NHK「歴史秘話ヒストリア」見ました。時間が夜の10時でしたから、私としてはとても遅い時間ですので、いつものように録画して昨日見たのです。
それで、一番驚いたのは、利休が身分差別を否定する思想を持っていたことの指摘でした。
中学の歴史の時間に、堺が琉球貿易・南蛮貿易の拠点として、国内外より多くの商人が集まる“国際貿易都市”だったこと、商人達による自治都市であったこと、何てことを習ったような気がします。
そんな堺で、利休は、生まれ、育ち、商いをし、茶の湯をやっていたのですから、かなり革新的な思想を持って当然だったのでしょう。
これまでは、どうしても、現在の“茶道”と云う一般的なイメージで、あの時代に生きた利休を見てしまったようです。
どうしても、茶道と云うと、表千家だとか、裏千家だとか、そんな言葉を耳にしただけで、何か、伝統とか、家元制度とか、格式とか、形式とか、行儀作法とか、とても、とても、堅苦しくて、自由とか、平等とか、革新とか、そんなものとは正反対の位置にある存在だと思っていました。
でも、しかし、当時、利休の茶の湯は、革命的だったのです。映画利休でも、その点はそれなりに描かれていたのですが、しかし、どうしても現代の“茶道”のイメージが邪魔をしていたのです。
このへんに、秀吉との対立の根っこがあったような、そんな気がしてきました。
1582年、「本能寺の変」で主君信長が死亡。
1585年、秀吉と共に天皇に献茶。
1587年、商人でも、農民でも、武士でも、身分に関わらず参加させた「大茶会」
1588年、兵農分離、農民の武装解除の「刀狩り」
1591年、いろいろあって最終的に天下を統一。「身分統制令」を制定。
そして、この1591年の2月28日に、秀吉に切腹を命じられたのです。その時、利休は70歳、秀吉は54歳。
秀吉と共に、天下取りの道を歩んだ9年間、天下取りを完成したその年に、秀吉から死を命じられた利休。
何故?、どうして?・・・・・・、そんなところを、もう少し・・・・・・。
まだ、まだ、「映画利休」の話しは、続きそうです。
それでは、また来週。