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ISO休戦
五木寛之・著“はじめての親鸞”を読んで
GWが始まった。それで来週はお休みとさせて頂きたい。
急激な円安!今や円安で株安!貧すれば鈍す、なのか。もう日本は行き詰ってしまっているのか?
誰や円安になったら景気はヨーなる!と言うたのは。出てこい!このアホ!アホアホ政策、アベノミクスは売国政策だったのだ!日本の経済学者はおとなしの構え・・・存在感を消して潜んでいる・・・バッカみたい!これもアホアホ!
今になって“金利を引き上げたくとも引き上げられないのは、引き上げれば大変な事態になる”などと厚顔にも堂々とぬかしよる!
なんだか与党自民党には“パパ活”スキャンダルで議員辞職した議員もいた。これは派閥幹部に対する批判への報復とも思える話だ。まぁそう考えるのが普通だろう!自民党内が陰湿になっていることの証左ではないのか。
政権不安の岸田首相は本国のバイデン大統領に表敬訪問。“もしトラ”のため、その政敵のトランプ氏に麻生財務相が表敬訪問。これが独立国家の首脳陣であろうか。米国植民地・日本の首脳は御多忙の限りである。こんなあさましい姿は、これまでには皆無だったのではあるまいか。
ところで衆院補選で自民全敗となった、と言っても実態は1敗、2不戦敗なのだが、立民は敵失で3戦全勝だが将来展望なし!?
“今回、岸田首相は島根で勝利を収め、反転攻勢のきっかけとしたい考え。ただ、敗北すれば打撃は大きく、党内で「岸田降ろし」が表面化する可能性もある。”というのが大筋だったろうが、ヤケクソ解散となれば“党中堅は「『選挙の顔』を変えるのが解散の前提になる」と指摘した。”という。
東京では都民ファーストが立てるべき候補者を間違えて敗北!変な政党が選挙運動を妨害して混乱しただけ!だったという。何だか日本国民のアホアホ度が上がって来た感がある。小池氏の国政進出も微妙か・・・もう賞味期限切れ!
維新は躍進できず全敗、大阪ではムダ金ばかり使って、もう限界か? 自民をはじめ日本の政治は混乱の極みか?
さて、今回も親鸞についての本の紹介としたい。但し、著者はひろさちや氏から抜け出して五木寛之氏に替えてみたのだ。五木氏は小説家として著名であるが、“1990年代以降は『大河の一滴』など仏教、特に浄土思想に関心を寄せた著作も多い”。とりわけ親鸞についてはその生涯を小説にしていて、大変造詣が深いことでつとに有名である。そして本編はその親鸞について新潮社から依頼された講演を新書本にして発行されたものなので、五木氏の抱く概括的な親鸞像を余すところなく語っているものとして欠くべからざるものとして読んでみた。以下に、例によって本著書の概要を紹介したい。
【出版社内容情報】
波瀾万丈の生涯と独特の思想―半世紀の思索をもとに、その時代、思想、人間像をひもとく名講義。
史実か伝説か、思想か信仰か。謎だらけの巨人をひと?み! 波瀾万丈の生涯と独特の思想―いったいなぜ、日本人はかくも魅かれるのか? 半世紀の思索をもとに、その時代、思想、人間像をひもとく。平易にして深い名講義。
【内容説明】
非僧非俗、悪人正機、絶対他力、自然法爾…波瀾万丈の生涯と独特の思想をめぐり、これまで多くの学者や思想家が、親鸞について所説を発表してきた。いったいなぜ、日本人はかくも魅かれるのか―大河小説『親鸞』三部作を書き上げた著者が、長年にわたる探究と想像をもとに、その時代、思想、生き方をひもといていく。平易にして味わい深く、時にユーモアを交えた語りの中に稀代の宗教者の姿が浮かび上がる名講義。
【目次】
第一講 親鸞を想う―その時代と人々(律義で論理的な人;すべては推定の親鸞像;親鸞もコーラスボーイだった? ほか)
第二講 親鸞とは何者か―「悪」を見つめて(金子みすゞと橘曙覧のあいだで;われわれはすべて「屠沽の下類」;体制に寄らずアウトカーストの中へ ほか)
第三講 親鸞のほうへ―仏教と人生をめぐる雑話(小説『親鸞』三部作を通して;人生に先の見通しを;仏教の伝播と変容を想う ほか)
【著者等紹介】五木寛之[イツキヒロユキ]
1932(昭和7)年福岡県生まれ。作家。作詞家。早稲田大学露文科中退後、ルポライターなどを経て『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞、『青春の門筑豊篇』他で吉川英治文学賞を受賞。『大河の一滴』『人間の覚悟』『孤独のすすめ』『私の親鸞』『捨てない生きかた』など著書多数。
この本の紹介として、何をどのように紹介しようかと思いつものように、本書の中でのキィ・ワードを取り出して、それを切り口にして少しばかりの私なりの感想を添えて、大変失礼ながらお茶を濁して終わろうとするのだが、この作家の講演はあたかもどれもがキィ・ワードばかりでそれが連綿と続くかのような印象である。その合間に様々な事実やエピソードが織り込まれていて実に巧みである。そのせいか、読み始めて引き込まれてしまい、気付くと読み終えてしまっていたような気さえする。著者は“雑談が好きである”と語っているがなるほどそうか、と思える。なのでフンワリ・ボンヤリとした感想を抱いて読み終えてしまっていて、ここに到るもどう紹介すればよいのか見当が付かない。感想文を書いているよりも先に何だか巧く小説『親鸞』に引き込まれそうである。だが、今のところそうした余裕は当分見込めそうにはない。
取り分けてのキィ・ワードを取り出そうとしても上手くやれそうにもないのだが、それを言ってしまうと投稿できないので何とかしなければならない。そんな気分で書いているというよりも、実は読み直している。だから“書く”のにいつおより倍以上時間がかかっている。何せ浅学菲才なので何卒ヨロシクお願いしたい。
