それで、豪華絢爛、キンキラキン好きの秀吉と、粗末で質素で地味好きの利休、この関係なんですが、いろいろとあると思いました。
金銀財宝を大嫌いな人は稀です、金銀財宝に宣教師もこころ奪われるのです。
【このシーンでも、宣教師や家来や利休を引き連れ、金銀財宝の蔵を目指して、城内を走るのです。“走る秀吉”なのです】
底辺から這い上がり、富と権力を手にした秀吉。でも、しかし、金銀財宝だけでは、人はなかなか従ってはくれないのです。表面的には金銀財宝に眼がくらみ、その所有者にそれなりに従いますが、尊敬はしません。
権威とか、名声とか、尊敬とか、戦いに強いだけでなかなか手に入らないものです。他人と云うか、世間一般と云うか、今でも、家柄とか、育ちとか、教養とか、容姿とか、立ち振る舞いとか、いろいろと求めるものです。
この作品の秀吉は、下品と云うか、粗野と云うか、馬鹿ぽっいと云うか、かなりの描き方をしています。
食事と云うか、メシの喰い方がとても下品、
天皇に武士の頂点に立ったことを認められ、馬鹿丸出しで喜ぶ秀吉。
この作品の秀吉はかなりの描かれかたです。でも、しかし、家来や世間一般からも“猿”と云われ、その容姿はかなり酷かったそうですが、演じているのは二枚目の“山崎努”です。
監督の美意識として、史実に近いリアルな猿顔の秀吉を描くのは、それなりに抵抗があったのでしょう。今ならば、秀吉にピッタリな役者と云えば“笹野高史”です。
それで、ちょこっと調べて居みたら、やっぱり、やっていました。私がまったく見ないNHK大河「天地人 (2009年)」で秀吉をやっていました。笹野高史と云えば“寅さん”シリーズの“中年オカマライダー”がよかったです。
話しを戻します。
それで、利休の方ですが、彼にしても、単純に“豪華絢爛”を否定しないと云うか、対立させてはいないのです。驚きで、眼から鱗で、ナルホド、そうかも知れ無いと思ったのです。
弟子の宗二とのシーンで、
「殿下は金がお好きなのです」
「しかしな宗二、金の茶室には不思議な美しさがあるんだ、あのなかに居ると、すーと広がって、おおらかで・・・、そう、無辺なのだ」
「それはご自分がお造りになったからでしょう」
「おまえは逆に、金の値打ちに毒されているのではないのか」
「殿下に媚びていらっしゃるんだと思います。わびの草庵とはまったく違う。宗匠様のヒダの多いお考えは、私は飲み込めません」
「わたしには、ふたつを分けて考えられんのだ」
「矛盾しております」
と、まあ、こういう会話をするのです。
利休は宗二の考えに人間の弱さを見たのでしょう。金銀財宝を目の前にすると、その魔力に取り憑かれ、自分を見失う怖さ。
金銀財宝の美しさも受け入れ、質素簡素も受け入れ、それぞれが持つ美しさを否定しない、ひだの多い美意識。うん、そうか、そうかも知れないと思いました。
これまで利休は、修行僧のようで、禁欲的で、とても、とても、真面目な方をイメージしていたのですが、ソロバンを上手に弾く、堺商人の顔も持っていた事を知りました。
貧乏で粗末では、「わび、さび」のどころではないのです。それなりに財力がないと、豪華絢爛、金銀財宝の前では、その美意識が怪しくなるのだと思います。
金銀財宝も、ただ単に、フツウに、美しいと感じる心、これがムズカシイのです。フツウの人は美意識よりも、物欲で眼が眩むのです。
宗二も自分の物欲への怖さが、金銀財宝を憎み強く否定する発言に繫がっていくのだと・・・、そう利休は云っているのです。なかなかの描き方、なかなか解釈だと思いました。
もしかして、金銀財宝、豪華絢爛を通過しないと、“わび”とか、“さび”とかには、辿り着けないのかも・・・・・・・。
そうなのです、“わび・さび”とは、慎ましく、寂しく、貧しく日常をおくる人々には届かぬ境地であり、その対極に居る人々の、反省を込めた、ひとときの贅沢なお遊び・・・・・・?
