先日の続きです。
最終回『告白』です。
みんな、みんな、朋美も、優太も、山岡も、亀田も、告白するのです。
誰しもが、それぞれに、いろいろと、秘密を、知られたくない事を、いろいろ隠し持って、それなりの閉じ籠り方で、それぞれが悩み苦しみ背負い、生きているのです。
でも、本人してみれば、それは、それで、それなりに深刻なのですが、第三者からみると“えッ!そんなことで、そこまでやるの?”的な、偏屈、頑固、変人、そんな眼で見られたりするのです。
山岡は、妹の死を自分の責任として、生涯、結婚せず家庭を持たず、孤独に、罪を償い、戦後70有余年、悩み、苦しみ、背負い、生きてきたのです。
でも、しかし、山岡が結婚を考えた相手の兄から、結婚して家族を持つことは、それなりに苦労があり、独り孤独で暮らす方が、ずっと、ずっと、気が楽だと云われてしまうのです。この時、山岡が何処の町内にもいる、偏屈な爺さんに見えてしまいました。
それに対して、山岡は反応しませんでしたが、眉間に皺を寄せ深刻派の山岡は、心のなかで、きっと、かなり“ズッコケテ”いた筈。世の中、立場が変われば、見方も変わり、いろいろなのです。
“眉間皺寄せ派”で無い、私としては、70有余年、償い続け、背負い続ける、山岡先生の生き方は、それなりに、尊敬できるのですが、いくら何でも、結婚せず、家庭を持たず、楽しいことから、幸せなことから、自らを遠ざける、何て事は、何か、やはり、とても・・・・・・。
その反動として、時折、食欲が爆発して、チャーシュー麺に炒飯を食べ、こころの平衡を保っている?
そんな解釈ができるラーメン屋のランチシーンでした。このシーン、山岡と亀田の嬉しそうな顔、とても印象に残っているのです。
※チャーシュー麺も炒飯も味付けが濃そうで塩分も糖質も多すぎ、でも、しかし、チャーシュー麺はボリューム感が不足、中心部のモヤシとメンマに哀愁が漂い、そして、沈み込むチャーシューに“だから荒野的”な趣が。
それで、家族を持つ、結婚する、他人とひとつ屋根の下で暮らすことの大変さを、朋美と親友に語らせたシーンで朋美は
※46歳の京香さん魅力的に撮れています。
『・・・愛っていうか、寄り添う気持ち?みたいなものが、いつからか、どちらからか足りなくなっていたのか・・・』
そして、親友は、
※50歳のYOU、気怠感が、やつれ感に、くたびれ感に、変化してきました。
『男と暮らしていくのって楽じゃないよね、砂漠に花を咲かせるっていうかさ、面倒でも、毎日お水あげたり、今どんな感じなのかなって、様子見て、世話してあげたり、そういうのちゃんと、やっとかないと、愛って枯れちゃうんだよね』
まあ、相手へのいろいろな気遣い、意識しないで自然にできる人と、意識的にやらないとできない人が、居るような、居ないような。
そんなものかと、自らを省みつつ、それなりに思うのです。男と女、いろいろと、思い違いや、勘違いや、行き違い、すれ違い、そんな、こんなが面白い?
まあ、男と女の関係は、大いなる誤解から生まれ、互いの誤解に気付いた時、終わりを向かえる、何て説も、それなりの真実?
でも、まあ、ドラマとは異なり、フツウの人の、フツウの関係は、深く考えたり、思い悩んだりは程々にして、それなりの妥協をして、知らないふり、気付かないふりをして、やり過ごし、どこかで折り合いを付けるのでは?
あまり深く、追い求めたり、追い込んだり、何てことは、してはイケナイなのです。曖昧さを残し、謎を残し、関係を残し、保つのです。
まあ、兎に角、朋美も、優太も、山岡も、亀田も、心の荒野を、独りではなく、互いの関係のなかで、受け止め、立ち向かい、のり越え、克服して、大きくなっていく?
あの“火垂の墓”で“焼け跡派”の野坂昭如先生も、そのむかし『♪そ、そ、ソクラテスもプラトンも、みんな悩んで大きくなったッ!』と、楽しそうに唄っていました。これって、何かのコマソンだった?
