昨日の続きです。
『原節子 あるがままに生きて』を読みつつ、綴っています。
それにしても、“あるがままに生きる”なかなか意味のある言葉です。わたしも、あるとこの、ある場面で“あるがまま”と綴ったことがあります・・・。
本書の何処かに、彼女の言葉で語られているのか、それとも、著者が彼女の生き方を辿ることで、その言葉が浮かんできて、タイトルとしたのか・・・。
それで、昨日は、わたくし自信を持って断定的に、横浜高女を二年生の夏に中退して、女優の道を“自らの意志で選択した”と書いたのですが、著者はそうではないとの主張なのです。
何にか、著者の貴田さんが、昨日のブログを見ていたように、ページを捲ると、“7章 義兄・熊谷久虎”の冒頭で、
『原節子は野心満々で映画界入りしたわけでのではないと語っています。原が日活に入れたのは、熊谷が監督としてそこで活躍していたからです。そして演技の経験がまったくないのに、デビュー作品から主役を演じました。恵まれ過ぎていて、仕事に対する考えが甘かったと原は思い出しています。少し原節子の立場になって想像してみればすぐわかることですが、十四、五歳で、自分の未来を客観的に、もしくは、きわめて冷静に見る人がいるでしょうか。そういう人はごく稀だと思います。若い女性の働く世界が限られていた時代です。女学校を中退して、突然、すべきことのなくなった彼女、先生になる道が閉ざされてしまった彼女。芸能界が好きだから映画の世界に足を踏み入れたわけでわありません。成り行き上、日活の女優になったとしか、いいようがありません。』
と、わたしの説とは異なる見解なのです。
引用が長くなりました。
この文章なのですが、事実と、原節子本人の語った想いと、著者の想像と解釈と、いろいろ、まぜこぜに綴られていて、表現方法として、いろいろ問題があると思います。
まぁ、貴田庄さんは、原節子の資料をかき集めて、読み込み、そして、辿り着き、こういう表現になってしまったのでしょうが、原節子に対する思い入れが強すぎ、彼女を美化し過ぎで、客観性に欠けるのでは?と、文章から感じました。
先ず、『原節子は野心満々で映画界入りしたわけでないと語っています』なのですが、野心満々ではないが、それなりの“期待と夢と希望を”抱いて映画界に入ったと思います。
十二、三歳で、あの“マキノ雅裕監督”をして、将来の大スターと言わしめた少女だったのです。学校の成績はトップクラスでスポーツも得意で、美人で、輝き、注目されていたのです。そして、周囲に映画関係者が居たのですから、女優を目指しても、多少の野心を抱いても、何ら不思議ではありません。
次に、『原が日活に入れたのは、熊谷が監督としてそこで活躍していたからです』と、ありますが、義兄に監督がいたからと云って、何処の誰もが映画界に入ることはできません。それと『演技の経験がまったくないのに、デビュー作品から主役を演じ』は、彼女の持つ素晴らしい資質が、そうさせたのです。
次に、『恵まれ過ぎていて、仕事に対する考えが甘かったと原は思い出しています』とあるのは、後年、若かりし頃を振り返っての反省です。
戦前の映画では、美貌だけの大根役者との評価があったそうで、持って生まれた美貌だけの時代は、甘かったのです。気が付いてみたら、美貌が衰え始め、いろいろと、あったのです。
ここで、途中ですが、『芸能界が好きだから映画の世界に足を踏み入れたわけでわありません。成り行き上、日活の女優になったとしか、いいようがありません』と、云う結論へ導く根拠として、いろいろ述べていることに、ちょっと違うのでは? と、わたくしは、いろいろ反論しているのであります。
それで、次に、『十四、五歳で、自分の未来を客観的に、もしくは、きわめて冷静に見る人がいるでしょうか。そういう人はごく稀だと思います』、原節子は、かなり賢明な女性だったようですから、そんな稀な部類の人だった、とも云えます。
また、あるいは、映画界入りに対して、客観的に、未来とか、人生とか、そんな事まで考え決断した訳では無かった、とも、考えられます。
兎に角、背が高く、西洋的美貌で、少女の頃より輝き、周囲の注目を浴びていたのです。本人も、それなりに、早い時期から、口には出さなくとも、映画界への憧れはあったと思います。
そして、『女学校を中退して、突然、すべきことのなくなった彼女、先生になる道が閉ざされてしまった彼女』と、ありますが、これは、まったく逆だと思います。映画界入りの意志が先にあり、その為に、横浜高女を中退したのだと思います。
“先生の道を閉ざされた”とありますが、教師になる願望はそれほど強いものではなく、よくある“大きくなったらバスの車掌さん”的なものだと思います。
一般的にも、小学生の頃は教師は身近で、一時期の憧れの的です。貴田さんも別な章でそのような表現をしています。なのに、ここでは、かなり強い教師への思い入れがあったように表現しています。どっちがホント?