第一講では親鸞の生涯についての五木氏のイメージを語っている。何よりもまず親鸞は“律義で論理的な人”であったとの話となっている。ひろさちや氏も“深く論理的な思想家”と言っていたように思う。ここでは“親鸞の文章には、何となれば、しかるがゆえに、といった言葉づかいが非常に多いのが特徴”だと言っている。また、“親鸞のそういう論理の進め方が西洋哲学の基本形と共通している”ともいう。具体的にどのように“論理的”だったのかは今の私には語るものはなく、今後の“お勉強”によるものとしたい。
“すべては推定の親鸞像”では、親鸞にまつわる伝記の紹介である。“定説にしたがうならば、親鸞には本願寺系の「親鸞伝絵」(本願寺聖人親鸞伝絵)という伝記があります。これは覚信尼(親鸞の末娘*)の孫、親鸞の曽孫にあたる覚如が作り上げたもので、・・・堂々たる一代記”(*筆者注)になっているというのと、江戸時代に“それとは別の流れとして親鸞にまつわる民衆的なフォークロア(伝承)や、変わったエピソードを交えた『親鸞聖人正明伝』”があり、“本願寺系とは対立関係にある真宗高田派専修寺に伝わるもので、近代史学においては『正明伝』はもっぱら偽作あつかいで、蔑視”されていた。“しかし近年『正明伝』には何か大事なリアリティがあり、偽書というあつかいで片づけてしまっていいのか、・・・正統であり権威とされる「伝絵」にはないものが、多々隠されているのではないか”と言われるようになったと紹介している。そしてそれらを史料として書かれた佐々木正の『親鸞始記 隠された真実を読み解く』とそれに触発された梅原猛の『親鸞「四つの謎」を解く』を紹介している。この「四つの謎」は“「出家の謎」、「法然帰依の理由」、「あの結婚の意味」そして「親鸞の悪の自覚とは何か」というスリリングな四つの追跡”からなるとのこと。
“親鸞については大別するとこれら二種類の伝記があるが、今世紀に入ってもなお、独自に研究した成果として次々に新説が発表”されている。“親鸞に関する書籍はこれまで何百冊あるかわからないくらいで、一説によると、個人に関連する書籍の数としては日本最多”といわれていると紹介している。またこれは親鸞は、釈迦や孔子、キリストと同様に自らのことをあまり語らなかったために起きていることではないかと何度か言及していたと思う。
“親鸞もコーラスボーイだった?”とは異様な標題だが、念仏というか声明を唱える上で音楽は非常に重要なものであり、最澄の開山した比叡山の総合大学においても“ものすごく大きな位置を占めていた”と指摘している。“この時代、仏教は鎮護国家のため、朝廷の安定と武運久からんことを祈り、現世利益をもたらすためのもの”であり、“朝廷をはじめ有力者の間では、日照りが続いたり伝染病がはやったり、何かことあるごとに法会という催しを開いて、祈願をすることで問題を解決させよう”としていた。だから恐らく比叡山に居た親鸞も法会の声明に動員させられて“コーラスボーイだった”のではないかということなのだ。今でも演歌の終わりのところで“「アーアーアー」と長くのばすのも演歌ならではの癖ではなくて、比叡山の声明の大ユリのような伝統的な日本人の発声なり歌い方が、かたちを変えて流れて生きている”のかもしれない、という。
第二講では、“親鸞とは何者か―「悪」を見つめて”となっているが、ここでいう「悪」とはいわゆる悪者のことではない。著者は言う。“他の生物に比べて、人類が地球という自分たちのふるさとに対して、進歩なり開発という名のもとにどれほどのことをしてきたか。それを考えると、人類はそもそも深い罪を背負っているのではないか。そしてその中の一員である自分にも存在悪というものがあるだろう。”そういう「悪」のことである。そして金子みすずの詩を引用する。
「浜は祭りの ようだけど 海の中では 何万の 鰯のとむらい するだろう」
“生きることのそうした一面、つまり、人間は必然的に悪を抱えた存在であることを私たちは忘れるべきではない。真宗の悪人正機はそう考えるわけ”だという。“だから親鸞のいう悪人とは、人はすべて悪人であるという意味での悪人であり、いい人と悪い人がいるという意味ではない。人間は全部同じ条件を背後にせおって、そして悪人として日々生きているのだ、そのことを自覚せよ、と。”
そして“われわれはすべて「屠沽(とこ)の下類」”となる。親鸞は「屠は、よろずのいきたるものを、ころし、ほふる(切りさばく)ものなり。これはりょうし(猟師)というものなり。沽は、よろずのものを、うりかうものなり。これは、あきびと(商人)なり。これらを下類というなり」と言ったという。“殺生を直接の生業として生きている人だけが悪を抱えているのではなくて、商人のように生産せずに言葉巧みに利潤を得る者も、間接的には同じなのだということを親鸞は言って”いる。
すべての人は同じに悪を抱えている。だが、それも“念仏すれば人はかならず地獄へ行かずにすむ”ということがアウトカーストの人々(被差別者:不可触賤民)の心を癒した。そして親鸞たちもそのアウトカーストに積極的に触れ合った。
そして“親鸞は「非僧非俗」と宣言”する。“半分はお坊さんで、半分は市民であるという意味にもとれるし、そのどちらでもないという話にも”聞こえる。“流罪になって俗名に戻されたからだ”ともとれる。だが“もう一つその先にいわゆる差別された階層があり、その人たちは市民のうちには入らない。・・・非人と呼ばれる人たちの世界があり、アウトサイダーがいる”のだ。“親鸞は自ら心の中で、自分はそこのアウトカーストであり、良民でもなく柳田国男のいう常民でもなく、僧侶でもないし、まして貴族でもないと宣言したのではないか。” “では自分はどこにいるのか。・・・自ら世間から差別されている禿の世界、かぶろ頭の世界に自分は身を置くという宣言ではなかったか”という。“法然や親鸞、蓮如はじめ真宗の念仏者たちは積極的にそういう被差別の世界に向けて伝道と布教”を続けて行った。“悪所と呼ばれた吉原周辺を取りまくお寺にも浄土真宗が多い” という。“日本の仏教の中では浄土系、念仏系の布教は、社会の最底辺に対する非常に大きな力としてはたらいて”来た。
