未だ、未だ、“だから荒野”のお話は続きます。
最終回は『告白』です。
順序立てて、ゆっくり、じっくり、ゆきたいと思います。時間はたっぷりあります。
先ずは朋美の告白です。
『・・・先生と亀田さんに初めてお会った時、先生に救われたような気がしました。私は、夫から逃げ・・・主婦という仕事から逃げて、家族から逃げて・・・、家を飛び出したのです、いえ・・・自分自身から逃げていたのかもしれません。自分の未来からも・・・。私、自分の道を見失っていたのです。そんな時、亀田さんが「僕たちは長崎に行きます」って言葉に、その時、お二人は、長崎は、私の道しるべになったんです・・・』
いろいろと、逃げて、逃げて、逃げては理解できるのですが、“未来からも”は、よく分かりません。46歳と云う年齢であれば、未だ、これから出直すことが、これまでとは違う、新しい、別な、未来を、と、飛び出したのでは?
でも、しかし、飛び出してみたのはいいが、現実は厳しく、未来はどっちらに?未来とは何?に、私はどうしたらいいの?状態で、自分の道を見失い、途方に暮れ、もう、面倒だから、こうなったら、未来からも逃げるか?と、そんな事ではと思うのです。
でも、しかし、それでは、ちょっと、このセリフでは、前後左右の辻褄が合わないような、そんな気がするのです。単なる気のせい?
あの時の、雨の中で踊るシーンからは、“開放感と未来への希望”が見て取れたのです。
あの時の朋美のこころは、過去から逃げ、未来から逃げ、自分の道を見失っていた?わたしには、どうしても、そうは見えませんでした。
オジサンとしては、あの時の、あの、朋美さんと云うか、京香さんは、とても、とても、ドラマのワンシーンとして、象徴的シーンとして、美しくて、艶やかで、魅力的に見えたのです。
そこに通り掛かった先生と亀田クン。そして『・・・「僕たちは長崎に行きます」って言葉に、その時、お二人は、長崎は、私の道しるべになったんです・・・』
“二人は、長崎は、道しるべ”とは、その直感に、イマイチ、説得力と云うか、必然性と云うかを感じないのでした。そこを、深く、しつこく、追求しては身も蓋も無い?それを云っちゃお終いよ?でも、暇なので、ほじくっちゃいます。
作者の“小説のネタ的なアイデア箱”に放り込んであった、三つ四つのメモ用紙の走り書き、「長崎原爆」、「語り部」、「引き籠もり」、「専業主婦の自立」を、それなりに、つなぎ合わせ、絡み合わせ、広げ、掘り下げ、編み出したのでしょう。
この作品、わたし的には見終わって、頭に浮かんだのは、やはり、“火垂の墓”と、そして、かなり古くなりますが、原作林芙美子、監督成瀬巳喜男、主演原節子の“めし”です。
まあ、それは、それで、先生も亀田クンも、雨の中で、裸足で踊る朋美を美しいと思い、救われたと云っているのです。
確かに、美しいシーンです。まあ、フツウは、雨の中で裸足で踊っていたら、いくら美しいご婦人でも、人は絶対に、間違い無く、“危ない人”と思い、なかには警察に通報する人も?
でも、でも、これはドラマなのです。そこで、こころに荒野を抱く者どうしが、出会い、互いに、救われ、感謝し合うのです。
何か、今日は、へそ曲がり的で、ツマランことを書いてしまった、と、幾分、反省気味で終わります。
言い訳します、本日は、いつも焼酎を飲むグラスを割ってしまい、新たにグラスを購入し、その感触を確かめるため、昼食に一杯ひっかけて、アルコールが染みこんだ状態で書いていたのです。
まあ、しらふでも、飲んでも、大して変わらないか・・・・・・。
以上。
それでは、また。
最終回は『告白』です。
順序立てて、ゆっくり、じっくり、ゆきたいと思います。時間はたっぷりあります。
先ずは朋美の告白です。
『・・・先生と亀田さんに初めてお会った時、先生に救われたような気がしました。私は、夫から逃げ・・・主婦という仕事から逃げて、家族から逃げて・・・、家を飛び出したのです、いえ・・・自分自身から逃げていたのかもしれません。自分の未来からも・・・。私、自分の道を見失っていたのです。そんな時、亀田さんが「僕たちは長崎に行きます」って言葉に、その時、お二人は、長崎は、私の道しるべになったんです・・・』
いろいろと、逃げて、逃げて、逃げては理解できるのですが、“未来からも”は、よく分かりません。46歳と云う年齢であれば、未だ、これから出直すことが、これまでとは違う、新しい、別な、未来を、と、飛び出したのでは?
でも、しかし、飛び出してみたのはいいが、現実は厳しく、未来はどっちらに?未来とは何?に、私はどうしたらいいの?状態で、自分の道を見失い、途方に暮れ、もう、面倒だから、こうなったら、未来からも逃げるか?と、そんな事ではと思うのです。
でも、しかし、それでは、ちょっと、このセリフでは、前後左右の辻褄が合わないような、そんな気がするのです。単なる気のせい?
あの時の、雨の中で踊るシーンからは、“開放感と未来への希望”が見て取れたのです。
あの時の朋美のこころは、過去から逃げ、未来から逃げ、自分の道を見失っていた?わたしには、どうしても、そうは見えませんでした。
オジサンとしては、あの時の、あの、朋美さんと云うか、京香さんは、とても、とても、ドラマのワンシーンとして、象徴的シーンとして、美しくて、艶やかで、魅力的に見えたのです。
そこに通り掛かった先生と亀田クン。そして『・・・「僕たちは長崎に行きます」って言葉に、その時、お二人は、長崎は、私の道しるべになったんです・・・』
“二人は、長崎は、道しるべ”とは、その直感に、イマイチ、説得力と云うか、必然性と云うかを感じないのでした。そこを、深く、しつこく、追求しては身も蓋も無い?それを云っちゃお終いよ?でも、暇なので、ほじくっちゃいます。
作者の“小説のネタ的なアイデア箱”に放り込んであった、三つ四つのメモ用紙の走り書き、「長崎原爆」、「語り部」、「引き籠もり」、「専業主婦の自立」を、それなりに、つなぎ合わせ、絡み合わせ、広げ、掘り下げ、編み出したのでしょう。
この作品、わたし的には見終わって、頭に浮かんだのは、やはり、“火垂の墓”と、そして、かなり古くなりますが、原作林芙美子、監督成瀬巳喜男、主演原節子の“めし”です。
まあ、それは、それで、先生も亀田クンも、雨の中で、裸足で踊る朋美を美しいと思い、救われたと云っているのです。
確かに、美しいシーンです。まあ、フツウは、雨の中で裸足で踊っていたら、いくら美しいご婦人でも、人は絶対に、間違い無く、“危ない人”と思い、なかには警察に通報する人も?
でも、でも、これはドラマなのです。そこで、こころに荒野を抱く者どうしが、出会い、互いに、救われ、感謝し合うのです。
何か、今日は、へそ曲がり的で、ツマランことを書いてしまった、と、幾分、反省気味で終わります。
言い訳します、本日は、いつも焼酎を飲むグラスを割ってしまい、新たにグラスを購入し、その感触を確かめるため、昼食に一杯ひっかけて、アルコールが染みこんだ状態で書いていたのです。
まあ、しらふでも、飲んでも、大して変わらないか・・・・・・。
以上。
それでは、また。