兎に角、『芸能界が好きだから映画の世界に足を踏み入れたわけでわありません。成り行き上、日活の女優になったとしか、いいようがありません』との結論を導く為に、いろいろ動員しているのです。
映画界入りは、彼女自身の言葉で“周りに決められた”と云ったとしても、そのまま鵜呑みにしてはいけません。彼女は謙虚であり、そして、また、頑固で、賢明で、自分の考え方を主張する性格だと・・・・・・思います。
水着姿とか、濡れ場は、絶対に拒否したそうですから、映画界を去り、原節子から會田昌江に戻ったのも、會田昌江から原節子になったのも、すべては彼女の意志だと、そう考えた方が・・・・・・。
今日は、ちょっと、何か、かなり、ゴタゴタと自説を述べてしまいました。
それでは、また明日。
※只今の空間線量は 0.14μSv/h です。最近は短時間の間にかなりバラツキが見られるのです。何か、危険な兆候?
『原節子 あるがままに生きて』を読みつつ、綴っています。
それにしても、“あるがままに生きる”なかなか意味のある言葉です。わたしも、あるとこの、ある場面で“あるがまま”と綴ったことがあります・・・。
本書の何処かに、彼女の言葉で語られているのか、それとも、著者が彼女の生き方を辿ることで、その言葉が浮かんできて、タイトルとしたのか・・・。
それで、昨日は、わたくし自信を持って断定的に、横浜高女を二年生の夏に中退して、女優の道を“自らの意志で選択した”と書いたのですが、著者はそうではないとの主張なのです。
何にか、著者の貴田さんが、昨日のブログを見ていたように、ページを捲ると、“7章 義兄・熊谷久虎”の冒頭で、
『原節子は野心満々で映画界入りしたわけでのではないと語っています。原が日活に入れたのは、熊谷が監督としてそこで活躍していたからです。そして演技の経験がまったくないのに、デビュー作品から主役を演じました。恵まれ過ぎていて、仕事に対する考えが甘かったと原は思い出しています。少し原節子の立場になって想像してみればすぐわかることですが、十四、五歳で、自分の未来を客観的に、もしくは、きわめて冷静に見る人がいるでしょうか。そういう人はごく稀だと思います。若い女性の働く世界が限られていた時代です。女学校を中退して、突然、すべきことのなくなった彼女、先生になる道が閉ざされてしまった彼女。芸能界が好きだから映画の世界に足を踏み入れたわけでわありません。成り行き上、日活の女優になったとしか、いいようがありません。』
と、わたしの説とは異なる見解なのです。
引用が長くなりました。
この文章なのですが、事実と、原節子本人の語った想いと、著者の想像と解釈と、いろいろ、まぜこぜに綴られていて、表現方法として、いろいろ問題があると思います。
まぁ、貴田庄さんは、原節子の資料をかき集めて、読み込み、そして、辿り着き、こういう表現になってしまったのでしょうが、原節子に対する思い入れが強すぎ、彼女を美化し過ぎで、客観性に欠けるのでは?と、文章から感じました。
先ず、『原節子は野心満々で映画界入りしたわけでないと語っています』なのですが、野心満々ではないが、それなりの“期待と夢と希望を”抱いて映画界に入ったと思います。
十二、三歳で、あの“マキノ雅裕監督”をして、将来の大スターと言わしめた少女だったのです。学校の成績はトップクラスでスポーツも得意で、美人で、輝き、注目されていたのです。そして、周囲に映画関係者が居たのですから、女優を目指しても、多少の野心を抱いても、何ら不思議ではありません。