“城下町とは別に、この国には地内町(*じないまち)が実は非常に多く存在して”いた。(*筆者注)“浄土真宗のお寺は他の宗派とは少し違っていて、地内町と言われる町の生成と発展に非常に深く寄与”したと日本の都市形成史に言及している。
寺ができると人々が集まり、参詣する人がやってくると宿所・多屋ができる。そうすると商人たちも集まってくる。やがて、織物や薬も売買し始める。建築関係や織物や薬関係の職人もやってくる。ところが“中世以後の戦国時代には山賊や盗賊、あるいは様々な支配階級が武力をもって町に攻め込んでくる”ので、寺内町は“寺を中心にして人々の生活圏、住居、さまざまな機構が存在し、その外側を堀で囲み、土塁で囲み、溝を掘り、見張り番を置き、そして門を構え、よそから山賊などが攻めてきても自衛し、追っ払う場所を造る”。“その中では、かつての荘園のように、「自由の検断」といって、ある程度独立した司法権”があった。“場合によっては犯罪者を匿うこともあれば、暴力亭主から逃げ出した女房の駆け込み寺にもなる。あるいはまた楽市楽座のように、そこで行われる売買に関しては、税金を取られないという免税措置もある。そこは宗教原則によって守られた、ある種のアジール(聖域)”だった。
このように“蓮如の時代には吉崎に大きな寺内町ができたのをきっかけに全国に広がった”という。“山科はもちろん、富田林のほうにも、あっちこっちにもあるという具合”だったと。大坂は元々は石山本願寺の地内町。そこへ封建勢力が城を構えて城下町とした。金沢も同様だという。大坂の重要性を最初に認識したのは蓮如だった、としている。
そういえば筆者は羽仁五郎の『都市の論理』に戦国時代に宇治の平等院で全国の地侍達が集まり日本の最初の国会が開かれていたという話があったが、そこに一向宗の力が大きく働いていたとも憶測される。民主主義は都市から始まったのだが、日本の場合そこへ真宗の力が働いていたとなると新たな歴史観につながるのかも知れない。『都市の論理』では都市の連携、“都市連合”の重要性も熱く語っていたように記憶するがここでも、封建勢力の“信長にとって最も厄介で邪魔で恐ろしかったのは、各地の大名ではなかった。信長にとっては寺内町の連合、地下茎のような一向宗の全国ネットワークだった”という。
かつてたくさんの地内町を有したこの国に正しく健全に“民主主義”が育たなかったことが残念でならない。それが現代日本の飛躍を妨げているような気がする。
第三講は、“親鸞のほうへ―仏教と人生をめぐる雑話”となっている。残念ながら、正しく雑に“雑感”となっている。
先ずは『親鸞』三部作の連載紹介。書きながらの連載で大変、ヒヤヒヤだったそう。ブロック紙と地方新聞が揃って小説の連載は史上初めてのこととのこと。“特に第二部では、北海道から沖縄まで四十四紙・同日にすべての地方をカバーできた”という。私の知らなかった話だが、“沖縄は神道でもなく仏教でもなく基本的に祖先崇拝の沖縄独自の信仰が深く根を張っている土地柄”で、“親鸞聖人を描く小説の連載を沖縄の新聞がやってくれたことは新鮮な驚き”だったという。しかも評判が良かったと聞いて“作家冥利に尽きると思った”という。
“法然は、勉強したことを全部捨てなさい”と言ったという。“法然も親鸞もものすごく勉強した”にもかかわらず、そう言ったという。“一文不知の愚鈍の身、無智のともがら、すなわち字も読めないような愚かしき人間に戻れ、痴愚に帰れ、愚か者になれ、ものを学んだことはすべて忘れてしまえといった”という。“そして親鸞も、難しい教理を打ち立てたり、教団を作ろうとしたり、大きな寺を建てよう”とはしなかった、という。どうやら、そもそも法然は“集まるべからず”との遺志だったと。
この後半はよく分かるのだが、前半のことのココロはあまり理解できない。忘れるべきことを学ぶ必要があるのだろうか、と。それに法然の“集まるべからず”との遺志も少々理解に難ありだ。しかし雑談ではそれに触れずに先に進んだ。
その前に、“浄土真宗は真宗大谷派(*東本願寺)と本願寺派(*西本願寺)に分かれているが、それは浄土真宗が世襲の宗教だから”という気懸りな指摘がある。(*筆者注)世襲というのは親鸞が妻帯したから生じた問題ではないのかだが、これもスルーされてしまっている。
その上、いきなり“孤独”の話題となり、「犀の角のごとく独り歩め」という言葉を紹介し、“文法的にはちょっと変かもしれませんが、イメージ豊かで、非常に美しい言葉だ”と思うと言っているが、ドイコト?
これは実は『スッタニパータ』(パーリ語:Sutta Nipāta)という南伝(小乗)仏教の経典にある言葉で、この『スッタニパータ』の58番目の韻文で次のようにうたわれている、という。
学識豊かで真理をわきまえ、高邁(こうまい)、明敏な友と交われ。いろいろと為になることがらを知り、疑惑を除き去って、犀の角のようにただ独り歩め。
この解説として次のような言葉が語られている。周りの人々に囲まれながらも“誰も私に関心を持っていない”と実感する時に人は孤独を強く感じる。そのような人達に、孤独を怖れる必要はないと教えているという。仏教では「悩みの原因となる対人関係から距離をとる」という意味での孤独を勧めると共に「優れた友との交流」を勧めているという。一見して矛盾しているようだが、そのねらいは真に独立した人格を形成するためにはどちらも大切ということだという。法然の“集まるべからず”というのも、そういう背景があったのだろうか。ただ単に“群れるな!”・・・“ロクなコト言い出したり、やりかねない!”トイウコト!