兎に角、いろいろ思いを巡らしました。
まだ、もう少し、巡らしたいと思います。
それでは、また。
最終回『告白』です。
みんな、みんな、朋美も、優太も、山岡も、亀田も、告白するのです。
誰しもが、それぞれに、いろいろと、秘密を、知られたくない事を、いろいろ隠し持って、それなりの閉じ籠り方で、それぞれが悩み苦しみ背負い、生きているのです。
でも、本人してみれば、それは、それで、それなりに深刻なのですが、第三者からみると“えッ!そんなことで、そこまでやるの?”的な、偏屈、頑固、変人、そんな眼で見られたりするのです。
山岡は、妹の死を自分の責任として、生涯、結婚せず家庭を持たず、孤独に、罪を償い、戦後70有余年、悩み、苦しみ、背負い、生きてきたのです。
でも、しかし、山岡が結婚を考えた相手の兄から、結婚して家族を持つことは、それなりに苦労があり、独り孤独で暮らす方が、ずっと、ずっと、気が楽だと云われてしまうのです。この時、山岡が何処の町内にもいる、偏屈な爺さんに見えてしまいました。
それに対して、山岡は反応しませんでしたが、眉間に皺を寄せ深刻派の山岡は、心のなかで、きっと、かなり“ズッコケテ”いた筈。世の中、立場が変われば、見方も変わり、いろいろなのです。
“眉間皺寄せ派”で無い、私としては、70有余年、償い続け、背負い続ける、山岡先生の生き方は、それなりに、尊敬できるのですが、いくら何でも、結婚せず、家庭を持たず、楽しいことから、幸せなことから、自らを遠ざける、何て事は、何か、やはり、とても・・・・・・。
その反動として、時折、食欲が爆発して、チャーシュー麺に炒飯を食べ、こころの平衡を保っている?
そんな解釈ができるラーメン屋のランチシーンでした。このシーン、山岡と亀田の嬉しそうな顔、とても印象に残っているのです。
※チャーシュー麺も炒飯も味付けが濃そうで塩分も糖質も多すぎ、でも、しかし、チャーシュー麺はボリューム感が不足、中心部のモヤシとメンマに哀愁が漂い、そして、沈み込むチャーシューに“だから荒野的”な趣が。
それで、家族を持つ、結婚する、他人とひとつ屋根の下で暮らすことの大変さを、朋美と親友に語らせたシーンで朋美は
※46歳の京香さん魅力的に撮れています。
『・・・愛っていうか、寄り添う気持ち?みたいなものが、いつからか、どちらからか足りなくなっていたのか・・・』
そして、親友は、
※50歳のYOU、気怠感が、やつれ感に、くたびれ感に、変化してきました。
『男と暮らしていくのって楽じゃないよね、砂漠に花を咲かせるっていうかさ、面倒でも、毎日お水あげたり、今どんな感じなのかなって、様子見て、世話してあげたり、そういうのちゃんと、やっとかないと、愛って枯れちゃうんだよね』
まあ、相手へのいろいろな気遣い、意識しないで自然にできる人と、意識的にやらないとできない人が、居るような、居ないような。
そんなものかと、自らを省みつつ、それなりに思うのです。男と女、いろいろと、思い違いや、勘違いや、行き違い、すれ違い、そんな、こんなが面白い?
まあ、男と女の関係は、大いなる誤解から生まれ、互いの誤解に気付いた時、終わりを向かえる、何て説も、それなりの真実?
でも、まあ、ドラマとは異なり、フツウの人の、フツウの関係は、深く考えたり、思い悩んだりは程々にして、それなりの妥協をして、知らないふり、気付かないふりをして、やり過ごし、どこかで折り合いを付けるのでは?
あまり深く、追い求めたり、追い込んだり、何てことは、してはイケナイなのです。曖昧さを残し、謎を残し、関係を残し、保つのです。
まあ、兎に角、朋美も、優太も、山岡も、亀田も、心の荒野を、独りではなく、互いの関係のなかで、受け止め、立ち向かい、のり越え、克服して、大きくなっていく?
あの“火垂の墓”で“焼け跡派”の野坂昭如先生も、そのむかし『♪そ、そ、ソクラテスもプラトンも、みんな悩んで大きくなったッ!』と、楽しそうに唄っていました。これって、何かのコマソンだった?
兎に角、いろいろ思いを巡らしました。
まだ、もう少し、巡らしたいと思います。
それでは、また。