルが開業したのが1985年(昭和60年)の9月ですから、1990年前後のような・・・・・・。
でも、しかし、今でも、ハッキリ覚えているのは、店の屋根に建っていた“とんかつ 河金”の白地の看板です。煙突の補強鉄骨に取り付けられていたような・・・、看板単独で建ったいたような・・・・・・。
兎に角、こんな看板が浅草通りからもハッキリ見えたのです。それで、河金(かわかね)の名物は“カツカレー丼”でした。しかし、その日、何故か? 私は“ソースカツ丼”を注文したのです。
カツ丼の中で、“ソースカツ丼”は一度も食べていなかったこと、そして、店の中では“河金特製トンカツソース”と書かれたラベルを貼ったソースが売られていたことが、判断を誤らせた原因でした。
1918年(大正7年)に“河金丼”として誕生した“カツカレー丼”を押しのけて、注文してしまった“ソースカツ丼”には、見事に期待を裏切られました。
店の外観を見た時から、店内に足を踏み入れた時から、どうも“様子”が“かなり変”だったのです。
店の向かいは出来立てピカピカの高層ホテル、ところが河金はと云えば、大正から続く老舗と云うよりも、何とかやっとこ生き延びて、老いぼれて、くすんで、うらぶれて、これが!あの河金?と云うような、寂しげな外観でした。
外観に驚きつつ、店内に入ると、そこはもう、場末の、昭和の、定食屋さんと云った様子。薄暗く、埃っぽく、床はコンクリートの打ちっ放しで、長年の汚れで黒ずんでいるのです。
昼時を少し過ぎていたと思います。店内に客は一人も居ませんでした。
テーブルはパイプ脚のデコラテーブル、表面のデコラはあちこちにヒビが入り隅の方は欠けているのです。何かの間違い? 何かトンデモナイ店に入ってしまったと思いつつ、店内の様子をいろいろと見回したのです。
あまり小綺麗でないオジサンが椅子に座ってテレビを眺め、奥の厨房にもう一人の従業員が居るようでした。
そんな風景のなかで食べる“ソースカツ丼”は、なんとも寂しい味がしました。浅草が華やかに賑わって居た頃は、河金にも勢いがあり、トンカツにも勢いがあり、美味しくて、繁盛していたのでしょう。
浅草が寂れ、国際劇場が閉館し、河金も寂れていったのでしょう。それから暫くして、河金は閉店したようです。わたしの食べた“ソースカツ丼”には、浅草の歴史が、それなりにつまっていたのかも・・・・・・。
今でも河金の流れをくむ店は浅草近辺に何軒かあるようです。いつの日にか、元祖“河金のカツカレー丼”を食べて見たいと思います。懐かしい味だと聞いてます。
今日は、新潟を離れ、浅草に来てしまいました。あすから、また新潟に戻ります。
それでは、また明日。