昨日から、調べています「七ツ海」のこと。
幼い頃に一瞬だけ「出会った」、「七ツ海」。いつのころから相撲を始め、どんな顔をして、どんな体格で、どんな人柄で、どんな相撲を取っていたのか、いろいろ知りたくなりました。
ネットで調べた訳ですが、いろいろと記録があるものです。相撲好きのHPに細かい記録が残されていました。
残念なのは、「日本相撲協会」の公式ページには、過去の力士に関する記録がほとんど無いことです。過去の力士に対する「データベース」を作るべきです。
それでは、「七ツ海」のいろいろなことです。
生まれたのが「昭和2年10月18日」でした。母の記憶では「一級下」と云っていたのですが、まったく違っていました。
初土俵が昭和22年6月になっています。これですと、20歳で初土俵ですから「かなり遅い」ですね。昔は「中学卒業」して直ぐに「新弟子」になっていた時代ですから、20歳は驚きでした。その歳まで、地元で「消防士」をしていたそうです。
本名「野口操」。「四股名」の「七ツ海」は出身地」の「七郷村」の「七」と「四股名」によくある、「山」「川」「海」を組み合わせて、「七ツ海」としたそうです。この情報は母からです。
身長188㎝、体重109㎏。現在の幕内の平均が、記憶によると185㎝160㎏だったと思います。「朝青龍」が「身長・体重」の平均値だそうです。
身長は現在の力士と比較しても、平均より上でしょう。それに対して、体重は軽いですね。今の力士が「重すぎ」ですね。
性格は「真面目」で「おとなしく」、人前で「しゃべる」ことは「苦手」だったようです。これは「母」の情報で、こんな「エピソード」を聞きました。
「七ツ海」が「幕内」に「昇進」した時期に、卒業した中学校で「全校生徒」を前に、「挨拶」をする事になったのです。
その当時、母の弟が教師をしていて、事前に、短く簡単な「挨拶」を「七ツ海」に教えたそうなのです。
しかし、壇上に上がると「完全に舞い上がり」、マイクの前で「固まって」しまったのです。これは、弟から母が聞いた「二次情報」です。
この「真面目」で「おとなしく」、「人前で緊張」する性格が、相撲の「取り口」に出ていたようです。
ある相撲好きのHPで、
『長身で、稽古熱心、将来を期待されたが、足腰が悪いので吊り寄りを果たせず、背中を丸めて低く潜って足を取り、攻められると網打ちを打つ半端相撲で大成できなかった』
と、ありました。しかし、長身なのに、「背中丸めて足を取り」、「攻められると網打ちの半端相撲」とは、やはり「性格」が影響しているようです。
『体格も取り口も部屋の先輩である「大浪」に似ていると言われた』とあったので、その「大浪」を調べると、
『長身に似合わず、土俵の中央から長い手を使っての足取りを得意とした。有名な稽古嫌いで、「強い」のか「弱いのか」判らない不思議な力士」と書かれています。
「強いのか」「弱いのか」判らない「不思議な力士」に「似ていた」とは、これも性格からのようですね。
「七ツ海」、調べると「憎めない」「いい人」に思えてきました。残念ながら「顔写真」は見つけることができませんでした。
星取表を調べていたら、面白い記録を発見しました。
昭和33年夏場所「4日目」に、「柏戸」と対戦し「勝って」います。その頃、柏戸の四股名は「富樫」でした。この場所、七ツ海は「西十両8枚目」で6勝9敗の負け越しでした。
それと、昭和34年夏場所「8日目」に、「大鵬」と対戦し「勝って」います。この場所、七ツ海は「西十両15枚目」で8勝7敗で勝ち越しています。
七ツ海は昭和29年に「幕内」を4場所務めました。その年、最後の場所で「頸椎捻挫」で7日目から「休場」し「3勝5敗7休」で、次の場所「十両」に陥落。
横綱になり「柏・鵬時代」をつくった「二人の名力士」と、十両で「すれ違った」のです。「二人」と「一度だけ対戦」して、「二人」に勝っていたのです。
『偉いぞ! よくやったぞ! 七ツ海!』
大鵬と対戦して「勝った」年、昭和34年名古屋場所で「3勝12敗」で「幕下」に陥落し、翌秋場所は「全休」して「廃業」しました。
昭和22年の初土俵から「12年間」、「七ツ海」は「頑張り」ました。「立派」な「力士」でした。「好き」になりました。
廃業後、平成6年12月24日、67歳でなくなりました。力士としては「長生き」だったと思います。
調べていたら、更新が遅れてしまいました。。。。。。。
幼い頃に一瞬だけ「出会った」、「七ツ海」。いつのころから相撲を始め、どんな顔をして、どんな体格で、どんな人柄で、どんな相撲を取っていたのか、いろいろ知りたくなりました。
ネットで調べた訳ですが、いろいろと記録があるものです。相撲好きのHPに細かい記録が残されていました。
残念なのは、「日本相撲協会」の公式ページには、過去の力士に関する記録がほとんど無いことです。過去の力士に対する「データベース」を作るべきです。