だが、“お勉強したことは全部捨てなさい”がイミフのままだ。
次に、大阪から高野山に向かう途中で御堂筋でのネオンサインに“見通しを。あなたの人生に。”とあったというエピソードを語る。広告主は銀行で、“高齢者に先行き不安を覚えている人に、家や土地を担保にお金を貸します”という類のもの。“それは本来、寺の役割ではないのかな”と感じたという。そして“最近、仏教とは結局何なのか、ということをよく考える”と言っている。
“仏教の三施の一つに無畏施(むいせ)”がある。それは“人々は不安を抱えて生きている。・・・そういうものを取り去って、安らかに、静かに、平和に、喜びを持って生きられる境地に人々を導く”仏教の役割のことであり、“これは一番大事なことではないか”。“自分とは何かということを理解させ、人生に見通しを与える。ブッダのやろうとした仏教はつまるところそういうものだったのではないか。”とも言っている。
孤独で不安の暗闇の中で、フト光が差し目指す場所が明らかになれば、“人は気を取り直してまた歩み続けられる――。・・・目的地が見え、誰か待つ人がいる。それまでとは違って足取りも軽くなる。これが向こうから照らす本願他力、それがありがたいと感じることが安心立命(あんしんりつみょう)というもの”ではないか、と言っている。
そして、仏教と音楽の関係、言葉の韻律の話、第一講の若干の繰り返し。そして明治~昭和期に活躍した真宗大谷派僧侶、仏教思想家の金子大栄氏の「親鸞賛歌」の紹介となる。
「人間を懐かしみつつ、人に昵(なじ)む能わず」
「聖教(しょうぎょう)を披くも、文字を見ず」、「ただ言葉のひびきをきく」
「その人逝きて数世紀、長(とこ)しえに死せるが如し」
“『教行信証』への疑問”では、“親鸞の残した仕事は『教行信証』、すなわち『顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)』という大著があり、これが最大の仕事だと言われ”ている。ところが実は五木氏自身も何度か読み返しては途中で挫折したという。
ある時、その話を道教の世界的権威・福永光司氏に話したとき、「ああ、あれは親鸞の読書ノートですよ」とさらりと言われたと語っている。そして“親鸞の漢籍仏典の読み方というのはかなり強引で、我流の読み方をして意味をとり違えているところも多い”との評だったが、それを本願寺側から福永氏は批判され、「憎まれていた」由。
親鸞が何故それを著したかの真相は、本当のところは分からない。著者独自の考えでは、“親鸞は法然の言葉どおりに、自分を本来の立場に置こうと一生懸命努力したものの、それは無理だということに何度も気付いたのではないか”と言っている。“親鸞がそれまでに自分が比叡山で二十年近く修行し、学び。そうして得た様々な教養なり知というものをひとまとめにして、『教行信証』の中に葬り去ろうとしたのでないか”。
“その後、親鸞は八十歳を過ぎて数多くの和讃を書いた”、和讃というのは七五調の日本人の心情に根差した歌だ。“それは本来の仏教というものに親鸞が立ち戻った姿なのかな、という気がして仕方がない”。“関東の弟子たちの質問に答えて、わかりやすい言葉で手紙で返事を書いたり、あるいは弟子の唯円たちとの会話の中で日常的に語ったようなこと、それらが在りし日の仏陀の姿と重なってくる”と言っている。
そのブッダは何をし、何を語ったのか。ブッダの人生の最終段階、悟りを開いた後、その内容を話すよう梵天から乞われる(梵天勧請:ぼんてんかんじょう)が、それは他人の理解を得られないだろうと最初は迷うが、やがてその内容を人に語り始める。それは“現世の悩みをどう克服していくか、心の不安をどう解消するか。どう安らかに人間らしく自信をもって生きていくことができるか”を語ったのだろう。
“「最上の知恵」の世界に達したブッダは、その後八十歳までの生涯の大半を歩き、語り、問答し、そして旅の最中にクシナガラという雑木林の中で行き倒れの形で亡くなる”。実際に行ってみると、涅槃図にあるような弟子達が居て動物たちまでが集まっているような或いは“物語に出てくるようなものではなく、ただの雑然とした雑木林”だった。だが“むしろその方が感慨が深い”。“ああ、こういう土地で食べ物にあたって下痢をして痛みに苦しんで、ついにここで息絶えたのか、と。”“ありていに言えば行き倒れ”。“今でいう孤独死ではなくても、自然なかたちで、一人死んでいった。そうして終わったブッダの人生に私はものすごく共感するところがある”と言っている。
後は講演での聴衆との質疑応答。
悪人正機説を前に、“イスラム国の悪行”(これは2015年の講演会)に対し親鸞はどう対応したであろうか、というタラレバの質問に対し、“それは何歳の頃の親鸞の思想でしょうか、と聞き返すことがあります。”と言って、“親鸞だって心の中で揺れたりぶれたりしたことはあったりしたでしょう”。それに“仏教の思想の根本は、すべてのものは常に変化する、・・・親鸞も変化し続けているし、十年前にこう言った、十年後はああ言った、とそれらすべてに整合性を求めるのは無意味です。”と一旦言いながら、“ただ、親鸞は悪人こそ救われると言いながら、「薬あればこそ、毒をこのむべからず」とも言っています。・・・いわゆる造悪無碍、救いがあるから何をやってもいいという考え方は間違っていると厳しく戒めている”と指摘している。
阿弥陀如来以外の神仏を親鸞は認めるのか、の質問には“そもそも親鸞は、善光寺や鹿島明神に対する信仰など様々な在来信仰が根深く絡まった関東の土地でも、一挙に旧習を打ち破って阿弥陀如来一仏でいけ、というようあことは言っていません。もろもろの神や仏、諸神諸仏を軽んずべからず、とは親鸞も語り、蓮如もずっと言い続けてきている”と答えている。“浄土真宗のことを、日本には珍しい一神教的仏教という人がいますが、これはニュアンスが違う。むしろ選択的一神教というべきだと”言っている。
確かに浄土真宗にはキリスト教と似かよった部分があるが、“仏教のほうは悲に重点があるような気がする”と言っている。“悲とは、己の無力さがゆえに思わずため息をつく、というような深い感情・・・そんな感じが仏教にはある”と指摘してこの講演会は終わっている。
この本には念仏宗に対する道元の批判する言葉が紹介されていたハズと思っていて、読んでいる時はボーっとしながらも興が起きたような気がしたが、拾い読みでの再読ではとうとう見つからなかった。あれは幻だったのだろうか。
まぁこれで何とか来週はお休みとさせて頂きたい。
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急激な円安!今や円安で株安!貧すれば鈍す、なのか。もう日本は行き詰ってしまっているのか?