なかなか面白いですよ、映画“利休”は。
まだ続きます。
それでは、また次回。
金銀財宝を大嫌いな人は稀です、金銀財宝に宣教師もこころ奪われるのです。
【このシーンでも、宣教師や家来や利休を引き連れ、金銀財宝の蔵を目指して、城内を走るのです。“走る秀吉”なのです】
底辺から這い上がり、富と権力を手にした秀吉。でも、しかし、金銀財宝だけでは、人はなかなか従ってはくれないのです。表面的には金銀財宝に眼がくらみ、その所有者にそれなりに従いますが、尊敬はしません。
権威とか、名声とか、尊敬とか、戦いに強いだけでなかなか手に入らないものです。他人と云うか、世間一般と云うか、今でも、家柄とか、育ちとか、教養とか、容姿とか、立ち振る舞いとか、いろいろと求めるものです。
この作品の秀吉は、下品と云うか、粗野と云うか、馬鹿ぽっいと云うか、かなりの描き方をしています。
食事と云うか、メシの喰い方がとても下品、
天皇に武士の頂点に立ったことを認められ、馬鹿丸出しで喜ぶ秀吉。
この作品の秀吉はかなりの描かれかたです。でも、しかし、家来や世間一般からも“猿”と云われ、その容姿はかなり酷かったそうですが、演じているのは二枚目の“山崎努”です。
監督の美意識として、史実に近いリアルな猿顔の秀吉を描くのは、それなりに抵抗があったのでしょう。今ならば、秀吉にピッタリな役者と云えば“笹野高史”です。
それで、ちょこっと調べて居みたら、やっぱり、やっていました。私がまったく見ないNHK大河「天地人 (2009年)」で秀吉をやっていました。笹野高史と云えば“寅さん”シリーズの“中年オカマライダー”がよかったです。
話しを戻します。
それで、利休の方ですが、彼にしても、単純に“豪華絢爛”を否定しないと云うか、対立させてはいないのです。驚きで、眼から鱗で、ナルホド、そうかも知れ無いと思ったのです。
弟子の宗二とのシーンで、
「殿下は金がお好きなのです」
「しかしな宗二、金の茶室には不思議な美しさがあるんだ、あのなかに居ると、すーと広がって、おおらかで・・・、そう、無辺なのだ」
「それはご自分がお造りになったからでしょう」
「おまえは逆に、金の値打ちに毒されているのではないのか」
「殿下に媚びていらっしゃるんだと思います。わびの草庵とはまったく違う。宗匠様のヒダの多いお考えは、私は飲み込めません」
「わたしには、ふたつを分けて考えられんのだ」
「矛盾しております」
と、まあ、こういう会話をするのです。
利休は宗二の考えに人間の弱さを見たのでしょう。金銀財宝を目の前にすると、その魔力に取り憑かれ、自分を見失う怖さ。
金銀財宝の美しさも受け入れ、質素簡素も受け入れ、それぞれが持つ美しさを否定しない、ひだの多い美意識。うん、そうか、そうかも知れないと思いました。
これまで利休は、修行僧のようで、禁欲的で、とても、とても、真面目な方をイメージしていたのですが、ソロバンを上手に弾く、堺商人の顔も持っていた事を知りました。
貧乏で粗末では、「わび、さび」のどころではないのです。それなりに財力がないと、豪華絢爛、金銀財宝の前では、その美意識が怪しくなるのだと思います。
金銀財宝も、ただ単に、フツウに、美しいと感じる心、これがムズカシイのです。フツウの人は美意識よりも、物欲で眼が眩むのです。
宗二も自分の物欲への怖さが、金銀財宝を憎み強く否定する発言に繫がっていくのだと・・・、そう利休は云っているのです。なかなかの描き方、なかなか解釈だと思いました。
もしかして、金銀財宝、豪華絢爛を通過しないと、“わび”とか、“さび”とかには、辿り着けないのかも・・・・・・・。
そうなのです、“わび・さび”とは、慎ましく、寂しく、貧しく日常をおくる人々には届かぬ境地であり、その対極に居る人々の、反省を込めた、ひとときの贅沢なお遊び・・・・・・?
なかなか面白いですよ、映画“利休”は。
まだ続きます。
それでは、また次回。