次に、『原が日活に入れたのは、熊谷が監督としてそこで活躍していたからです』と、ありますが、義兄に監督がいたからと云って、何処の誰もが映画界に入ることはできません。それと『演技の経験がまったくないのに、デビュー作品から主役を演じ』は、彼女の持つ素晴らしい資質が、そうさせたのです。
次に、『恵まれ過ぎていて、仕事に対する考えが甘かったと原は思い出しています』とあるのは、後年、若かりし頃を振り返っての反省です。
戦前の映画では、美貌だけの大根役者との評価があったそうで、持って生まれた美貌だけの時代は、甘かったのです。気が付いてみたら、美貌が衰え始め、いろいろと、あったのです。
ここで、途中ですが、『芸能界が好きだから映画の世界に足を踏み入れたわけでわありません。成り行き上、日活の女優になったとしか、いいようがありません』と、云う結論へ導く根拠として、いろいろ述べていることに、ちょっと違うのでは? と、わたくしは、いろいろ反論しているのであります。
それで、次に、『十四、五歳で、自分の未来を客観的に、もしくは、きわめて冷静に見る人がいるでしょうか。そういう人はごく稀だと思います』、原節子は、かなり賢明な女性だったようですから、そんな稀な部類の人だった、とも云えます。
また、あるいは、映画界入りに対して、客観的に、未来とか、人生とか、そんな事まで考え決断した訳では無かった、とも、考えられます。
兎に角、背が高く、西洋的美貌で、少女の頃より輝き、周囲の注目を浴びていたのです。本人も、それなりに、早い時期から、口には出さなくとも、映画界への憧れはあったと思います。
そして、『女学校を中退して、突然、すべきことのなくなった彼女、先生になる道が閉ざされてしまった彼女』と、ありますが、これは、まったく逆だと思います。映画界入りの意志が先にあり、その為に、横浜高女を中退したのだと思います。
“先生の道を閉ざされた”とありますが、教師になる願望はそれほど強いものではなく、よくある“大きくなったらバスの車掌さん”的なものだと思います。
一般的にも、小学生の頃は教師は身近で、一時期の憧れの的です。貴田さんも別な章でそのような表現をしています。なのに、ここでは、かなり強い教師への思い入れがあったように表現しています。どっちがホント?
兎に角、『芸能界が好きだから映画の世界に足を踏み入れたわけでわありません。成り行き上、日活の女優になったとしか、いいようがありません』との結論を導く為に、いろいろ動員しているのです。
映画界入りは、彼女自身の言葉で“周りに決められた”と云ったとしても、そのまま鵜呑みにしてはいけません。彼女は謙虚であり、そして、また、頑固で、賢明で、自分の考え方を主張する性格だと・・・・・・思います。
水着姿とか、濡れ場は、絶対に拒否したそうですから、映画界を去り、原節子から會田昌江に戻ったのも、會田昌江から原節子になったのも、すべては彼女の意志だと、そう考えた方が・・・・・・。
今日は、ちょっと、何か、かなり、ゴタゴタと自説を述べてしまいました。
それでは、また明日。
※只今の空間線量は 0.14μSv/h です。最近は短時間の間にかなりバラツキが見られるのです。何か、危険な兆候?