誰や円安になったら景気はヨーなる!と言うたのは。出てこい!このアホ!アホアホ政策、アベノミクスは売国政策だったのだ!日本の経済学者はおとなしの構え・・・存在感を消して潜んでいる・・・バッカみたい!これもアホアホ!
今になって“金利を引き上げたくとも引き上げられないのは、引き上げれば大変な事態になる”などと厚顔にも堂々とぬかしよる!
なんだか与党自民党には“パパ活”スキャンダルで議員辞職した議員もいた。これは派閥幹部に対する批判への報復とも思える話だ。まぁそう考えるのが普通だろう!自民党内が陰湿になっていることの証左ではないのか。
政権不安の岸田首相は本国のバイデン大統領に表敬訪問。“もしトラ”のため、その政敵のトランプ氏に麻生財務相が表敬訪問。これが独立国家の首脳陣であろうか。米国植民地・日本の首脳は御多忙の限りである。こんなあさましい姿は、これまでには皆無だったのではあるまいか。
ところで衆院補選で自民全敗となった、と言っても実態は1敗、2不戦敗なのだが、立民は敵失で3戦全勝だが将来展望なし!?
“今回、岸田首相は島根で勝利を収め、反転攻勢のきっかけとしたい考え。ただ、敗北すれば打撃は大きく、党内で「岸田降ろし」が表面化する可能性もある。”というのが大筋だったろうが、ヤケクソ解散となれば“党中堅は「『選挙の顔』を変えるのが解散の前提になる」と指摘した。”という。
東京では都民ファーストが立てるべき候補者を間違えて敗北!変な政党が選挙運動を妨害して混乱しただけ!だったという。何だか日本国民のアホアホ度が上がって来た感がある。小池氏の国政進出も微妙か・・・もう賞味期限切れ!
維新は躍進できず全敗、大阪ではムダ金ばかり使って、もう限界か? 自民をはじめ日本の政治は混乱の極みか?
さて、今回も親鸞についての本の紹介としたい。但し、著者はひろさちや氏から抜け出して五木寛之氏に替えてみたのだ。五木氏は小説家として著名であるが、“1990年代以降は『大河の一滴』など仏教、特に浄土思想に関心を寄せた著作も多い”。とりわけ親鸞についてはその生涯を小説にしていて、大変造詣が深いことでつとに有名である。そして本編はその親鸞について新潮社から依頼された講演を新書本にして発行されたものなので、五木氏の抱く概括的な親鸞像を余すところなく語っているものとして欠くべからざるものとして読んでみた。以下に、例によって本著書の概要を紹介したい。
【出版社内容情報】
波瀾万丈の生涯と独特の思想―半世紀の思索をもとに、その時代、思想、人間像をひもとく名講義。
史実か伝説か、思想か信仰か。謎だらけの巨人をひと?み! 波瀾万丈の生涯と独特の思想―いったいなぜ、日本人はかくも魅かれるのか? 半世紀の思索をもとに、その時代、思想、人間像をひもとく。平易にして深い名講義。
【内容説明】
非僧非俗、悪人正機、絶対他力、自然法爾…波瀾万丈の生涯と独特の思想をめぐり、これまで多くの学者や思想家が、親鸞について所説を発表してきた。いったいなぜ、日本人はかくも魅かれるのか―大河小説『親鸞』三部作を書き上げた著者が、長年にわたる探究と想像をもとに、その時代、思想、生き方をひもといていく。平易にして味わい深く、時にユーモアを交えた語りの中に稀代の宗教者の姿が浮かび上がる名講義。
【目次】
第一講 親鸞を想う―その時代と人々(律義で論理的な人;すべては推定の親鸞像;親鸞もコーラスボーイだった? ほか)
第二講 親鸞とは何者か―「悪」を見つめて(金子みすゞと橘曙覧のあいだで;われわれはすべて「屠沽の下類」;体制に寄らずアウトカーストの中へ ほか)
第三講 親鸞のほうへ―仏教と人生をめぐる雑話(小説『親鸞』三部作を通して;人生に先の見通しを;仏教の伝播と変容を想う ほか)
【著者等紹介】五木寛之[イツキヒロユキ]
1932(昭和7)年福岡県生まれ。作家。作詞家。早稲田大学露文科中退後、ルポライターなどを経て『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞、『青春の門筑豊篇』他で吉川英治文学賞を受賞。『大河の一滴』『人間の覚悟』『孤独のすすめ』『私の親鸞』『捨てない生きかた』など著書多数。
この本の紹介として、何をどのように紹介しようかと思いつものように、本書の中でのキィ・ワードを取り出して、それを切り口にして少しばかりの私なりの感想を添えて、大変失礼ながらお茶を濁して終わろうとするのだが、この作家の講演はあたかもどれもがキィ・ワードばかりでそれが連綿と続くかのような印象である。その合間に様々な事実やエピソードが織り込まれていて実に巧みである。そのせいか、読み始めて引き込まれてしまい、気付くと読み終えてしまっていたような気さえする。著者は“雑談が好きである”と語っているがなるほどそうか、と思える。なのでフンワリ・ボンヤリとした感想を抱いて読み終えてしまっていて、ここに到るもどう紹介すればよいのか見当が付かない。感想文を書いているよりも先に何だか巧く小説『親鸞』に引き込まれそうである。だが、今のところそうした余裕は当分見込めそうにはない。
取り分けてのキィ・ワードを取り出そうとしても上手くやれそうにもないのだが、それを言ってしまうと投稿できないので何とかしなければならない。そんな気分で書いているというよりも、実は読み直している。だから“書く”のにいつおより倍以上時間がかかっている。何せ浅学菲才なので何卒ヨロシクお願いしたい。
第一講では親鸞の生涯についての五木氏のイメージを語っている。何よりもまず親鸞は“律義で論理的な人”であったとの話となっている。ひろさちや氏も“深く論理的な思想家”と言っていたように思う。ここでは“親鸞の文章には、何となれば、しかるがゆえに、といった言葉づかいが非常に多いのが特徴”だと言っている。また、“親鸞のそういう論理の進め方が西洋哲学の基本形と共通している”ともいう。具体的にどのように“論理的”だったのかは今の私には語るものはなく、今後の“お勉強”によるものとしたい。
