先日、配偶者と一緒に、私が生まれてから小学校4年生まで住んでいた町に行って来ました。
その時に、ある「出来事」を思い出したのです。
昔、私が住んでいた家は、東京の外れの町で、木造二階建ての集合住宅です。
当時「引き上げ者住宅」と呼ばれた公営住宅でした。木造二階建て、十所帯が一棟に暮らしていました。
そのような建物が十棟あり、私の住んでいたのは「六寮」(寮という呼称でした)の一階でした。六畳と四畳半の二間で、炊事場、洗濯場、トイレは共同です。もちろん風呂は無く、近所の銭湯でした。
両親は「引き揚げ者」ではなかったのですが、結婚したけれど二人で暮らす家が無く、知り合いの紹介で何とか入居できたのだと、後年母から聞いた憶えがあります。
その頃は日本中が貧乏でした。子供のケンカで、いじめられていた子が「オマエんところの家になァー! 米。貸してんだぞォー」と叫んで形勢が逆転する、そんな時代でした。
家を出て2時間ほどで到着しました。
昔の記憶を頼りに、暫く辺りを歩いてみました。少しずつ当時の風景が甦ってきました。消防署、お豆腐屋さん、駄菓子屋さん、酒屋さん、建て変えられてはいましたが、元の場所にあったのです。
消防署の「火の見櫓」は昔のままです。
住んでいた建物は、鉄筋コンクリート四階建てのアパートに変わっていましたが、建物の配置は当時のままのように思われました。
野球場があった向かいの公園に行ってみると、外野には芝生が張られ、夜間照明、ダックアウト、外周にはフェンスがあり、立派な設備の野球場になっていました。バックネットの土台部分のコンクリートだけは当時のままです。
バックネットの前で、バットを構えている当時の写真が、今もアルバムにあり、その写真の情景を思い浮かべながら、ぼんやりと辺りを眺めている時に「ある出来事」を思い出したのです・・・・・・・。
あの頃、母は縫い物をして生活費の足しにしていました。母が縫い終わった着物を届ける為、ひとり留守番する私に、昼食の「コッペパン代」として十五円を渡して出かけた日のことでした。
当時、児童数に対して教室数が不足し「二部授業」が行われ、その日は給食のない午後の授業の日でした。
私は、四寮に住んでいる同じクラスの「トモキ」と二人、公園のバックネットの前で昼になるまで遊んでいました。
昼近くなり、母に貰った十五円でマーガリンをつけた「コッペパン」を買おうと、ポケットを探ったのですが、十円玉も五円玉もいくら探しても見つかりません、トモキと二人でバックネットの前を散々探したのですが、見つかりませんでした。
トモキが呼んで来たのか、たまたま通りかかったのか、記憶は定かではないのですが、トモキの「お母さん」も加わり一緒に探し始めました。少し時間が経って、トモキのお母さんが「しんちゃんあったよ!」と叫び、十五円を渡してくれたのです。
その思い出話しを妻にしているとき、ハッとしたのです。
『もしかして。あの「十五円」はトモキのお母さんが……』
二人で土を手ではらい除けたりして、散々探しても見つからなかったのに、何であんなに簡単に見つける事が出来たのか。
あの十五円は、私が落とした十五円ではなく、トモキのお母さんが、見つけたふりをして私にくれたのでは・・・・・・。
『お昼を食べずに、お腹を空かして学校に行かせるのは可哀想だし。でも、あげると受け取りにくいだろから・・・・・・』
トモキのお母さんは、気遣って「お芝居」をしたのではないか。
その事を妻に話すと、
「そうかもしれないねェ」と云ってくれました。
私は「そうに違いない」との思いを強くしました。
今日ここに来て、トモキの「お母さん」の優しさを「45年後」に受け取り、温かい気持ちになりました。
『トモキのお母さん、ありがとう』 心の中で呟きました。
「久ぶりにコッペパンにマーガリンを付けて食べたいネェ」と、妻と話しながら公園を後にしたのです・・・・・・。
トモキは、その年の夏休みに千葉県に引っ越して行き、私も翌年の春に少し離れた所にできた、新しい団地に引っ越しました。
「トモキ」の「お母さん」はきっと、いまでも元気に暮らしていると想います。
い~い話しです。
