先日からの続きみたいなものです。
それで、小津監督の墓石に刻まれた“無”の一文字ですが、当時としては珍しいのかと思ったら、近所には、
“寂”とか、
“真”とか、
“然”とか、
と云った、一文字の墓石がちらほらと見かけられました。
“真”は1945年~1979年まで管長を務めた“朝比奈宗源師”の書。“寂”は1980年~2010年まで管長を務めた“足立大進師”の書。“然”は“應樹”書とありますが、現在の管長は足立大進師の後継“横田南嶺師”です。應樹師は誰でしょうか?副管長?
それで、肝心の“無”は誰の書なのか?これが残念ながら撮していなかったのでした。たぶん、いや間違い無く、年代的にも朝比奈宗源師の書の筈です。
それと、この卒塔婆、
つい最近のものです。施主は“小津亜紀子”となっています。確認できたものはすべて施主は亜紀子さんでした。
それで、“小津亜紀子さん”とは誰なのかと気になって、ネットで調べても判らず諦めていたら、先日、又も、このコラム記事で発見。
※朝日新聞6月1日の記事より転載
小津安二郎の弟で“小津信三”の長女と判明。小津の兄弟姉妹は、長男が新一で、次男が安二郎で、三男が信三と、とても判り易く一・二・三となっています。
他に2人の妹が居ました。亜紀子さんは“小津姓”ですから婿取りでしょうか。長井秀行さんは妹の“登貴”の長男です。
それにしても、手みやげを持たずに他家を訪れた甥を激しく叱責するのは、それなりに理解できますが、手みやげを持って来た時の喜ぶ様は、何とも、判り易く、小津作品から抱く彼のイメージとは、かなり異なるものでした。
作品で、喜怒哀楽の表現は、言葉少なくして多くを語り、表情を変えずして感情を表現する。こんなスクリーンの人間表現と、日常的、生身的、人間は異なるのです。これまで、小津のイメージを、何故か作品での笠智衆をイメージしていたようです。
この“手みやげエピソード”を知って、“世界の小津”がとても身近に感じられました。
それで、何ですが、大胆に云わせてもらえば、小津作品の評価も、小津の意図は異なるところで、いろいろな人によって評価されている・・・、と、思うのです。
まあ、優れた芸術作品は、作者の意図を超えて、いろいろな人に、いろいろな解釈をされ、いろいろな影響を与えるモノだと、そう思うのです。
「東京物語」は、小津作品ですが、海外での評価が、作品に影響し、作品を創りあげ、完成させたと思うのです。“晩春の壺論争”も、小津の意図とはまったく無関係に、別次元に飛び出し、作品を創りあげています。
それで、例えば、小津は「東京物語」では家族の“崩壊”を描いたと発言しているのです。でも、しかし、作品を観れば、明らかに、崩壊ではなく“変遷”が描かれています。彼の時間軸が短いのです。
何て、まあ、私の勝手な解釈も飛び出したりして、兎に角、私が、突然、鎌倉に行きたくなり、原節子さんの家を探したり、小津監督の墓参りをしたり、そんな時期に合わせたように、この連載コラムが始まっていたり、何か、不思議なご縁です。
この朝日の連載コラム“小津安二郎がいた時代”は、何故?いまなの?
本日は、取り留めなく、あれやこれやでした。
まあ、いつも、取り留めは無いか?
それでは、また。
それで、小津監督の墓石に刻まれた“無”の一文字ですが、当時としては珍しいのかと思ったら、近所には、
“寂”とか、
“真”とか、
“然”とか、
と云った、一文字の墓石がちらほらと見かけられました。
“真”は1945年~1979年まで管長を務めた“朝比奈宗源師”の書。“寂”は1980年~2010年まで管長を務めた“足立大進師”の書。“然”は“應樹”書とありますが、現在の管長は足立大進師の後継“横田南嶺師”です。應樹師は誰でしょうか?副管長?
それで、肝心の“無”は誰の書なのか?これが残念ながら撮していなかったのでした。たぶん、いや間違い無く、年代的にも朝比奈宗源師の書の筈です。
それと、この卒塔婆、
つい最近のものです。施主は“小津亜紀子”となっています。確認できたものはすべて施主は亜紀子さんでした。
それで、“小津亜紀子さん”とは誰なのかと気になって、ネットで調べても判らず諦めていたら、先日、又も、このコラム記事で発見。
※朝日新聞6月1日の記事より転載
小津安二郎の弟で“小津信三”の長女と判明。小津の兄弟姉妹は、長男が新一で、次男が安二郎で、三男が信三と、とても判り易く一・二・三となっています。
他に2人の妹が居ました。亜紀子さんは“小津姓”ですから婿取りでしょうか。長井秀行さんは妹の“登貴”の長男です。
それにしても、手みやげを持たずに他家を訪れた甥を激しく叱責するのは、それなりに理解できますが、手みやげを持って来た時の喜ぶ様は、何とも、判り易く、小津作品から抱く彼のイメージとは、かなり異なるものでした。
作品で、喜怒哀楽の表現は、言葉少なくして多くを語り、表情を変えずして感情を表現する。こんなスクリーンの人間表現と、日常的、生身的、人間は異なるのです。これまで、小津のイメージを、何故か作品での笠智衆をイメージしていたようです。
この“手みやげエピソード”を知って、“世界の小津”がとても身近に感じられました。
それで、何ですが、大胆に云わせてもらえば、小津作品の評価も、小津の意図は異なるところで、いろいろな人によって評価されている・・・、と、思うのです。
まあ、優れた芸術作品は、作者の意図を超えて、いろいろな人に、いろいろな解釈をされ、いろいろな影響を与えるモノだと、そう思うのです。
「東京物語」は、小津作品ですが、海外での評価が、作品に影響し、作品を創りあげ、完成させたと思うのです。“晩春の壺論争”も、小津の意図とはまったく無関係に、別次元に飛び出し、作品を創りあげています。
それで、例えば、小津は「東京物語」では家族の“崩壊”を描いたと発言しているのです。でも、しかし、作品を観れば、明らかに、崩壊ではなく“変遷”が描かれています。彼の時間軸が短いのです。
何て、まあ、私の勝手な解釈も飛び出したりして、兎に角、私が、突然、鎌倉に行きたくなり、原節子さんの家を探したり、小津監督の墓参りをしたり、そんな時期に合わせたように、この連載コラムが始まっていたり、何か、不思議なご縁です。
この朝日の連載コラム“小津安二郎がいた時代”は、何故?いまなの?
本日は、取り留めなく、あれやこれやでした。
まあ、いつも、取り留めは無いか?
それでは、また。