“すべては推定の親鸞像”では、親鸞にまつわる伝記の紹介である。“定説にしたがうならば、親鸞には本願寺系の「親鸞伝絵」(本願寺聖人親鸞伝絵)という伝記があります。これは覚信尼(親鸞の末娘*)の孫、親鸞の曽孫にあたる覚如が作り上げたもので、・・・堂々たる一代記”(*筆者注)になっているというのと、江戸時代に“それとは別の流れとして親鸞にまつわる民衆的なフォークロア(伝承)や、変わったエピソードを交えた『親鸞聖人正明伝』”があり、“本願寺系とは対立関係にある真宗高田派専修寺に伝わるもので、近代史学においては『正明伝』はもっぱら偽作あつかいで、蔑視”されていた。“しかし近年『正明伝』には何か大事なリアリティがあり、偽書というあつかいで片づけてしまっていいのか、・・・正統であり権威とされる「伝絵」にはないものが、多々隠されているのではないか”と言われるようになったと紹介している。そしてそれらを史料として書かれた佐々木正の『親鸞始記 隠された真実を読み解く』とそれに触発された梅原猛の『親鸞「四つの謎」を解く』を紹介している。この「四つの謎」は“「出家の謎」、「法然帰依の理由」、「あの結婚の意味」そして「親鸞の悪の自覚とは何か」というスリリングな四つの追跡”からなるとのこと。
“親鸞については大別するとこれら二種類の伝記があるが、今世紀に入ってもなお、独自に研究した成果として次々に新説が発表”されている。“親鸞に関する書籍はこれまで何百冊あるかわからないくらいで、一説によると、個人に関連する書籍の数としては日本最多”といわれていると紹介している。またこれは親鸞は、釈迦や孔子、キリストと同様に自らのことをあまり語らなかったために起きていることではないかと何度か言及していたと思う。
“親鸞もコーラスボーイだった?”とは異様な標題だが、念仏というか声明を唱える上で音楽は非常に重要なものであり、最澄の開山した比叡山の総合大学においても“ものすごく大きな位置を占めていた”と指摘している。“この時代、仏教は鎮護国家のため、朝廷の安定と武運久からんことを祈り、現世利益をもたらすためのもの”であり、“朝廷をはじめ有力者の間では、日照りが続いたり伝染病がはやったり、何かことあるごとに法会という催しを開いて、祈願をすることで問題を解決させよう”としていた。だから恐らく比叡山に居た親鸞も法会の声明に動員させられて“コーラスボーイだった”のではないかということなのだ。今でも演歌の終わりのところで“「アーアーアー」と長くのばすのも演歌ならではの癖ではなくて、比叡山の声明の大ユリのような伝統的な日本人の発声なり歌い方が、かたちを変えて流れて生きている”のかもしれない、という。
第二講では、“親鸞とは何者か―「悪」を見つめて”となっているが、ここでいう「悪」とはいわゆる悪者のことではない。著者は言う。“他の生物に比べて、人類が地球という自分たちのふるさとに対して、進歩なり開発という名のもとにどれほどのことをしてきたか。それを考えると、人類はそもそも深い罪を背負っているのではないか。そしてその中の一員である自分にも存在悪というものがあるだろう。”そういう「悪」のことである。そして金子みすずの詩を引用する。
「浜は祭りの ようだけど 海の中では 何万の 鰯のとむらい するだろう」
“生きることのそうした一面、つまり、人間は必然的に悪を抱えた存在であることを私たちは忘れるべきではない。真宗の悪人正機はそう考えるわけ”だという。“だから親鸞のいう悪人とは、人はすべて悪人であるという意味での悪人であり、いい人と悪い人がいるという意味ではない。人間は全部同じ条件を背後にせおって、そして悪人として日々生きているのだ、そのことを自覚せよ、と。”
そして“われわれはすべて「屠沽(とこ)の下類」”となる。親鸞は「屠は、よろずのいきたるものを、ころし、ほふる(切りさばく)ものなり。これはりょうし(猟師)というものなり。沽は、よろずのものを、うりかうものなり。これは、あきびと(商人)なり。これらを下類というなり」と言ったという。“殺生を直接の生業として生きている人だけが悪を抱えているのではなくて、商人のように生産せずに言葉巧みに利潤を得る者も、間接的には同じなのだということを親鸞は言って”いる。
すべての人は同じに悪を抱えている。だが、それも“念仏すれば人はかならず地獄へ行かずにすむ”ということがアウトカーストの人々(被差別者:不可触賤民)の心を癒した。そして親鸞たちもそのアウトカーストに積極的に触れ合った。
そして“親鸞は「非僧非俗」と宣言”する。“半分はお坊さんで、半分は市民であるという意味にもとれるし、そのどちらでもないという話にも”聞こえる。“流罪になって俗名に戻されたからだ”ともとれる。だが“もう一つその先にいわゆる差別された階層があり、その人たちは市民のうちには入らない。・・・非人と呼ばれる人たちの世界があり、アウトサイダーがいる”のだ。“親鸞は自ら心の中で、自分はそこのアウトカーストであり、良民でもなく柳田国男のいう常民でもなく、僧侶でもないし、まして貴族でもないと宣言したのではないか。” “では自分はどこにいるのか。・・・自ら世間から差別されている禿の世界、かぶろ頭の世界に自分は身を置くという宣言ではなかったか”という。“法然や親鸞、蓮如はじめ真宗の念仏者たちは積極的にそういう被差別の世界に向けて伝道と布教”を続けて行った。“悪所と呼ばれた吉原周辺を取りまくお寺にも浄土真宗が多い” という。“日本の仏教の中では浄土系、念仏系の布教は、社会の最底辺に対する非常に大きな力としてはたらいて”来た。
