歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

“原節子を何となく” その② 混血説?

2011年06月07日 | 原節子
昨日の続きです。

原節子、本名は“会田昌江”、出生地は横浜、大正9年(1920年)6月17日生まれ。映画へデビューしたのは15歳の時でした。身長は「五尺二寸五分≒約160㎝」で当時としては大きな方でした。

当時の地方紙“横浜貿易新報”に、“日活の銀幕へ 横浜高女から 會田昌江嬢 近代的魅惑の美少女 義兄監督の手引きで”と報じられています。“手引き”がスゴイです。

※15歳の原節子です。不鮮明ですが、どう見ても二十と、五、六歳に見えます。デビュー前からスターの風格。

まぁ、“手引き”された当時の映画界と云うか、活動写真屋の世間的な評価は、それほど高くはなかったと思います。芝居とか、役者とかの世界は、堅気の商売としては、未だ、未だ、だったと思います。

デビュー当時の作品は、ほとんど残っていないのです。文化とか、芸術とか、保存とか、記録とか、世間的に映画はまだ、そういう分野ではなかったのです。

近代的と云うか、当時としては、かなり外国人と云うか、欧米人的な美貌だったそうです。私が彼女をはじめて観た「東京物語」で、これって、美人なの?と思いました。

眼が大きく、口も大きく、全体の造りが大きく、いつも画面で歯を出して笑っているイメージで、美人と云われれば、まぁ、そうなのかなァ~・・・なのでした。

下の三枚は、“晩春”の彼女です。1949年の作品ですから29歳の頃です。今時の女性と比較して、かなり老けてみえます。


三十代後半に見えます。確かに、当時としては、かなり洋風です。著者の貴田庄さんは今の女優で云えば“宮沢りえ”を思い浮かべるそうです。


山本薩夫監督が『母の曲』を撮った1937年頃、原節子を見て、「・・・顔は綺麗なのだが、どうも日本人みたいではない。目は青くはないが大きく、眼窩がくぼみ、鼻が高く、骨格は外人である。背も大きい。三代くらい前に外人の血が混じっているのでは・・・」と、思ったさうです。

原節子混血説なのです。

いま、じっくりと見ると、やっぱり、綺麗です、美人です。やっぱり、日本の映画界を代表する女優です。

そこで、原節子の家族なのですが、父藤乃助と母ナミの間に生まれ、二男五女の七人姉弟でした。原節子は末っ子でした。昔は今より貧しいかったのですが、日本中で兄弟姉妹は多かったのです。

昔は貧乏人の子だくさんだったのです。今では、貧乏人も、金持ちも、理由は異にして子供を造らなくなってしまったのです。少子化は人口密度が高い為に起こる、生物の防御反応なのかも?

それで、混血説ですが、原節子の父の容姿も洋風だっだったそうです。

“本地陽彦著”『原節子「永遠の処女」伝説』で、原節子の幼馴染みの女性三人が『モダンで彫りが深く綺麗で、何代か前に北欧系が入っている話しを聞いた・・・ちょっと日本人離れしていた・・・』と、証言しているようです。

その父の父、お祖父さんは、伊豆は下田の出身らしいのです。下田と云えば、ペリー来航で、外国に開港していた土地ですから、外国人の血が混じる可能性が高いのです。

まぁ、そういう謎は、謎のままにして、いろいろあって、女優として、神秘的で、魅力的なのだと思います。

それにしても、90歳の原節子さん、今は、何処で、どんな暮らしをしているのでしょう?時々は、自分の主演映画など観て、想い出に耽っているのでしょうか?鎌倉にお住まいとの噂があるようです。

それでは、また明日。

※現在の空間線量は 0.09μSv/h です。





コメント (1)
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