それでは、「七ツ海」のいろいろなことです。
生まれたのが「昭和2年10月18日」でした。母の記憶では「一級下」と云っていたのですが、まったく違っていました。
初土俵が昭和22年6月になっています。これですと、20歳で初土俵ですから「かなり遅い」ですね。昔は「中学卒業」して直ぐに「新弟子」になっていた時代ですから、20歳は驚きでした。その歳まで、地元で「消防士」をしていたそうです。
本名「野口操」。「四股名」の「七ツ海」は出身地」の「七郷村」の「七」と「四股名」によくある、「山」「川」「海」を組み合わせて、「七ツ海」としたそうです。この情報は母からです。
身長188㎝、体重109㎏。現在の幕内の平均が、記憶によると185㎝160㎏だったと思います。「朝青龍」が「身長・体重」の平均値だそうです。
身長は現在の力士と比較しても、平均より上でしょう。それに対して、体重は軽いですね。今の力士が「重すぎ」ですね。
性格は「真面目」で「おとなしく」、人前で「しゃべる」ことは「苦手」だったようです。これは「母」の情報で、こんな「エピソード」を聞きました。
「七ツ海」が「幕内」に「昇進」した時期に、卒業した中学校で「全校生徒」を前に、「挨拶」をする事になったのです。
その当時、母の弟が教師をしていて、事前に、短く簡単な「挨拶」を「七ツ海」に教えたそうなのです。
しかし、壇上に上がると「完全に舞い上がり」、マイクの前で「固まって」しまったのです。これは、弟から母が聞いた「二次情報」です。
この「真面目」で「おとなしく」、「人前で緊張」する性格が、相撲の「取り口」に出ていたようです。
ある相撲好きのHPで、
『長身で、稽古熱心、将来を期待されたが、足腰が悪いので吊り寄りを果たせず、背中を丸めて低く潜って足を取り、攻められると網打ちを打つ半端相撲で大成できなかった』
と、ありました。しかし、長身なのに、「背中丸めて足を取り」、「攻められると網打ちの半端相撲」とは、やはり「性格」が影響しているようです。
『体格も取り口も部屋の先輩である「大浪」に似ていると言われた』とあったので、その「大浪」を調べると、
『長身に似合わず、土俵の中央から長い手を使っての足取りを得意とした。有名な稽古嫌いで、「強い」のか「弱いのか」判らない不思議な力士」と書かれています。
「強いのか」「弱いのか」判らない「不思議な力士」に「似ていた」とは、これも性格からのようですね。
「七ツ海」、調べると「憎めない」「いい人」に思えてきました。残念ながら「顔写真」は見つけることができませんでした。
星取表を調べていたら、面白い記録を発見しました。
昭和33年夏場所「4日目」に、「柏戸」と対戦し「勝って」います。その頃、柏戸の四股名は「富樫」でした。この場所、七ツ海は「西十両8枚目」で6勝9敗の負け越しでした。
それと、昭和34年夏場所「8日目」に、「大鵬」と対戦し「勝って」います。この場所、七ツ海は「西十両15枚目」で8勝7敗で勝ち越しています。
七ツ海は昭和29年に「幕内」を4場所務めました。その年、最後の場所で「頸椎捻挫」で7日目から「休場」し「3勝5敗7休」で、次の場所「十両」に陥落。
横綱になり「柏・鵬時代」をつくった「二人の名力士」と、十両で「すれ違った」のです。「二人」と「一度だけ対戦」して、「二人」に勝っていたのです。
『偉いぞ! よくやったぞ! 七ツ海!』
大鵬と対戦して「勝った」年、昭和34年名古屋場所で「3勝12敗」で「幕下」に陥落し、翌秋場所は「全休」して「廃業」しました。
昭和22年の初土俵から「12年間」、「七ツ海」は「頑張り」ました。「立派」な「力士」でした。「好き」になりました。
廃業後、平成6年12月24日、67歳でなくなりました。力士としては「長生き」だったと思います。
調べていたら、更新が遅れてしまいました。。。。。。。
「東京が戦場になった日 ―なぜ、多くの犠牲者をだしたのか!若き消防戦士と空襲火災記録ー」
(中澤昭著 近代消防社)に、七ツ海のことが書かれていました。
七ツ海(野口操)は年少消防官になった後、東京の城東署に配属され、あまりの大男ぶりに
火事現場へ着ていく刺し子が入らず、二着分を使って専用の刺し子を作ったそうです。
また、力自慢で野口操のポンプさばきを見に、近隣の署から見学者が来るほどだったそうです。
奇しくも後一週間足らずで東京大空襲のあった日ですが、東京大空襲のときは懸命の消火活動を
したがどうにもならず、同僚と灼熱地獄の中を脱出するようすが書かれていました。
昭和21年11月、双葉山の引退相撲を見に行った際、立浪部屋の大島親方から声をかけられ、
角界入りしたそうです。
「若き消防戦士と空襲火災記録ー」(中澤昭著 近代消防社)こんな本があったのですね。探してみます。