“城下町とは別に、この国には地内町(*じないまち)が実は非常に多く存在して”いた。(*筆者注)“浄土真宗のお寺は他の宗派とは少し違っていて、地内町と言われる町の生成と発展に非常に深く寄与”したと日本の都市形成史に言及している。
寺ができると人々が集まり、参詣する人がやってくると宿所・多屋ができる。そうすると商人たちも集まってくる。やがて、織物や薬も売買し始める。建築関係や織物や薬関係の職人もやってくる。ところが“中世以後の戦国時代には山賊や盗賊、あるいは様々な支配階級が武力をもって町に攻め込んでくる”ので、寺内町は“寺を中心にして人々の生活圏、住居、さまざまな機構が存在し、その外側を堀で囲み、土塁で囲み、溝を掘り、見張り番を置き、そして門を構え、よそから山賊などが攻めてきても自衛し、追っ払う場所を造る”。“その中では、かつての荘園のように、「自由の検断」といって、ある程度独立した司法権”があった。“場合によっては犯罪者を匿うこともあれば、暴力亭主から逃げ出した女房の駆け込み寺にもなる。あるいはまた楽市楽座のように、そこで行われる売買に関しては、税金を取られないという免税措置もある。そこは宗教原則によって守られた、ある種のアジール(聖域)”だった。
このように“蓮如の時代には吉崎に大きな寺内町ができたのをきっかけに全国に広がった”という。“山科はもちろん、富田林のほうにも、あっちこっちにもあるという具合”だったと。大坂は元々は石山本願寺の地内町。そこへ封建勢力が城を構えて城下町とした。金沢も同様だという。大坂の重要性を最初に認識したのは蓮如だった、としている。
そういえば筆者は羽仁五郎の『都市の論理』に戦国時代に宇治の平等院で全国の地侍達が集まり日本の最初の国会が開かれていたという話があったが、そこに一向宗の力が大きく働いていたとも憶測される。民主主義は都市から始まったのだが、日本の場合そこへ真宗の力が働いていたとなると新たな歴史観につながるのかも知れない。『都市の論理』では都市の連携、“都市連合”の重要性も熱く語っていたように記憶するがここでも、封建勢力の“信長にとって最も厄介で邪魔で恐ろしかったのは、各地の大名ではなかった。信長にとっては寺内町の連合、地下茎のような一向宗の全国ネットワークだった”という。
かつてたくさんの地内町を有したこの国に正しく健全に“民主主義”が育たなかったことが残念でならない。それが現代日本の飛躍を妨げているような気がする。
第三講は、“親鸞のほうへ―仏教と人生をめぐる雑話”となっている。残念ながら、正しく雑に“雑感”となっている。
先ずは『親鸞』三部作の連載紹介。書きながらの連載で大変、ヒヤヒヤだったそう。ブロック紙と地方新聞が揃って小説の連載は史上初めてのこととのこと。“特に第二部では、北海道から沖縄まで四十四紙・同日にすべての地方をカバーできた”という。私の知らなかった話だが、“沖縄は神道でもなく仏教でもなく基本的に祖先崇拝の沖縄独自の信仰が深く根を張っている土地柄”で、“親鸞聖人を描く小説の連載を沖縄の新聞がやってくれたことは新鮮な驚き”だったという。しかも評判が良かったと聞いて“作家冥利に尽きると思った”という。
“法然は、勉強したことを全部捨てなさい”と言ったという。“法然も親鸞もものすごく勉強した”にもかかわらず、そう言ったという。“一文不知の愚鈍の身、無智のともがら、すなわち字も読めないような愚かしき人間に戻れ、痴愚に帰れ、愚か者になれ、ものを学んだことはすべて忘れてしまえといった”という。“そして親鸞も、難しい教理を打ち立てたり、教団を作ろうとしたり、大きな寺を建てよう”とはしなかった、という。どうやら、そもそも法然は“集まるべからず”との遺志だったと。
この後半はよく分かるのだが、前半のことのココロはあまり理解できない。忘れるべきことを学ぶ必要があるのだろうか、と。それに法然の“集まるべからず”との遺志も少々理解に難ありだ。しかし雑談ではそれに触れずに先に進んだ。
その前に、“浄土真宗は真宗大谷派(*東本願寺)と本願寺派(*西本願寺)に分かれているが、それは浄土真宗が世襲の宗教だから”という気懸りな指摘がある。(*筆者注)世襲というのは親鸞が妻帯したから生じた問題ではないのかだが、これもスルーされてしまっている。
その上、いきなり“孤独”の話題となり、「犀の角のごとく独り歩め」という言葉を紹介し、“文法的にはちょっと変かもしれませんが、イメージ豊かで、非常に美しい言葉だ”と思うと言っているが、ドイコト?
これは実は『スッタニパータ』(パーリ語:Sutta Nipāta)という南伝(小乗)仏教の経典にある言葉で、この『スッタニパータ』の58番目の韻文で次のようにうたわれている、という。
学識豊かで真理をわきまえ、高邁(こうまい)、明敏な友と交われ。いろいろと為になることがらを知り、疑惑を除き去って、犀の角のようにただ独り歩め。
この解説として次のような言葉が語られている。周りの人々に囲まれながらも“誰も私に関心を持っていない”と実感する時に人は孤独を強く感じる。そのような人達に、孤独を怖れる必要はないと教えているという。仏教では「悩みの原因となる対人関係から距離をとる」という意味での孤独を勧めると共に「優れた友との交流」を勧めているという。一見して矛盾しているようだが、そのねらいは真に独立した人格を形成するためにはどちらも大切ということだという。法然の“集まるべからず”というのも、そういう背景があったのだろうか。ただ単に“群れるな!”・・・“ロクなコト言い出したり、やりかねない!”トイウコト!