今夜はきっといい夢が見られそう・・・・・・
その時に、ある「出来事」を思い出したのです。
昔、私が住んでいた家は、東京の外れの町で、木造二階建ての集合住宅です。
当時「引き上げ者住宅」と呼ばれた公営住宅でした。木造二階建て、十所帯が一棟に暮らしていました。
そのような建物が十棟あり、私の住んでいたのは「六寮」(寮という呼称でした)の一階でした。六畳と四畳半の二間で、炊事場、洗濯場、トイレは共同です。もちろん風呂は無く、近所の銭湯でした。
両親は「引き揚げ者」ではなかったのですが、結婚したけれど二人で暮らす家が無く、知り合いの紹介で何とか入居できたのだと、後年母から聞いた憶えがあります。
その頃は日本中が貧乏でした。子供のケンカで、いじめられていた子が「オマエんところの家になァー! 米。貸してんだぞォー」と叫んで形勢が逆転する、そんな時代でした。
家を出て2時間ほどで到着しました。
昔の記憶を頼りに、暫く辺りを歩いてみました。少しずつ当時の風景が甦ってきました。消防署、お豆腐屋さん、駄菓子屋さん、酒屋さん、建て変えられてはいましたが、元の場所にあったのです。
消防署の「火の見櫓」は昔のままです。
住んでいた建物は、鉄筋コンクリート四階建てのアパートに変わっていましたが、建物の配置は当時のままのように思われました。
野球場があった向かいの公園に行ってみると、外野には芝生が張られ、夜間照明、ダックアウト、外周にはフェンスがあり、立派な設備の野球場になっていました。バックネットの土台部分のコンクリートだけは当時のままです。
バックネットの前で、バットを構えている当時の写真が、今もアルバムにあり、その写真の情景を思い浮かべながら、ぼんやりと辺りを眺めている時に「ある出来事」を思い出したのです・・・・・・・。
あの頃、母は縫い物をして生活費の足しにしていました。母が縫い終わった着物を届ける為、ひとり留守番する私に、昼食の「コッペパン代」として十五円を渡して出かけた日のことでした。
当時、児童数に対して教室数が不足し「二部授業」が行われ、その日は給食のない午後の授業の日でした。
私は、四寮に住んでいる同じクラスの「トモキ」と二人、公園のバックネットの前で昼になるまで遊んでいました。
昼近くなり、母に貰った十五円でマーガリンをつけた「コッペパン」を買おうと、ポケットを探ったのですが、十円玉も五円玉もいくら探しても見つかりません、トモキと二人でバックネットの前を散々探したのですが、見つかりませんでした。
トモキが呼んで来たのか、たまたま通りかかったのか、記憶は定かではないのですが、トモキの「お母さん」も加わり一緒に探し始めました。少し時間が経って、トモキのお母さんが「しんちゃんあったよ!」と叫び、十五円を渡してくれたのです。
その思い出話しを妻にしているとき、ハッとしたのです。
『もしかして。あの「十五円」はトモキのお母さんが……』
二人で土を手ではらい除けたりして、散々探しても見つからなかったのに、何であんなに簡単に見つける事が出来たのか。
あの十五円は、私が落とした十五円ではなく、トモキのお母さんが、見つけたふりをして私にくれたのでは・・・・・・。
『お昼を食べずに、お腹を空かして学校に行かせるのは可哀想だし。でも、あげると受け取りにくいだろから・・・・・・』
トモキのお母さんは、気遣って「お芝居」をしたのではないか。
その事を妻に話すと、
「そうかもしれないねェ」と云ってくれました。
私は「そうに違いない」との思いを強くしました。
今日ここに来て、トモキの「お母さん」の優しさを「45年後」に受け取り、温かい気持ちになりました。
『トモキのお母さん、ありがとう』 心の中で呟きました。
「久ぶりにコッペパンにマーガリンを付けて食べたいネェ」と、妻と話しながら公園を後にしたのです・・・・・・。
トモキは、その年の夏休みに千葉県に引っ越して行き、私も翌年の春に少し離れた所にできた、新しい団地に引っ越しました。
「トモキ」の「お母さん」はきっと、いまでも元気に暮らしていると想います。
い~い話しです。
今夜はきっといい夢が見られそう・・・・・・