だが、“お勉強したことは全部捨てなさい”がイミフのままだ。
次に、大阪から高野山に向かう途中で御堂筋でのネオンサインに“見通しを。あなたの人生に。”とあったというエピソードを語る。広告主は銀行で、“高齢者に先行き不安を覚えている人に、家や土地を担保にお金を貸します”という類のもの。“それは本来、寺の役割ではないのかな”と感じたという。そして“最近、仏教とは結局何なのか、ということをよく考える”と言っている。
“仏教の三施の一つに無畏施(むいせ)”がある。それは“人々は不安を抱えて生きている。・・・そういうものを取り去って、安らかに、静かに、平和に、喜びを持って生きられる境地に人々を導く”仏教の役割のことであり、“これは一番大事なことではないか”。“自分とは何かということを理解させ、人生に見通しを与える。ブッダのやろうとした仏教はつまるところそういうものだったのではないか。”とも言っている。
孤独で不安の暗闇の中で、フト光が差し目指す場所が明らかになれば、“人は気を取り直してまた歩み続けられる――。・・・目的地が見え、誰か待つ人がいる。それまでとは違って足取りも軽くなる。これが向こうから照らす本願他力、それがありがたいと感じることが安心立命(あんしんりつみょう)というもの”ではないか、と言っている。
そして、仏教と音楽の関係、言葉の韻律の話、第一講の若干の繰り返し。そして明治~昭和期に活躍した真宗大谷派僧侶、仏教思想家の金子大栄氏の「親鸞賛歌」の紹介となる。
「人間を懐かしみつつ、人に昵(なじ)む能わず」
「聖教(しょうぎょう)を披くも、文字を見ず」、「ただ言葉のひびきをきく」
「その人逝きて数世紀、長(とこ)しえに死せるが如し」
“『教行信証』への疑問”では、“親鸞の残した仕事は『教行信証』、すなわち『顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)』という大著があり、これが最大の仕事だと言われ”ている。ところが実は五木氏自身も何度か読み返しては途中で挫折したという。
ある時、その話を道教の世界的権威・福永光司氏に話したとき、「ああ、あれは親鸞の読書ノートですよ」とさらりと言われたと語っている。そして“親鸞の漢籍仏典の読み方というのはかなり強引で、我流の読み方をして意味をとり違えているところも多い”との評だったが、それを本願寺側から福永氏は批判され、「憎まれていた」由。
親鸞が何故それを著したかの真相は、本当のところは分からない。著者独自の考えでは、“親鸞は法然の言葉どおりに、自分を本来の立場に置こうと一生懸命努力したものの、それは無理だということに何度も気付いたのではないか”と言っている。“親鸞がそれまでに自分が比叡山で二十年近く修行し、学び。そうして得た様々な教養なり知というものをひとまとめにして、『教行信証』の中に葬り去ろうとしたのでないか”。
“その後、親鸞は八十歳を過ぎて数多くの和讃を書いた”、和讃というのは七五調の日本人の心情に根差した歌だ。“それは本来の仏教というものに親鸞が立ち戻った姿なのかな、という気がして仕方がない”。“関東の弟子たちの質問に答えて、わかりやすい言葉で手紙で返事を書いたり、あるいは弟子の唯円たちとの会話の中で日常的に語ったようなこと、それらが在りし日の仏陀の姿と重なってくる”と言っている。
そのブッダは何をし、何を語ったのか。ブッダの人生の最終段階、悟りを開いた後、その内容を話すよう梵天から乞われる(梵天勧請:ぼんてんかんじょう)が、それは他人の理解を得られないだろうと最初は迷うが、やがてその内容を人に語り始める。それは“現世の悩みをどう克服していくか、心の不安をどう解消するか。どう安らかに人間らしく自信をもって生きていくことができるか”を語ったのだろう。
“「最上の知恵」の世界に達したブッダは、その後八十歳までの生涯の大半を歩き、語り、問答し、そして旅の最中にクシナガラという雑木林の中で行き倒れの形で亡くなる”。実際に行ってみると、涅槃図にあるような弟子達が居て動物たちまでが集まっているような或いは“物語に出てくるようなものではなく、ただの雑然とした雑木林”だった。だが“むしろその方が感慨が深い”。“ああ、こういう土地で食べ物にあたって下痢をして痛みに苦しんで、ついにここで息絶えたのか、と。”“ありていに言えば行き倒れ”。“今でいう孤独死ではなくても、自然なかたちで、一人死んでいった。そうして終わったブッダの人生に私はものすごく共感するところがある”と言っている。
後は講演での聴衆との質疑応答。
悪人正機説を前に、“イスラム国の悪行”(これは2015年の講演会)に対し親鸞はどう対応したであろうか、というタラレバの質問に対し、“それは何歳の頃の親鸞の思想でしょうか、と聞き返すことがあります。”と言って、“親鸞だって心の中で揺れたりぶれたりしたことはあったりしたでしょう”。それに“仏教の思想の根本は、すべてのものは常に変化する、・・・親鸞も変化し続けているし、十年前にこう言った、十年後はああ言った、とそれらすべてに整合性を求めるのは無意味です。”と一旦言いながら、“ただ、親鸞は悪人こそ救われると言いながら、「薬あればこそ、毒をこのむべからず」とも言っています。・・・いわゆる造悪無碍、救いがあるから何をやってもいいという考え方は間違っていると厳しく戒めている”と指摘している。
阿弥陀如来以外の神仏を親鸞は認めるのか、の質問には“そもそも親鸞は、善光寺や鹿島明神に対する信仰など様々な在来信仰が根深く絡まった関東の土地でも、一挙に旧習を打ち破って阿弥陀如来一仏でいけ、というようあことは言っていません。もろもろの神や仏、諸神諸仏を軽んずべからず、とは親鸞も語り、蓮如もずっと言い続けてきている”と答えている。“浄土真宗のことを、日本には珍しい一神教的仏教という人がいますが、これはニュアンスが違う。むしろ選択的一神教というべきだと”言っている。
確かに浄土真宗にはキリスト教と似かよった部分があるが、“仏教のほうは悲に重点があるような気がする”と言っている。“悲とは、己の無力さがゆえに思わずため息をつく、というような深い感情・・・そんな感じが仏教にはある”と指摘してこの講演会は終わっている。
この本には念仏宗に対する道元の批判する言葉が紹介されていたハズと思っていて、読んでいる時はボーっとしながらも興が起きたような気がしたが、拾い読みでの再読ではとうとう見つからなかった。あれは幻だったのだろうか。
まぁこれで何とか来週はお休みとさせて頂きたい。
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